448●戦争映画としての『風の谷のナウシカ』⑮まとめ4:真の主人公は巨神兵! 中東の某国、Aは無くてもBCの恐怖は?
448●戦争映画としての『風の谷のナウシカ』⑮まとめ4:真の主人公は巨神兵! 中東の某国、Aは無くてもBCの恐怖は?
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●王蟲暴走作戦の本質。Aが無ければBCだ!
クシャナに奪われて空輸された巨神兵。
それが風の谷にあることを知ったペジテ市長は、王蟲暴走作戦(仮称)を発動します。
怒りに狂った王蟲の大群を風の谷へ突入させ、住民全員の命と引き換えにトルメキア侵攻軍を撃破殲滅して、巨神兵を取り戻すつもりですね。
これは“ペ・ト戦争”(仮称)に何ら関係の無い、それも他国の非戦闘員を多数巻き込むことが必至の、残虐な作戦です。
もはや虐殺者たらんとするペジテ市長、その冷酷無比。
巨神兵を復活させてプロトンビームで暴れさせるクシャナも冷酷無比ですが、王蟲暴走作戦も、その冷酷無比さでは、同じようなものです。
しかしペジテ市長は反論するでしょう。
「では、どうしろというのだ?」と。
ペジテ市は蟲作戦(仮称)で滅び、ペジテ市の側にはトルメキア軍に対抗できる通常戦力はほとんど残されていないのです。
王蟲暴走作戦は、我々にとって、取りうる最後の手段なのだ……というのが、ペジテ軍の偽らざる現実。
これ以上失うものがない弱小敗北軍に残された、おそらく唯一の“貧者の主力兵器”、それが王蟲暴走作戦だということは、客観的な事実でしょう。
つまり……
『風の谷のナウシカ』を戦争映画として俯瞰し、巨神兵は兵器であり、王蟲暴走作戦も兵器であると捉えれば、この作品に描かれているのは、戯画化された“現代の非対称戦争”であることに気づかされますね。
巨神兵は、核《A》兵器。とすれば……
王蟲暴走作戦は、生物化学《BC》兵器なのです。
21世紀の私たちの常識では、生物《B》兵器は、強毒化された病原体。
敵地にばらまかれば、2020年の新型コロナの災厄と同様の大規模パンデミックが発生すると思われます。
いや、コロナ禍じたい、「じつは開発中の生物兵器が漏れたのではないか?」といった都市伝説? もネットでささやかれましたし。
そして化学《C》兵器は、毒ガス。
第一次大戦にベルギーのイープルで実際に使われ、イペリットガスという異名を冠されることになったマスタードガスが有名です。
使われると実際にどうなるか、1995年の地下鉄サリン事件がその危険性と残虐性を物語っていますね。
王蟲暴走作戦はどうかと言うと、極小のウイルスやバクテリアではなく、超デカブツの王蟲という生物が驀進して、人間たちを踏み潰します。
無差別で大量殺戮をなすという特徴は、病原体をもちいた生物《B》兵器と変わりません。
そして王蟲の暴走から生き残っても……
大量の胞子が撒き散らかされて、そこに腐海が出現します。
毒性の瘴気が地域を覆ってゆきます。毒ガスさながらに。
王蟲暴走作戦は、生物と化学、両者の特徴を併せ持った、れっきとした生物化学《BC》兵器だったと解釈されます。
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●2026年、現実の恐怖。悪魔のBC。
西暦2026年3月現在、中東のとある地域大国は、欧米系の軍事大国に圧倒的な戦力で攻められ、見るからにボコボコにされています。
ほぼ一方的に、この中東某国はやられっぱなしですね。
欧米系の超大国の指導者は「無条件降伏を求める」とまで豪語しました。
そんなことを言うと、戦争は終わりません。
しかし石油輸出に不可欠な海峡が事実上封鎖されて、ガソリンの値段が高騰したとたん、欧米系の超大国の指導者は「我々が勝った。戦争はすぐに終わる」と方針転換しました。
ガソリン価格の高騰は一旦沈静したようですが、散々ボコられている中東某国が引っ込むはずがありません。
「戦争の終わりを決めるのは我々だ」と言い返します。
それもそうで、平和交渉を続けている最中に事前の宣戦布告無しで突然に首都を爆撃され、指導者を多数まとめて殺されたのですから、相手に頭を下げて命乞いする筋合いは全くありません。
これは、長引くなあ……と、世界各国は頭を抱えているところ。
もう、ろくなことがありません。
形式的に一方が「戦争は終わった」と宣言しても、事態は終わるはずもなく……
