439●戦争映画としての『風の谷のナウシカ』⑥“王蟲暴走作戦”は正しい!? ナウシカは“聖女”? そして歓喜のヴィクトリー・ロール。
439●戦争映画としての『風の谷のナウシカ』⑥“王蟲暴走作戦”は正しい!? ナウシカは“聖女”? そして歓喜のヴィクトリー・ロール。
*
●“王蟲暴走作戦”は正しかった!? 残された教訓。
物語のクライマックスを飾る、王蟲の大群の暴走。
ペジテ市長が仕掛けた“王蟲暴走作戦”(筆者の仮称です)ですね。
ナウシカはガンシップからメーヴェに乗り換え、王蟲の暴走を先導しているペジテの飛行ガメに急接近します。
飛行ガメは数本の銛を刺して弱らせた王蟲の幼生を懸吊しており、それを風の谷へ放り込むことで、王蟲の大群をなだれ込ませ、クシャナ率いるトルメキア軍を撃破、巨神兵を奪還する計画です。
この“王蟲暴走作戦”の、作戦としての有効性はいかがなものだったのでしょうか?
*
風の谷のトルメキア軍を殲滅し、巨神兵を奪還するという目標を達成する実現性は高く、戦術的に価値のある作戦と言えるでしょう。
しかし問題は、この作戦によって、風の谷の住民たちも居住地も、壊滅が必至であることです。
ペジテ側が巨神兵を奪還することに、戦術的には成功するであろう作戦。
しかし、ペジテ市長が守るべきペジテ市民はすでにほぼ壊滅状態にあり、さらに、“ペ・ト戦争”とは無関係である風の谷の住民を勝手に巻き込んで全滅させ、住民が居住しているわずかな領土すら失われてしまいます。
巨神兵を取り戻しても、守るべき一般人はほぼ、死に絶えているという作戦。
何のための戦いなのかわかりません。
戦術的には成功しても、戦略的には失敗という、例によってペジテ市長らしい作戦計画でした。
しかし最大の問題は、ペジテ市長が「それでもいい」と判断していることです。
数機のブリッグで空中避難している、自分を含めた、おそらく千人ばかりのペジテ貴族層が、巨神兵を手に入れて生き残れば勝利なのだと。
とはいえ、つい数時間前にはトルメキアのコルベットに襲われ、ユパの参戦が無かったらペジテ貴族層も全滅し、市長自身も死んでいたのです。
ユパの恩義は大きい。
巨神兵奪還にコダワリ続けるペジテ市長ですが、「これ以上の作戦遂行は取りやめて、あとはナウシカに委ねなさい」と、ユパから鬼のようにキツく言い渡されたのでしょうね。
何しろ、風の谷の住民全員の命が、風前の灯なのです。
それでも作戦を強行しようとしたら、ユパがペジテ市長を殺し、ブリッグを酸の湖に墜落させたでしょう。
*
この場合、最優先事項は、王蟲の暴走を止めて、風の谷の住民と居住地を守ることです。
巨神兵をクシャナから取り戻しても、風の谷を守れなかったら、何一つ意味がないのですね。
だからナウシカは飛行ガメに接近し、説得を試みます。
さて、風の谷の方へ視点を移動してみましょう。
住民たちは、酸の湖に近い、星船の残骸に立てこもっています。
そこへクシャナが戦車隊で総攻撃をかけるところでガンシップが到着。
操縦していたミトが王蟲の群れの暴走を告げ、「姫様は暴走を食い止めるために、一人残られた」と知らせます。
この知らせは、すぐそばでクシャナも聞いていました。
ここで、住民の側とクシャナの側で、対応が別れます。
住民はナウシカの行動を信じて、星船の高所に避難して、待ちます。
しかしクシャナは「今使わずにいつ使うのだ」と、蘇生中の巨神兵を防衛戦に繰り出すことを告げ、風の谷へいったん戻ります。
クシャナはなぜ、巨神兵の出撃を決意したのでしょうか?
今、巨神兵を胚から引き出すのは、「まだ早すぎます!」とクロトワが厳しく忠告しています。
だから、クシャナは待てばよかったのです。
ナウシカの活躍を信じて。
そして事実、ナウシカは王蟲の暴走を止めました。
自分の命を犠牲にして。
王蟲の力でナウシカが救命されたのは、“当然に予定された出来事”ではなく、居合わせた王蟲たちがナウシカと心を通じ合わせてくれる、という一種の“天佑神助”があったからですね。
半分は偶然、半分は幸運という奇蹟だったのだと。
しかしナウシカが、死を覚悟の上で王蟲を止めたことは事実。
そこまでクシャナが待ち、巨神兵の出撃を延期していたならば、クシャナは自分たちが命拾いしたうえに、巨神兵を完成させていたことでしょう。
最終的な勝利を、クシャナはタナボタ式に手に入れたはずなのです。
しかし、それでもクシャナは巨神兵を出撃させました。
クシャナは、なぜナウシカの帰りを待てなかったのか?
