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424●『果てしなきスカーレット』(2025)⑯『巌窟王』『クロスアンジュ』『アシュラ』の衝撃、そして、ささやかな“我が家”への旅。

424●『果てしなきスカーレット』(2025)⑯『巌窟王』『クロスアンジュ』『アシュラ』の衝撃、そして、ささやかな“我が家”への旅。



※以降の原稿を加筆したところ、文字量が増えすぎてしまったので、分割掲載させていただきます。何卒ご容赦下さいますよう……。



       *


 “復讐”をテーマにした古典作品としては、『ハムレット』のほかに、アレクサンドル・デュマ作の『巌窟王:モンテ・クリスト伯』がありますね。

 同作にインスパイアされて、未来を舞台としたSF小説に昇華したアルフレッド・ベスター作の『虎よ、虎よ!』(1956)がありますが、これも作品の参考にしたのでしょう、超未来のSFとして大胆に再構築リビルドされたのが、2004年から2005年にかけてTVアニメとして放映された『巌窟王』。

 こちらでは“復讐”は正義であり、人生の大義です。

 それは、迫害された弱者が繁栄する強者に突きつける、鋭いナイフの切っ先。

 失うものは大きいが、迫害され愚弄された弱者にとって、“復讐”の遂行は人生の一部どころが、人生そのものだと察せられるのです。

 だから、華麗なる復讐劇を庶民は求めるのですね。

 『巌窟王』がいまもなお映画に舞台にと、生き続けている原因は何か?

 考えてみる意味がありそうです。


      *


 また、『果てしなきスカーレット』の、『ハムレット』に由来するクエスチョン、「生きるべきか死ぬべきか?」に対して、12年前、『アナ雪』の公開と同じ2014年に明瞭な回答を撃ち出した痛快なTVアニメシリーズがありました。

 『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』全25話。

 「私は生きる、殺して生きる!」

 ヒロインのアンジュが断じる、この啖呵のキレの良さ!

 復讐すら自分が生きるための糧である、と、全面肯定しているのです。

 そしてアンジュ自身、王国のプリンセス……ただし、陰謀によって王家に捨てられ、人権無き戦闘生物として激戦地でロボット兵器に搭乗させられて、熾烈な戦いを強制される“堕ちたプリンセス”なのですが、その境遇はスカーレットに通じるものがありそうですね。


 スカーレットはそう叫んでもよかったのです。

 「私は生きる、殺して生きる!」と。


 『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』は、なぜか一糸まとわぬ女体がホイホイと登場し、ギャグをまぶしたHサービスシーンが目立ちすぎるためか、「美少女ロボットアニメ」を標榜しながら、観客の評価は混迷しているように見受けられます。

 一節には「汚いプリキュア」と評されているとか。

 ただし、H路線が敷かれていることで、悪役ラスボス氏のお下劣な畜生ぶりがこれでもかと際立ち、「コイツなら一刀両断で滅びても当然の報い!」と、観客の、特に男子を大いに納得されてくれることも事実。我らが愛する美少女たちの衣服を剥いでは辱め犯しまくる、最大かつ最低のエプスタイン的エロビッチ野郎として、アニメ史に名を残したのではないかと思います。

 このような悪も、オトナの(しかも現実の)世界にはあるのだ……ということで、エロい濡れ場展開は三割引き程度にスルーして鑑賞すれば、中途半端なガンダム傍系作品よりもずっと衝撃的で、心に刺さる場面も続々です。


 主人公の“堕ちたプリンセス”アンジュは、『86-エイティシックス-』(2021)のヒロイン・ミリーゼ嬢が何かの謀略で一戦闘員として“86”部隊に放り込まれたような立場ですね。

 第一皇女でありながら、被差別生物に該当することが明るみに出て、王家から追放された“堕ちた皇女様”は、裸一貫の一兵卒となって激戦地へ放り込まれます。

 要するに、手っ取り早く戦死してくれ、という、不作為の死刑宣告ですね。

 その配備先は『巌窟王』のイフ監獄を思わせる絶海孤島の断崖絶壁基地で、戦う相手は巨大で狂暴なドラゴンの群れ。

 そしてなぜか奇妙なことに、女性しかいないアマゾネス的美少女部隊。

 個人の戦果を金銭換算して報酬とするシステムはまんま『エリア88』、「ブラジャーから列車砲まで」と豪語して、何でも売ってくれるマッコイ爺さんみたいなゴーツクバーサン、いえお姉さんがガメつく商売なさっているところも同じ。