しかし、このまま中東某国を攻めて攻めて攻めて攻めて攻めて追い詰めてしまったら、どうなるのでしょうか。
中東某国がボロボロになって、軍事的に敗北したとしても……
非対称戦争としてのゲリラ戦が、姿の見えないインビジブル・ウォーとなって私たちの前に、亡霊のように現れるのではないかと思います。
そこで気になるのは、いよいよ国家が追い詰められた時の最終反撃手段として、中東某国が生物化学《BC》兵器を保有しているかどうか……という問題です。
核《A》兵器ばかりがクローズアップされていますが、生物化学《BC》兵器はどうなのか。
情報が全然と言っていいほどありませんので、かえって恐怖感が増してきます。
21世紀でも実際に使われ、ウィキペディアには下記の記述がありますね。
「グータ化学攻撃はシリア内戦の中、2013年8月21日シリアのグータで起こった化学兵器による攻撃事件である。シリア反政府軍の支配下のダマスカス近郊の2ヶ所の地区において、サリンを搭載したロケットが打ち込まれた。死者数は推定によれば最低281人から1,729人にのぼる」
ただし、誰が使ったのか、罪を認めた加害者はいないわけです。
今後、生物化学《BC》兵器が隠密のテロ作戦として、どこかで使われることが無いように祈りたいものですが……
生物化学《BC》兵器って、核兵器と違って、密閉容器に詰めれば、スーツケースに入れて、あるいは旅行者のポケットに入れて、あるいは缶詰や医薬品や健康食品などの缶や瓶やチューブに入れて輸出を偽装すれば、世界のどこへでも容易に運搬できるのではないかと想像されます。
兵器として、広範囲に、かつ長期間影響を残すのは、やはり生物兵器ですね。
コロナ禍たけなわの2020年、4月16日付けのJBpressの記事にはこうあります。
……新型コロナウイルス感染のために緊急出動が不可能となってしまっている米海軍空母はセオドア・ルーズベルトだけではない。横須賀を母港としている「ロナルド・レーガン」、シアトル郊外のブラマートンで出動調整中であった「カール・ビンソン」と「ニミッツ」の3隻の乗組員にも感染者が発生している。
このように大平洋艦隊の空母が4隻も新型コロナウイルス感染に見舞われたため、当面の間は東アジア海域に米海軍空母打撃群が緊急出動することは不可能な状況となっている。(北村 淳:軍事社会学者)……
現代の無敵艦隊、米海軍空母打撃群に史上最大の打撃を与えた、コロナウイルス。
もしもこれが生物兵器だったならば、巨大空母を無力化する唯一の実績をものした“実用兵器”ということになります。
しかも、一旦量産されたら、圧倒的に安価な大量殺戮兵器。
生物兵器は、どこの誰が仕掛けたのか全くわからない、サイレントでインビジブルな脅威となります。
使用したら自国も滅ぶかもしれない自殺的なシロモノですが、要は戦争当事国が「そこまで追い詰められるか否か」でしょう。
それが使われるほどに戦況がエスカレートしないことを願うばかりです。
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●クシャナ一生のポカミス。
『風の谷のナウシカ』のクライマックスは、なんといっても、風の谷に迫る王蟲の群れの暴走を、ナウシカが一人で、命を捨てて防ぐシーン。
聖なる人の死とその復活を髣髴とさせる、感涙の名場面ですね。
ペジテ軍が生物化学兵器として実戦に投入した“王蟲暴走作戦”でしたが、ナウシカの尊い自己犠牲によって阻止されました。
しかしその直前、皮肉なことに“王蟲暴走作戦”は意外な大戦果を上げました。
王蟲の大軍を目の当たりにしたクシャナが焦りのあまり、まだ孵化途中である巨神兵の出撃を決意したことです。
「早すぎます!」と諫めるクロトワを無視して、「今使わねばいつ使うのだ」と決断したクシャナでしたが、この決断をして、巨神兵を喪失する結果となりました。
若いころに蟲に襲われて左手を失い、おぞましい傷を負った記憶がトラウマとなっていたのでしょう。迫りくる蟲の恐怖にクシャナは耐えきれず、ついに巨神兵に頼ってしまったものと思われます。
クシャナは外見上、あくまで冷徹な司令官を演じていますが、内心は精神的にズタズタの気分だったのでしょうね。
見た目は平静を装っても、彼女の鉄壁のメンタルが、ついに崩壊した瞬間です。
そして巨神兵が崩れ去った瞬間、この戦争は終わりました。
“ペ・ト戦争”のそもそもの勃発原因が、巨神兵の奪い合いにあったのですから。