クシャナのその心理が、物語の結末を左右させたわけです。
クシャナの心の中に分け入ってみましょう。
*
蟲どもが恐ろしい。
かつて自分が、蟲に襲われた記憶がよみがえります。
蟲が怖い怖い怖い怖い怖い……
クシャナの表情は変わりませんが、内心はかなりのパニックだったと思われます。
ここで蟲たちに負けたら……
再び自分の肉体は蹂躙され、肉体の死の前に、心が滅ぼされてしまうだろう。
蟲に食われる、それは死よりも残忍な屈辱であり汚辱なのです。
では、ナウシカは私クシャナを助けてくれるのか?
わからない。
撃墜炎上されたバカガラスからは脱出させてくれた。
しかしそれは無償の善意ではなく、「あなたを釈放する代わり、巨神兵を殺してくれ」とユパがいう交換条件のためだったのではないか?
ナウシカが私のために王蟲の暴走を止めてくれるとは、期待できない。
となると、王蟲が私を殺すのを待って、孵化中の巨神兵をナウシカが手に入れるかもしれないな……
ならば、今使わずに、いつ使うのだ。
瞬間的に、そのように思い描いて、クシャナは決意したのです。
巨神兵の出撃を。
① 蟲への恐怖、そのトラウマ。
② ナウシカへの不信感。
この二点が、クシャナの冷静さを失わせ、「早すぎる」事を承知で巨神兵を無理矢理にでも出動させたことと思われます。
これはクシャナ個人の、特殊な事情です。
ということは、クシャナでなかったら、巨神兵の出撃を延期して、腐らない躯体の完成を待つという作戦を取った可能性がありますね。
そう、クシャナでなくクロトワなら、風の谷の王城まで後退して、巨神兵が完成するまで籠城する作戦に出たかもしれません。
トルメキア側の敗因は、クシャナ自身にあったのですね。
クシャナ自身が招いた敗因、しかしそれは巨神兵に破滅をもたらし、世界の平和に貢献しました。
ある意味、皮肉に満ちた結末と言えましょう。
戦争とは、そういうこともあるのですね。
*
●ナウシカは殉教する聖女なのか? 歓喜の“高い高い”はヴィクトリーロール?
ペジテの愚かな“王蟲暴走作戦”は、たったひとつ、ナウシカ側に利点をもたらしました。
巨神兵の「早すぎる出撃」を引き出したために、巨神兵に勝利できたのです。
これは“王蟲暴走作戦”が、全く予期しない形で、「巨神兵を滅ぼす」という戦略的勝利をもたらしたことを意味します。
ただしそれは、ナウシカの命と引き換えでした。
勝利にはかならず重い代償が覚悟されねばならない。
『風の谷のナウシカ』のストーリーテリングの真骨頂ですね。
宮崎駿監督の、神業が冴え渡った場面転回であると思います。
メインヒロインのナウシカを死なせることは、監督にとって断腸の思いだったでしょう。
そしてナウシカが神のような王蟲の力でよみがえった事で、彼女は“聖女”の地位を獲得しました。
「その者、金色の野に降り立つ」と聖書のように予言されていた事が成就したのですから。
「死からの甦り」は、キリストの代表的な奇蹟ですね。
ナウシカはそうなってしまった。
最初に観たとき、この場面、さすがに涙ぐみました。
しかしナウシカは“聖女”になってよかったのか?
そんなモヤモヤ感もつきまといますね。
『風の谷のナウシカ』は、ジャンヌ・ダルクのような、自らの犠牲によって神の救いをもたらす、“殉教の聖女”を誕生させる物語ということで、よかったのか?
この点は、今も疑問が残ります。
戦争の解決に、殉教者が必要とされ、生きている人々の力ではなく、一人の超人的な聖女と神の御手に、全ての結末が委ねられてしまった……
感動的な結末ですが、しかしそれは、今、現実に世界中で行われている戦争の残虐に立ち向かうメッセージとなるのだろうか。
「私たち一人一人がナウシカになれば、世界の戦争は終わらせることができる」と伝えてしまう結果になって、それでよかったのか?
