第6話 森の令嬢と、秘密のフォンダンショコラ
ミルダの村の復興が軌道に乗り始めた頃、私はハクを連れて「精霊の吐息」の森へと足を運んでいた。
目的は、秋の深まりとともに熟した野いちごやブルーベリーを摘むためだ。
森の空気はひんやりと冷たく、足元の落ち葉がサクサクと心地よい音を立てる。
「ハク、今日はあちらの方を探してみましょうか」
私が指差した先、ハクが突然、耳をぴんと立てて低い唸り声を上げた。次の瞬間、茂みの奥から一人の女性が飛び出してきた。
「っ……どいて、くださいまし!」
それは、見るからに場違いな装いの令嬢だった。本来ならば王宮の舞踏会で輝いているはずの、絹のドレス。しかし今やその裾はボロボロに裂け、あちこちに泥が跳ねている。金色の髪は乱れ、青い瞳には強い恐怖と、それを覆い隠そうとする意地が混ざり合っていた。
彼女の背後から、下卑た笑い声を上げて三人の男たちが現れる。
「逃げても無駄だぜ、アデル様。伯爵家が取り潰された今、あんたを助ける奴なんてどこにもいねえんだ」
アデルと呼ばれた令嬢は、唇を噛み締めて立ち尽くした。
「……触れるな、下郎。私はラフィーネ家の誇りを捨ててはおりませんわ」
その言葉とは裏腹に、彼女の足は震えている。私は静かに一歩前へ出た。ハクが私の横で、牙を剥き出しにして威嚇する。
「そこまでですわ、皆様。私のキッチンの裏庭で、あまり無作法なことはなさらないで」
賊の一人が私を見て鼻で笑った。
「あぁん? なんだこの女は。料理人か? 邪魔するならお前もまとめて売って——」
その言葉が終わる前に、私は《無限料理庫》から、重厚な鉄のフライパンを召喚した。
「《シーズニング・バースト》——刺激的なお仕置きですわ」
フライパンを軽く一振りすると、そこから不可視の魔力とともに、超高濃度のスパイス粉末が散布された。
「ぎゃああ! 目が、鼻が痛ぇぇ!」
「何だこれ、息ができねぇ……!」
のたうち回る男たちを、ハクが一喝して森の奥へと追い払う。静寂が戻った森の中で、アデル様は呆然と私を見つめていた。
「……あなた、何者……? 王宮の魔導騎士でもないのに……」
「ただの料理人ですわ。さあ、そんな格好ではお風邪を召します。私の家まで来てくださいまし」
村の小さな家。暖炉には火が入り、パチパチと薪がはぜる音が響いている。ミナが用意してくれた乾いたタオルで身を包み、アデル様はソファの端に小さくなって座っていた。その表情は、先ほどよりもずっと硬く、心を閉ざしているように見える。
「……私は、王宮の陰謀で家を追われた身ですの。私に関われば、貴方たちまで……」
「そんなこと、お腹が空いている時には考えなくてよろしいのですよ」
私は彼女の言葉を遮り、厨房に立った。今、彼女に必要なのは、空腹を満たす食事だけではない。凍りついた心を芯から溶かし、誰かに守られているという安心感を与える「甘美な魔法」だ。
私は《無限料理庫》から、最高級の《カカオ・ド・オリジン》と、黄金色の《無塩発酵バター》を取り出した。チョコレートを細かく刻み、バターとともに湯煎にかける。
「……いい香り」
アデル様が、ふと顔を上げた。
艶やかな黒い輝きを放つチョコレート液。そこに、新鮮な卵と少量の砂糖、そして絹のように細かく挽いた粉をさっくりと混ぜ合わせる。型に流し込み、オーブンへ。
待っている間、私は森で摘んできたばかりのベリーを小鍋にかけ、少しの洋酒と蜂蜜で煮詰めていった。甘酸っぱい、華やかな香りが部屋中に広がる。
「お待たせいたしましたわ」
焼き上がったばかりの、小さなケーキ。その横に、真っ赤なベリーソースを添えて、私はアデル様の前に差し出した。
「《とろける温かなフォンダンショコラ、ベリーのソースを添えて》ですわ。……アデル様、フォークを入れてみてくださいまし」
彼女はおずおずと銀のフォークを手に取り、ケーキの端に刃を入れた。その瞬間、カリッとした表面を突き破り、中から熱々の、濃厚なチョコレートソースが、まるで溶岩のようにとろりと溢れ出した。
「わあ……っ」
アデル様の瞳が、驚きで丸くなる。
一口。その漆黒のソースが彼女の舌を包み込んだ瞬間、彼女の肩から、すっと力が抜けていくのが分かった。カカオのほろ苦さと、バターのコク。そして、溢れ出した熱いチョコが、彼女が必死に守ってきた「冷たい孤独」を物理的に溶かしていく。
「……温かい。……信じられないほど、優しくて……甘い……」
続いて、彼女はベリーのソースを絡めて口に運んだ。
「ベリーの酸味が、チョコレートの重さを消して……まるで、暗闇の中に光が差したみたいですわ」
アデル様の瞳に、じわりと涙が溜まり、やがてそれは一筋の雫となって頬を伝った。 彼女は、王宮で常に完璧であることを求められ、陰謀に巻き込まれてもなお、弱音を吐かずに戦ってきたのだ。
「私……本当は、怖くて仕方がなかったの……。誰も信じられなくて、一人で、どうすればいいか……」
「もう大丈夫ですわ、アデル様。ここでは、誰も貴方を縛りません。……美味しいものを食べて、ゆっくり休めば、必ず道は見えてきます」
私はそっと、彼女の冷えた手に自分の手を重ねた。彼女はもう、私を拒まなかった。
窓の外では、ミナとハクが楽しそうに追いかけっこをしている。かつて孤独だった私が、今、こうして誰かの心を溶かす一皿を作っている。料理人として、これ以上の幸せはない。
アデル様は、最後の一口を大切そうに飲み込むと、今までで一番綺麗な、けれど少しだけ気恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「……ルシア。……もう一つ、頂いてもよろしいかしら?」
「ふふ、もちろん。お代わりはたくさんありますわ」
大人女子が求めるのは、非日常の華やかさの中にある、真実の優しさと安らぎ 。フォンダンショコラの魔法が、また一人、迷える魂を救い出した夜だった。
つづく