クシャナは自分のミスで、戦争のオウンゴールを決めてしまったのです。
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ということは、戦争映画として『風の谷のナウシカ』を観賞した場合、真の主人公は“巨神兵”だったのですね。
巨神兵をして戦争が始まり、その死をもって、この戦争も死んだのです。
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クシャナは焦って慌てて早期に巨神兵を実戦投入した自分のポカミスを、おそらく一生の間、悔やみ続けたことでしょう。
巨神兵を使わずにしばらく待てば、ナウシカが王蟲の暴走を止めてくれたはず。
そうすれば結果的に、完成した巨神兵はクシャナのものとなり、クシャナは一人勝ちを手にして、“ペ・ト戦争”の最終的な勝者になれたはず。
クシャナの栄光と敗北を紙一重で分けたのは、蟲への恐怖。
彼女自身の心の奥底のトラウマだったのです。
そのトラウマの原因となる伏線として、“蟲に襲われた過去”を彼女に担わせていた、その演出の巧みさ。
脚本家としての宮崎駿監督の慧眼に改めて驚かされますね。
この点において、戦略的にバカげた大量破壊行為でしかない王蟲暴走作戦は、戦術的に貴重なポイントを稼いだことになります。
これだけは、ペジテ市長の、唯一の“怪我の功名”かもしれません。
すなわち、クシャナの“焦り敗け”を導いたこと……
「敵の焦りに乗じて、ミスを誘って勝利を得た」のです。
弱者が強者から戦術的勝利をもぎ取る、数少ない成功例のパターンでした。
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●ペ・ト戦争の結果。そこに勝利無し。
巨神兵の滅亡によって“ペ・ト戦争”(仮称)は戦う意義を失い、自動的に終息しました。
結果は、どうだったでしょうか。
ペジテ市国は、その首都を失陥し、国土の大半は焦土と化し、市民はほとんどが殺されて、国家として事実上消滅。ペジテ市長以下、生き残った貴族たちは難民となりました。
トルメキア帝国は、ペジテ攻略軍が蟲作戦で全滅。多数のバカガラスや戦車も失いました。巨神兵の空輸に失敗して、大型船も一機喪失。加えてクシャナ直轄の親衛隊も、コルベット一機とバカガラス四機とともに、ほぼ全滅。
残ったのは、ペジテ市へ向かう途中で風の谷へ引き返したと思われるバカガラス一機だけとなり、帝国辺境派遣軍の前進基地には少なくとも九機の大型船とその兵力が控えてはいるものの、戦術的にも戦略的にも大打撃です。
今回の作戦は完全に失敗でした。
風の谷はナウシカの自己犠牲で全滅を免れましたが、クシャナの侵攻軍によって、ジル王が暗殺され、耕作地のかなりの部分が強制着陸で荒廃し、胞子の侵入によって、水源地を守る貴重な森を焼却することになりました。
さらに侵攻軍に叛乱したことで数十人規模の犠牲者を出したことと思われます。
問題は、農産物の収穫が当面激減するであろうこと。
風の谷は来年に向けて、飢餓の危機に直面したはずです。
ペジテ、トルメキア、風の谷、いずれも深刻な打撃と人命の損失をこうむって、この事件は終わりました。
ただひたすらに、人・物・土地を失っただけなのです。
「戦争に勝利など無い」のですね。
ただ、救いとしては、ナウシカの自己犠牲によって、風の谷の住民の全滅が、阻止されたこと。
ナウシカに、戦争そのものをやめさせる力はありませんでしたが、その行動力と信念は、“戦争の被害を防ぐ”ことに成功しました。
ペジテの女性たちがナウシカを解放し、駆けつけたガンシップのミトがコルベットを撃破したことで、ナウシカの生命を引き換えにする悲劇的な行動ではあったものの、“戦争の被害を防ぐ”ことは、とにかくできたのですね。
それも、ナウシカ一人の壮挙でなく、ペジテの女性たちなど他者の思いと協力が結集してのこと。
振り返れば、これが、作品中の戦争における唯一の“勝利”と評価されましょう。
「戦争に勝利など無い。戦争の被害を防ぐことが勝利だ」
これが、『風の谷のナウシカ』から読み取れる、戦争に関する明白な結論です。
素晴らしいメッセージだと思うのです。
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●どうすれば“戦争が終わる”のか。鮮やかな解答。