 物語後半から登場する潜水飛行空母は、エンジンの噴射ノズルの配置が縦積み形式なところが『無責任艦長タイラー』の駆逐艦そよかぜを思わせますし、ブリッジの舵輪はハーロックのアルカディア号ですね。

 さらに『ふしぎの海のナディア』のノーチラス号とニューノーチラス号と『海底軍艦』(1963)の轟天号を足して4で割ったみたいなスグレモノ。なぜ4で割るかというと、艦首にドリルが無いからです。おとこフネはドリル必携! なのですが物語の設定上、艦長以下乗組員は全員美少女なので仕方ないか……その代わり主砲は“冷線砲”なのでやっぱり轟天なのです。

 ちなみに、決戦の時に乗組員が食べる戦闘配食のおにぎり、大戦中の日本軍艦みたいですが、あの茶色のおにぎりは醤油味の焼きおにぎりではなくて、じつはチョコ味だったのではないかと思いますね。根拠はありませんが、モモカなら作りそうで……

 

 その他随所に昔のアニメへのオマージュが散りばめられていて、アンジュと異世界ライバル姫がテニスや野球で勝負するくだりは、70年代スポコンアニメのド根性パロディが連発!


 リベルタス勢力を苦しめた二重反転ノコギリ円盤ともいうべき敵のドローン兵器は、『機動戦士ガンダムF91』(1991)の自動殺人飛行兵器“バグ”のまんまでしたね。

 形状が“二重反転ノコ”なのは極めて正解です。一重でしたら、ノコギリ刃がターゲットに食い込んで引っかかってしまったとき、ノコ刃は止まったまま、本体の方が逆回転してどうしようもなくなりますからね。

 まるで21世紀に実用化されているドローン兵器を予言したかのような“バグ”はガンダム史上に名声轟く傑作兵器。改めて同種の兵器を戦場に繰り出すあたり、サンライズ様の執念というところでしょうか。 


 このように、作り手のやりたい放題を感じさせる作品、GOODですよ!

 昔の作品のパロディ、いいじゃないですか、たかがアニメなんだから。 


 そして毎回見どころが用意されて、敵のドラゴンは本当に敵なのか? 美少女戦闘員たちは国家の忠犬か、それとも反逆の狂犬なのか? 超次元の異世界が絡み始め、敵味方が目まぐるしく変転し、裏切りあり出戻りあり、誰一人として信用することができません。Hシーンもあの手この手でギャグもシリアスも繰り出されて、ちっとも退屈することなく最終の25話まで疾走します。

 プリンセスのプライドに凝り固まっていたアンジュが、もうヤケクソ満載の“たぎる野生”に覚醒する最初の三話分と、全世界の女性の敵である、あのエロビッチ野郎に成敗を下す決戦の最終三話分は、この手のアニメにしては怒涛の展開で、ガンダム正史作品と比べても全然見劣りしないほどリキが入っています。DVDで繰り返し観ても十分に楽しめますよ!


       *


 全編の三分の一ほどは「シリアスに見えるギャグ」というべき演出で、登場人物は猛烈に真面目なのに、観ているこちらは爆笑するといった仕掛け。優等生的なガンダム正史作品に比べて、こちとら劣等生さ、何か問題でも? みたいな“人類の野生の本音”が感じられて、美少女ロボットものとしては、出色の出来ではないかと思います。

 

 出演しているお嬢様キャラたちは、みんな、ためらいなく人を殺すのですよ。

 アンジュではありませんが、ある種お約束である「みんな死んじゃえ!!」の出血大サービスな豪華乱射シーンもございますし。

 彼女たちは「生きるために殺す、殺して生きる!」を躊躇なく実践し、味方の新兵たちもバタバタと血しぶきを噴いて屍体となり、墓に葬られます。 

 そこにロマンはひとかけらも無く、ただ現実あるのみ。


 アンジュに突きつけられる現実は過酷です。

 国家への反逆者として絞首台に立つアンジュに対して、仲の良かった学友たちが「吊るせ! 吊るせ!」とコールすると大衆が同調し、老若男女分け隔てなく「吊るせ!」の合唱となります。

 悪のラスボスに操られている側面があるとは言え、めざとく強者の側に味方して弱者を殺しにかかる国民たちは、まさに“愚民”そのもの。

 アンジュ自身もそれからは自国民をためらわず“愚民”とそしり、最終25話では、「皇女なら国民を救うべきだ!」とノブレス・オブリージュを要求してきた貴族階級の連中に発砲し、殺しもしています。