ここは、難しいところです。
むしろ観客の私たちが気づくべきは、ナウシカの“聖なる殉教”ではなくて、この物語の全ての不幸の原点にある、ペジテ市長の愚考なのでしょう。
戦争解決の原点は、そちらの方にあるのだと。
掘り起こした巨神兵に憑りつかれて、その復活を夢見たとき、ペジテ市長は“核兵器という悪魔に魂を売った”とも揶揄されるオッペンハイマーになってしまったのではないでしょうか。
その時点で巨神兵を殺してしまえば戦争は防がれ、『風の谷のナウシカ』に描かれた悲劇は、起こらなかった。
「戦争は、その種をいち早く見つけて退治しなくては、防ぐことができない」
これが、戦争映画としての『風の谷のナウシカ』が20世紀の世に訴えた真のテーマであるのでしょう。
*
だから、おそらくナウシカという“聖女誕生”は、宮崎監督の本心の望みではなかったように思われます。
物語を平和へと帰結させるためには、「聖女の死と復活」をストーリーに組み込むしかなかった。
しかし、風の谷の王城のタペストリーに刺繍された「金色の野に降り立つ青き衣の聖者」の伝説は、その根拠や由来が全く説明されていません。
これはおそらく、後から取って付けた物語なのです。
それでいいのです。
聖なる奇蹟にまつわるとされる伝説の多くは、実際は“後から取って付けた物語”ばかりではないでしょうか?
奇蹟が起こってから「それは予言されていた」と、預言書に書き加えられたこともあるかもしれません。
『風の谷のナウシカ』という作品そのものが、「聖女の死と復活」を“予言の成就”として演出するために、後世に書き加えられた聖書的な物語ではないか?
そのように“造られた物語”を劇場アニメにしたフィルム作品を、私たちは今、見せられているのかもしれない。
そんな突拍子もないトリックまで感じさせてくれる、世にまれなる数奇な傑作。
『風の谷のナウシカ』はそのように位置付けられるかもしれませんね。
いや実に、奥が深いです。
*
しかし宮崎監督は、ナウシカを“聖女”にしませんでした。
死んで甦ったのですから、彼女は聖書の奇蹟そのまま、“宗教的事件”のヒロインであることは間違いないでしょう。
風の谷の人々はナウシカを敬い、信仰すらしたはずです。
それは新たなる宗教の爆誕であり、風の谷は宗教国家に変貌したでしょう。
そうなるはずでしたが、そういった演出を、監督はナウシカ復活の直後に、全力で否定しておられるように見えます。
ナウシカはやはり、普通の一人の少女であってほしい。
ナウシカをなんとしても、“聖者”から“普通の少女”に引き戻して、物語を終わらせる。
たぶん、その思いが端的に表れたのが、“アスベルがしてくれた、高い高い”ではないでしょうか。
生還したナウシカの腰をアスベルが持ち上げて、両手両足を広げた彼女を、空中でクルクルと回転!
作品中、最高の場面ですね、チョイとホロリとくるのですよ。
世界中の幸せを一瞬に詰め込んだ場面じゃないですか。
こんな幸せこそ、人生の一瞬にあって欲しい!
同じ“高い高い”は宮崎監督作品に、私が知る範囲では二回、出てきますね。
『未来少年コナン』(1978)の最終話のラスト、バラクーダ号のマストの上で、コナンがラナにしてあげています。
そして『魔女の宅急便』(1989)の冒頭近くの家の中で、お父さんがキキにしてあげています。
個人的な印象ですが、この“高い高い”って、どこか“ヴィクトリー・ロール”を感じるのですよ。
第二次大戦中のヨーロッパ、過酷な空戦から生還した戦闘機のパイロットが、基地に着陸する直前に滑走路の上空で披露する、歓びの飛行ですね。
上昇下降を繰返しながら、主翼を振り、機体を螺旋状にクルクルと回して飛ぶ、観ていて小気味よい飛行パターンです。たまに墜ちる人がいたりして、禁止されたこともあったかもしれませんが……
そこに象徴されるのは、たぶん「勝利・信頼・希望」。
アスベルがナウシカにしてあげた“高い高い”って、そういうことかもしれません。
“聖女”でなく、一人の普通の女の子に捧げる、もう、どうしようもない歓喜。
生きて還れた歓び。それがヴィクトリー・ロール。
この“高い高い”の場面が、この作品の結末に最高に幸せな一瞬を挿入しました。
この“幸せ度”は、歴代アニメ作品で空前絶後のMAXゲージじゃないでしょうか。
普通の男の子が、普通の女の子に捧げる、歓喜のヴィクトリー・ロール。
最高傑作の至高の一瞬が、ここにあるのですよ、きっと。
【次章へ続きます】