さて、作品のクライマックスにおける二人の女傑、ナウシカとクシャナの行動原理に注目してみましょう。
両者の行為にはこのような違いがあります。
ナウシカがしたことは「戦争の被害を防止した」行為。
戦争をやめさせたのではなく、“戦争の被害をゼロにした”ことです。
そして……
クシャナがしたことは「戦争の原因を消去した」行為。
本意では無かったけれど、はからずも焦って判断を誤った結果、このたびの戦争の根本原因である巨神兵を喪失させ、“戦争の原因をゼロにした”のですね。
平和を実現するためには、とにかく「戦争行為を終わらせる」しかありません。
そのための二つの条件が、ここに示されています。
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一、戦争の被害を防止する。
二、戦争の原因を消去する。
そうすれば、戦争は終わり、平和が訪れる。
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『風の谷のナウシカ』は、「平和とは何か」を語るにあたって、ありがちな「戦争反対!」といったスローガンに終始するのでなく、具体的な手法をキッチリと要約し、提示してくれたと思います。
もっとも、私たちの世界の現実では、「一、戦争の被害を防止する。二、戦争の原因を消去する」の二点が満たされても、「自分の権力欲のためだけに、戦争を続ける」という独裁者がおられるようです。
「個人的な事情で、なんとしても戦争を推進する」人物が国家を動かしておられたのでは、戦争は終わりようがありません。
一人の個人がそのまんま、隠れた“戦争の原因”になっているからですね。
この場合「二、戦争の原因を消去する」には、独裁者ご本人が消去、すなわち、いなくなるしかないのですが……
ヒトラーが、そうでしたね。
それにしても「平和の要素」を上記の一と二の二点にまで絞ることで、明快な解答を示してくれた『風の谷のナウシカ』は、世界に誇るべき、世紀を超えた名作である! と、自信をもって語れるのではないでしょうか。
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●正しい指導者は、故意に殺さない
最後に、二人のヒロインの役割分担の見事さです。
一般的に「ナウシカは善、クシャナは悪」という位置づけになると思います。
二人のキャラクターの、決定的な違いは、何でしょうか?
実にわかりやすく描かれています。
ナウシカは殺さない、クシャナは殺す、という違いです。
とはいえ、風の谷の王城にトルメキア軍が侵入し、殺された父王を目の当たりにしたとき、ナウシカは激高して殺しまくりましたね。
「なんてやつだよ、み~んな殺しちまいやがった」とクロトワが呟く、あの場面ですね。
このときナウシカは「焦りのあまりミスを犯した」状況だったのです。
ユパの箴言で自分を取り戻して、ナウシカは心底から悔やんだはず。
自分が行動を間違えれば、その報復に村人が殺されるだけだと。
以降、ナウシカは心を入れ替えて、殺すのをやめます。
アスベルのガンシップに射撃される渦中、身を晒して「もう殺さないで!」と叫んだのが、そうですね。
それから後も、ナウシカは一切、殺しません。積極的に武器を持ってバトルすることもありませんでした。
唯一の例外として、「私たちを運びなさい!」と、機関銃を抱えて、砂地に墜ちた飛行ガメの兵士を脅す場面はありましたが、脅しただけで、弾は人に当ててはいませんね。
ナウシカがセーラー服を着ていたら「カ・イ・カ・ン」と合いの手を入れてあげたい場面ではありますが……
これに対して、クシャナは終始殺しまくり。
酸の湖の“星船”に逃げ込んだ風の谷の住民を皆殺しにすべく「しょせん血塗られた道だ」と進撃を命じるあたり、じつに“殺し慣れた”様子がうかがえます。
ということで、作品のキャラクターたちを代表する「殺さないヒロイン:ナウシカ」と「殺すヒロイン:クシャナ」が見事なまでに善悪の双璧をなしていますね。
作品は、人の善悪に関して、こう定義しているのです。
「正しい人は、故意に殺さない」
ただしナウシカもクシャナも、作品での社会的地位は、一族や軍の“指導者”です。
『風の谷のナウシカ』は、厳密には、こう告げているのですね。
「正しい指導者は、故意に殺さない」
戦争の理由は、後からどうにでも付けられますので、ともあれ「戦争を始める」指導者は、“故意に人を殺す”主体となることを決断しているわけです。