 アンジュは祖国に捨てられました。

 ならば私は祖国を捨てよう! と、歯切れよく答えるアンジュ。


 毎回、彼女は迷うことなく意思決定していきます。


 全編鑑賞して、思い返せばアンジュは、“私は友達が少ない”と自覚していたようです。

 友として全幅の信頼を置いたのは、筆頭侍女のモモカと、風来坊青年のタスク、この二人だけのようですね。ライダーのサリア、ヒルダ、そしてサラマンディーネも物語を通じて深い友情を結んだことと思いますが、最終話の大団円で喫茶店を共同経営しているのは、アンジュ、モモカ、タスクの三人のようで、運命を共にする真の友と言えば、この三人というところでしょう。


 で、何を言いたいかと申しますと、本当の親友とは、一生かけてもそうそういないということです。

 私たちの社会ではなにかにつけて、友達の数の多さを自慢したりしますし、人物評価の尺度にしたりもしますが、実際、本当のところはどうなのでしょうか?

 たとえば海の向こうの超大国の白いお館の大統領様と「お友達になりたい」と望む人は無数におられるでしょうが、「真の友人」となる人は何人おられるでしょうか?


       *


 余談だけど、あのお方、某Nベル平和賞のメダルもらっちゃって、いいのかなあ。

 あれって、絶対にタダじゃないでしょう?

 単純に儀礼的なプレゼントならいざ知らず、あのメダル、受賞者の人生の評価だしご本人の栄光プライドそのものですからね。おカネに替えられない政治的かつ人格的価値が結晶化したようなものじゃないですか。

 もらっちゃったら、お高くつきますよ。

 あれってフツー、「これあげるから私をあの国の女王にしてくださいまし」ですね。

 そのこと、わかってるのかなァ、大統領様。

 もらってサンキューでハイサヨナラで知らん顔シカトスルーしたら、とんでもない怨みを彼女から買いますよね、そうではありませんか?

 まあ、賞の主旨を鑑みれば、あげる方もあげる方、もらう方ももらう方だとは思いますが……(なんとも可哀想なのは草葉の陰の故Nベルさんご本人ですよね)


       *


 ということで、アンジュの旅路は、「真の友達なんて、そうそう簡単にはいないのよ」という物語でもありますね。

 で、「愚民どもの祖国は捨てる」と意思決定したアンジュは、その言葉にバッチリ責任を取って、皇女の地位もポイ捨てしましたね。

 「故郷の国はどうするの?」と問われて「知ったこっちゃないワ」と答えるサッパリ感は、すっかり心のアカを落とした風呂上がりの清々しさですね。

 過去の未練、ゼロなのです。

 第一話から三話までで皇女のプライドをかなぐり捨てて、「私は生きる! 殺して生きる!」と開き直ることで、タスク青年が「狂暴だけどよく泣いてよく笑う」と熱愛する、裏表のない本物の自分を取り戻すことができたアンジュ。

 これはもう、拍手しかないでしょう。


 ですから、スカーレットもアンジュになればよかったのです。

 まずはあのハナクソバーサンに剣を突きつけて平和的に説得し、サンダードラゴンを懐柔して、神様と取引きしたことでしょう。

 「あいつらに天罰よろぴく!」と。


 最後は彼女、サンダードラゴンに乗ると思っていたのですよ。ほら、『デューン 砂の惑星』でサンドワームにライドしてたじゃないですか。残念だなあ。ネバ―エンディングストーリーをはじめ、千と千尋でも、日本昔話でも、ドラゴンは乗り回してナンボでっせ!


       *


 とはいえ、真の友達なんて、そうそういるものではないと、厳しく教えてくれる作品であります。

 アンジュは王家と国民に裏切られました。

 ヒルダは、実の母親に裏切られましたね。

 親だから、血を分けたきょうだいだから、心から信頼できる……と担保できる要素はどこにもなく、ただ、「弱者は踏みにじられても無力であり、強者は何をしても責任を取らなくて済む」という事実が厳然と突きつけられる。『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』はそんな作品でした。

 アルゼナル要塞を強襲した政府軍の兵士は、アンジュの仲間たちをいとも簡単に虐殺しましたし、エルシャが世話する幼児たちも容赦なく殺されました。一方、アンジュも愚民たちには冷酷で、敵エンブリヲを殺すことに一切のためらいを見せませんね。


