第7話 令嬢の涙と、都会をしのぐグラタン
ミルダの村を、白く冷たい霧が包み込む朝が増えてきた。
北の山々にはすでに雪の帽子が被せられ、村人たちは厳しい冬を越すための薪割りと、根菜の貯蔵に追われている。
石造りの教会の広場には、冬の到来を予感させる冷たく凛とした空気が流れていた。
アデル様が我が家に身を寄せてから、数日が過ぎた。ボロボロだった彼女のドレスは、私が村の裁縫職人に頼んで、動きやすくも上品なウールのワンピースへと仕立て直してもらった。彼女は窓辺に座り、村人たちが助け合いながら冬支度を進める様子を、どこか遠い目で見つめていた。
「……信じられない光景ですわ」
アデル様が、静かに唇を開いた。
「王都では……特に王宮の社交界では、冬は奪い合いの季節でした。誰がより多くの炭を確保し、誰が豪華な毛皮を纏い、誰が最も高価な温室の果実を食卓に並べるか。……そこには、冬を『共に越える』という概念などありませんでしたわ」
彼女の細い指が、カップの中のハーブティーを弄ぶ。
「王宮の食事は、確かに豪華でした。一皿に数カ月分の給金が飛ぶような珍味が並び、大陸一と称されるシェフたちが腕を競う。けれど……」
アデル様の瞳に、影が差す。
「彼らが作るのは、王への忠誠や、貴族たちの虚栄心を満たすための『作品』であって、私の心を温める『食事』ではなかった。……私はいつも、黄金の食器に囲まれながら、凍えるような孤独の中にいたのですわ」
私は、彼女の背負ってきた「都会の孤独」を静かに受け止めた。王宮という、世界で最も華やかで、最も冷酷な場所。そこでは食卓さえもが戦場だったのだろう。
「アデル様。……ここには、王宮のような黄金の食器はありません。けれど、ここには貴方を大切に思う味方と、心まで温めるお食事がありますわ」
私は彼女を勇気づけるため、そして冬への門出を祝うために、今日一番の料理を作ることに決めた。
厨房に立ち、《無限料理庫》を静かに起動する。今夜の主役は、冷え始めた体に最高のご馳走となるグラタンだ。
まずは、ホワイトソース(ベシャメル)作りから。《無限料理庫》から取り出した特製の無塩バターを鍋で溶かし、絹のように細かな小麦粉を加えて、焦がさないよう丁寧に木べらで練り上げていく。そこに、朝採れの新鮮な《聖なる牛のミルク》を少しずつ注ぎ入れる。
「美味しいソースの秘訣は、急がないこと」
ダマにならないよう、滑らかに、滑らかに。やがてソースは、真珠のような光沢を湛えた、とろりと濃厚な乳白色へと仕上がった。
具材には、行商人が村へ届けてくれたばかりの、新鮮な海の幸を贅沢に使う。大粒の帆立、ぷりぷりとした海老、そして冬の訪れを告げる濃厚な牡蠣。それらを白ワインとハーブで軽く蒸し上げ、旨味を閉じ込める。
そこに合わせるのは、数種類のチーズだ。ナッツのようなコクのある《グリュイエール》、とろりと伸びる《モッツァレラ》、そして香りのアクセントとして《パルミジャーノ・レッジャーノ》を削り入れる。
マカロニと具材をソースに絡め、耐熱皿へ。表面にたっぷりとチーズを追い掛けし、オーブンへと運ぶ。
しばらくすると、厨房からチーズが焦げる香ばしい匂いと、海鮮の濃厚な磯の香りが混ざり合って漂い始めた。オーブンの窓越しに見えるソースは、ふつふつと泡を立て、チーズが美味しそうな狐色の焼き色を纏っていく。
「さあ、出来上がりましたわ」
テーブルに運ばれた、熱々のグラタン。 アデル様は、その立ち上る湯気と、黄金色の表面を見つめて息を呑んだ。
「《数種のチーズと新鮮な魚介のマカロニグラタン》ですわ。……火傷に気をつけて、召し上がってくださいまし」
アデル様がおそるおそるフォークを入れ、一口分を掬い上げた。とろりと伸びるチーズ。それに絡まる、純白のソース。彼女がそれを口に運び、ゆっくりと咀嚼した瞬間——。
「っ……!」
アデル様の頬が、薔薇色に染まった。濃厚なホワイトソースの優しさが、まず彼女の舌を包み込む。続いて、噛み締めた帆立から溢れ出す海の滋味。そして、数種類のチーズが織りなす重厚なコクが、彼女の全身に温かな活力を送り込んでいく。
「……なんて、こと……」
アデル様の瞳から、一粒の涙が零れ落ち、グラタンの皿の端で光った。
「王宮のシェフたちは、確かに完璧な味を作りました。……でも、ルシア、貴方の料理には……彼らには決して真似できないものがあるわ。……それは、私という人間を、今ここで救おうとする『愛』ですわ」
彼女は、もう一口、また一口と、愛おしそうにグラタンを運ぶ。
「王宮のどんな高価な料理よりも、この辺境の村で頂く一皿の方が、ずっと……ずっと価値がありますわ。……私、やっと分かりましたの。……私が本当に求めていたのは、黄金の椅子ではなく、この温かな食卓だったのだと」
アデル様は、最後の一口を飲み込むと、私を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。それは、王宮の令嬢としての「仮面」ではない、一人の女性としての、心からの笑顔だった。
「ルシア。……私、この村に留まりたい。貴方の側で、この温かさを守る手伝いをさせてほしいの。……もう、あんな冷たい都会には戻りたくありませんわ」
「ふふ、もちろんですわ、アデル様。……ここでは誰もが、貴方の味方ですもの」
その言葉に、アデル様は子供のようにこっくりと頷いた。ハクが満足そうに彼女の足元で尾を振り、ミナが「アデルお姉様も一緒だね!」とはしゃいでいる。
王都の権威も、贅沢も、ここにある「一皿の幸せ」の前では何の意味も持たない 。 辺境の冬は厳しいかもしれない。けれど、私たちの心は、この温かなグラタンのように、決して冷めることはないのだ。
都会をしのぐ最高の贅沢は、この小さな村の、小さなキッチンの中にあった。
つづく