自身が殺人者になることを、どのように理解しているのか。
そんな指導者の「正しさ」を私たちはよく見極めなくてはなりませんね。
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●善悪の混然一体を見せた『太陽の王子ホルスの大冒険』
なお余談ですが、「善:殺さない。悪:殺す」という対照的な要素は、現実社会ではクッキリと区別されるのでなく、一人の人間に共有されているものですね。
“ジキルとハイド”の正体がそうであるように。
実は宮崎駿監督が関わられた作品で、『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968)のヒロイン、“悪魔の妹”とされる美少女ヒルダはまさにこの、善悪の両面性を混然一体に備えた、物凄いキャラでした。
いやもう、鮮烈を極めた自我分裂少女と申しますか、ここまで強烈なヒロインは類を見ません。60年近く過ぎた21世紀の今でも、空前絶後の美しさと妖しさです。
主人公の少年ホルスと最初に出会う場面からして……
ヒルダは不老不死なので、十数年前にホルスの故郷の村に悪魔グルンワルドの尖兵として潜入、村人たちを皆殺しにして、ホルスの母親を殺した極悪人の魔法少女であると推理されます。
ヒルダはそのことを承知していて、配下の銀色狼を使ってホルスをおびき出し、偶然のボーイ・ミーツ・ガールを演出しました。
目的は、ホルスが寓居している村を滅ぼし、ホルスを自分の実質的な彼氏として仲間に加えること。
そうしてお話は大展開してゆき、ホルスが暮らしている村の殲滅作戦を進める過程でホルスに本気で惚れてしまったため、ヒルダの心は壮絶な葛藤に苦しむことになります。
なんといっても、ホルスの母親だけでなく歴史的に数千数万の人間を大量殺戮してきた極悪魔法少女が、ホルスを本気に好きになったら、自分の罪をどのようにしてあがなえばよいのでしょう。
歩く大量破壊兵器が、教会で懺悔するようなもの。
「メンゴ!」の一言で済むはずがありません。
悲壮な自己断罪の結果として「ホルスに斬りかかることで、ホルスに殺してもらう」事を選んだのではないかと思います。
この時、ホルスを放置したら、確実に悪魔の兄グルンワルドを殺しに行くところでした。
悪魔の“妹”である自分がホルスを倒せば、兄グルンワルドは救われます。
ただし、そうすれば、自分の中の“悪”を肯定することになります。
ここでホルスを殺せば、一生、でなく不老不死なので永遠に、自分の罪にさいなまれて苦しむことになる、それでいいの? それとも?……と、良心の板挟みになりながら、ヒルダは剣を抜きます。
無敵の魔法力を備えたヒルダは、斬りかかったら簡単にホルスを殺せます。
しかし愛しているので、どうしても殺せない。
剣の切っ先はホルスを逸れ続けます。
その心が「お願いだから私を殺して!」と願っているからです。
コマ送りにしてみると、ヒルダの心の哀しさ、苦しさが垣間見えるような。
サラッと観ると、ただ「ヒルダはホルスに斬りかかって敗けた」だけの場面に見えますが、そんな単純なお話ではないことは確かです。
観ていて泣けてくるほどに切ない、善の自分と悪の自分のせめぎあいが、オトナの視点で観賞すると、浮かび上がってくるわけです。
結局ヒルダは不老不死の魔力を有する“命の珠”を自ら放棄し、厳寒の吹雪の荒野を一人さまよって、自死することを選びます。
しかし、なぜか都合よく生き返って、ホルスと再会し、幸せに……
ちょっと待った!
魔力の珠を手放して凍死したヒルダが生き返ったってことは、彼女が本来的に魔女であって、先天的な不老不死の魔法力をいまだに保持しているということですぞ!
魔法力という爆弾を抱えた、善悪の強烈な二面性を持つ美少女が、自分の心の奥底に重罪の重荷を押し隠して、人類社会に潜んでいった……
そう考えることもできるラストシーンなのですね。
彼女はいつか、かつて悪魔のもとで遂行してきたように、人類を滅ぼす側に回るかもしれない……と。
そういった、オトナをうならせる心理描写が伏線に怒涛の如くうねりまくる作品を、当時は小学生のお子様向けに公開したのですから、さすがにヒットしなかったのは無理もありません。
今、オトナのあなたが未見でしたら、『太陽の王子ホルスの大冒険』はイの一番にお勧めです。死ぬ前に歳の数ほど見る価値は絶対にアリですよ!