 作品は語るわけです。

 哀しいながら、私たちの現実は、こうではないかと。


 御都合主義で現実を誤魔化すことをしなかった作品。

 

 その意味で、良い作品だと思います。おすすめです。


       *


 最終話でラスボス氏を倒すのは、アンジュたち四人の主要メンバーと、アンジュの彼氏君の五人がかり。すっかり悪あがきモードのラスボス氏ですが、アンジュたちは手を緩めることなくしっかりと成敗します。

 ここは果てしないスカーレットさんにも見習っていただきたいところ。

 復讐を正義と信じるならば、今やれるときに断行せねばならないのです。

 綾瀬はるか様も会津のお城でナウシカみたく銃撃しながら、おっしゃっていたではありませんか、「ならぬことは、ならぬのです」と。


 復讐をあきらめ、不幸の輪廻を断つことは道義的には正しい。

 しかし人間の感情がそれを許さないのですね。

 「ならぬことは、ならぬのです」とは、たぶん、そういうこと。

 

 人類はこうやって、復讐によって怨みを晴らすことで生きてきた。

 人類の歴史を振り返ったら、復讐の輪廻、それしかないじゃないか?

 それなら、泣き寝入りして屈従と屈辱のぬかるみに溺れ死ぬよりも、憎っくきカタキと刺し違えて死ぬ方がスッキリするじゃんか。

 アンジュはスカーレットに、そう諭すでしょう。


 にしても、女性四人と男性一人、つまり“黒一点”のメンバーで構成されたスーパー戦隊がついに“女の天敵”たるラスボスを倒す展開になってしまった、このラストシーン。

 見事なまでに、“責任の分散”が実行されていますね。

 

 スーパー戦隊そのものが、悪役とはいえ“殺す”行為の責任を五人組で分担することで、“正義”を標榜することができる仕掛けと考えることができるでしょう。

 『忠臣蔵』なんて、47人で責任分散したのですから。

 良くも悪くも、殺しまくってきたアンジュ。

 ヒロインに善良な結末を迎えさせるために、最後の“復讐の完遂”は、“スーパー戦隊方式”となったことと思われます。

 なるほど、本作が“汚いプリキュア”と呼ばれてもいる所以ゆえん、なんだか納得がいきますね。


 結末の大団円はちょっとお笑いで、屈強な美少女戦闘員が集まって勝利に湧く中、男は脇役(アンジュの彼氏君)の二十歳青年が一人だけ。なんとタナボタなハーレムであることか!

 しかし平和な世界を再建する戦後、彼の苦労は果てしないものと思われます。そのコキ使われぶりは、ウハウハと浮かれる状況ではないことは明らかで……


 それにしても、男どもはどこへ行ってしまったのでしょう。

 “いにしえの民”と称する男性集団がいたはずなのですが、監督様に完全無視されてしまったようです。

 最後の方で、スメラギ皇国の首都の廃墟に出てきたのは、女の子から食品をカツアゲしたチンピラ三人組でした。たちまち、たくましく野生化し武装したアンジュの妹さんグループによって射ち殺されてしまいましたが、情けないことです。


       *


 とはいえ『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』には問題点も多々残されています。

 やはり、説明不足。

 二つの世界の関係について、スッキリと説明してくれたわけではありませんね。

 “いにしえの民”の男たちがいたはずなのに、タスク君以外はどうなってしまったのか。

 巨大な龍、アウラの正体とは?(太古の昔から地球にいたはずですよね)

 忍法クローン分身の術、みたいなエンブリヲの時空移動は、どのようなプロセスで?

 エンブリヲとの対決で、モモカがフライパンで命拾いした理由はわかりましたが、自爆したタスクが無事だった理由は今一つわかりませんよね。予告ナレーションで「忍者だった」らしいとされているようですが……


 一方、ドラマの具体的な展開は、ものすごくよくできています。

 伏線が細かく効いています。ヴィヴィアンのチュッパチャップスなキャンデーの中身は“抑制剤”だったとか、学生時代のアンジュが、空中スクーターのような乗り物を駆使したラクロス風ボールゲームの主将だったことから、人型飛行戦闘マシンの操縦にすみやかに順応できたこと、また、空中スクーターを奪って首都を逃亡するなどの見せ場を創ったことなど、ですね。この空中スクーターを動かすにはマナのパワーが必要なので、あらかじめ侍女のモモカがアンジュを追って孤島の基地までやってくるというシークエンスを仕込んであったことなど……


 しかし、二つの世界の成り立ちについての説明や、二つの世界を合体させるプロセスなど巨視的な設定につきましては何ともチンプンカンプンで、私ごとき浅学非才には想像がつきません。

 それに、なんでドラゴンなのだ?

 ドラゴンの由来が今一つ。

 とはいえ、深く考えるのはよしましょう。

 重要なのは、アンジュがこの物語の終着点としたのは、一軒の喫茶店だったということですから。

 なんだか強引な予定調和に感じなくもないのですが……


 そういえば美少女ばかりの作品である『リコリス・リコイル』(2022)も、結末の場面は喫茶店からキッチンカーへ。つまり……


       *


 最後に行きつくのは、ささやかな家族と仲間たちと、一軒の家。


 皇女から人権無き非国民に身を堕とされて、波乱万丈の冒険と壮絶なバトルの果て、世界すらブッ壊しかけて、“ラスボスの神殺し”までやらかして全てを救済した結果としては、ずいぶんとちっぽけなゴールインなのですが、だからこそ『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』の物語の素晴らしさが輝くような気がします。


 所謂いわゆる“世界名作劇場”のアニメ作品の最終話は、たいていがそうでしたね。

 行きつく先は、ささやかだけど幸せな我が家、ホーム・スイート・ホーム。

 ハイジだってマルコだって、ペリーヌも赤毛のアンも、家なき子のレミも煙突掃除のロミオ君たちも、小公女セーラもああ無情のコゼットも、秘密の花園のメアリーも、みんな目指したゴールは同じでした。

 『未来少年コナン』も『パタパタ飛行船の冒険』もそうでしたね。最後に落ち着くのは、故郷の我が家。

 ファーストガンダムの最終話のラストシーンも、アムロ君を迎える仲間たちのちいさな小屋みたいな救命艇でしたね。

 宇宙戦艦のヤマト、1974年のその第一作は沖田艦長の旅でした。彼は艱難辛苦の果てに、なにもかもみな懐かしい地球ホームへ帰還します。

 『COWBOY BEBOP』のジェットとスパイクとフェイとエドが形作っていたのは、やや珍妙だけれど、ビバップ号という一軒家に集った家族でした。

 『ノワール』(2001)のミレイユと霧香が最後にその足で向かうのは、パリのあの家であり、そこで二人でお茶するためでした。

 『メトロポリス』(2001)のケンイチ君は、廃墟の街に残って、ティマの面影を残すロボットを再建しながら、ロボットショップを開いたようです。

 『シムーン』(2006)は美少女ばかりの戦闘機隊を描いた点で『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』と似ています。こちらも最終話は、戦い済んだそれぞれのメンバーたちの、それぞれのホームが描かれました。彼女たちはそこで、さらに時空の旅を続けるアーエルとネヴィリルのかすかな“風”を感じて、二人を見送ります。


 もちろん例外も多いですが、「主人公とともに人生をともに旅する」スタイルの作品の場合、終着点の多くは、伝統的にホーム・スイート・ホームなんですね。


 古典的な世界名作もそうです。

 ベルギーの劇作家メーテルリンクの『青い鳥』は、結局、我が家に帰りますね。

 ノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンの『ペール・ギュント』も破天荒な旅の末に全てを失って、昔の彼女ソルヴェイグが待つ家に帰りつきます。

 歴史的な名作映画『市民ケーン』(1941)では、超巨大豪邸の一室で寂しく一人で息を引き取るケーンですが、その時彼は、子供の頃、故郷の粗末な我が家で、孤独を癒す唯一の遊び相手であった“薔薇のつぼみ”という名の、あるものを呼びます。大富豪が最後に欲したのは、懐かしいホーム・スイート・ホームだったのかもしれません。


 SF映画の、今や古典の代表格となってしまった『2001年宇宙の旅』(1968)ですが、これもラストシーンは、赤ちゃんになったボーマンが地球を眺める場面でしたね。なにか、とてつもない遠大な旅をしたはずなのですが、何もかもみな懐かしい地球ホームへ、彼は還って来るのです。


 そして、2014年にもなって放映されたロボットアニメの『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』の終着点がホーム・スイート・ホームであったことに、やはり少なからず驚いてしまうわけです。

 このお話って、意外と“古典”なのですよ!