このように“善悪の葛藤”に苦悶する少女ヒルダのキャラクターは、心理構造が複雑すぎて、ファンタジーの可愛いヒロインとしては、非常に描き辛いキャラであることがわかりますね。
なので、『太陽の王子ホルスの大冒険』の十年後、1978年にテレビアニメとして登場した『未来少年コナン』では、善悪のヒロインが、ラナとモンスリーに分離されたのではないかと思います。
観客にとってわかりやすいように、善悪の担当者を、はっきりと分けたのです。
途中でモンスリーが、「善に目覚める」という過程もシンプルで、微笑ましく受け止めることができますし、ね。
この“ダブルヒロイン善悪分担方式”は、『もののけ姫』(1997)にも踏襲されたことと思います。サン(善)とエボシ(悪)の対比です。これ、まさにナウシカとクシャナの対比を髣髴とさせましたね。
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●『風の谷のナウシカ』から読み取れるメッセージ
これまで記しましたように、ほぼ二時間程度の作品ながら、“戦争”という要素に絞って総覧しただけでも、下記のメッセージが読み取れました。
「戦争の火種は、芽吹く前の種の段階で潰さねばならない」
「戦争の火種を潰せるのは、為政者の理性しかない」
「今の時代、女性の理性が試されている。それが戦争を左右する」
「ゆえなく虐げられた人が届ける言葉を心に刻め」
「核《A》兵器に対抗して、生物化学《BC》兵器が非正規戦で使われる」
「強大な敵を挫くには、敵の焦りに乗じてミスを誘うことだ」
「戦争に勝利など無い。戦争の被害を防ぐことが勝利だ」
「一、戦争の被害を防止する。二、戦争の原因を消去する。この二点が満たされることで、戦争は終わり、平和が訪れる」
「正しい指導者は、故意に殺さない」
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『風の谷のナウシカ』を世に送り出された時、宮崎駿監督は40代前半の若さ。
鬼気迫る情念のエネルギーが、作品の端々に感じられます。
そして、作品に語られたメッセージ性の奥深さ。
簡潔ですが、いずれも真実を突いていると思います。
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「真実とは何か、正義とはなにか、善なることは何か」、それらを見極める視点が、今ほど問われている時代は無いかもしれません。
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『風の谷のナウシカ』は公開後、何度も繰り返して地上波で放送されました。
直近では、2023年7月に日本テレビの金曜ロードショーで、19回目。初放送の特別番組を入れると20回目となります。ほぼ二年に一回ですね。
名だたるジブリ系作品の中でも最多放送を記録しているようです。『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)は昨年2025年に19回目と、ナウシカに並んでいますが。
こんなに何度も、飽きもせずに放映されているのは、なぜでしょうか?
答えは明白、「飽きが来ない」からですね!
何度観ても引き込まれ、そのたびに新しい視点で、新たな発見と感動が生まれるからです。
今年、2026年、そろそろナウシカの地上波放送がやってきても良さそうです。
楽しみに待つとしましょう。
今年、改めて『風の谷のナウシカ』に出会ったら、私たちは作品に描かれた“戦争”の側面に、必ず注目することになると思います。
哀しいことですが、世界はちっとも平和になっていません。
むしろ、急速に平和から遠ざかりつつあります。
『風の谷のナウシカ』が公開された1984年、紛争はソ連のアフガニスタン侵攻がありましたが、世界各国はそれに反対して対抗措置を講じましたし、その五年後は、ソビエト連邦が崩壊して冷戦時代が終わり、世界に平和の風が吹き始めました。
なのに21世紀の今、どう見ても「無益な一方的殺戮」としか思えない戦争が世界を荒廃させているのではありませんか。
それは……
強者による弱者殺し。
だからこそ、“戦争映画としての『風の谷のナウシカ』”が再び私たちの心に響くのではないかと思います。
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戦争映画として鑑賞した場合、私的に最も印象に残る場面は……
巨神兵の嗤い。
「けっ、笑ってやがる」とクロトワが不敵にほくそ笑む場面です。
今、世界には核兵器の嗤いが渦巻いているのかもしれませんね。