 振り返ってみると、物語の構成が、実に古典!

 もう古典の教科書みたいな、古典古典の演出に満たされています。

 王位をはく奪され、“堕ちたプリンセス”の放浪譚ほうろうたん

 両親との死別。

 血を分けたきょうだいの裏切り。

 生きるためには殺すしかない、殺戮の戦場。

 ドラゴン。

 愛する母から託された形見の指輪、そのパワー。

 牢獄。幽閉地からの脱獄。

 敵地への潜入、真実の暴露、処刑台。

 全ての災厄の裏舞台を操るラスボスの暗躍。

 宿敵ドラゴンの意外な正体。

 目まぐるしく入れ替わる敵と味方。

 誘拐と人質。

 敵味方双方の裏切りと出戻り。

 ちょっとエッチなボーイ・ミーツ・ガール。

 お約束の露天風呂。そこで結ぶ、仲間との結束。

 埋葬、墓、葬別、復讐の誓い。

 戦友たちの契り。

 世界を転覆させる巨大なSFネタ。

 未来を左右する神秘の歌。

 そして終着地のホーム・スイート・ホーム。


 数々のネタが、19世紀以前のゴシックロマンで培われた、古典的な発想に基づいているかのようです。

 『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』って、ロボットアニメの古典落語では?


       *


 ディズニー作品の多くは、アニメも実写も、終着点として“ホーム・スイート・ホーム”を伝統的に重視しているように見えます。

 ただし、やや気にかかるのは、いかにも「予定調和」であると感じられる場合です。

 途中から結末が見えてしまい、当然のように“我が家”へ帰るのでは、感動が何割引きかされてしまいますね。

 ここは意外性が欲しい。

 波乱万丈の艱難辛苦の果てに、まさかと思ったら、ささやかなホーム・スイート・ホームが待っていた……

 『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』のラストシーンには、そんなサプライズが感じられて、ほっこりとした、いい終わり方だったなあ……と、幸せな感慨をおすそ分けしてもらう気分になれるのです。

 にしても……喫茶店でカラオケ大会かよ!


       *


 「生きる意味を見つけていく……」と強調される『果てしなきスカーレット』なのですが、思えば「生きる意味」を散々考え尽くして生きて、気づけば老後。人生のラストステージを迎えたとき、最後に欲しいものは何かというと、やはりホーム・スイート・ホームではないかと。


 スカーレットが還るべき行き先は、もう少し先に、それがあるのでは?

 今は女王となって国民の歓呼に答える立場かもしれないけれど、そのはるか先にあるのは、あのいわくつきの“見果てぬ場所”とか、見果てぬ夢などではなく、ごくありふれた家族とともに過ごす“我が家”ではないでしょうか。


 『果てしなきスカーレット』の結末に、そのことが見えていたならば、作品全体の印象も変わったのではないかと思います。


 何とかして彼女は、聖青年と結ばれてささやかな家庭を育むという、「もう一つの未来」を創ってほしかったものだと思います。

 アニメだから、できるのではないでしょうか。


       *


       *


 そしてもうひとつ、これも「生きる意味を考えさせてくれる」峻烈な問題作。

 劇場アニメ『アシュラ』(2012年劇場公開)。

 ジョージ秋山先生の漫画(1970)を原作とした作品です。

 声優陣がゴージャス。野沢雅子さん、北大路欣也さん、林原めぐみさん……

 それだけでも観る価値ありなのですが……


時代は15世紀、応仁の乱で荒廃した京の都とその周辺地域。野盗の横行に加えて記録的な飢饉が襲い掛かり、農民を中心に餓死者が続出、家族が生き延びるために娘を人買いに売り渡すご時世です。その反面、地頭など農民から年貢を取り立てる立場の権力階級は比較的裕福な暮らしを維持しています。

 生きるも地獄、死ぬも地獄という凄惨な生活を強いられる社会では、いまや人を殺してその肉を食らう者も現れていました。

 主人公アシュラは、人肉を食って子をはらみ出産した母親の、まさにその子。

 今度は食糧として母親に食われるところ、すんでのところで逃げ出した幼児です。

 殺して生きる……どころか「人を殺して食って生きる」ことを当然とする、“ケダモノ”と呼ばれた子供の物語ですね。

 原作の漫画は、1970年当時、良識ある大人たちから“有害図書”と名指しされた問題作。

 社会の常識では「漫画は子供が読むもの」とレッテル貼りされていたにも関わらず、人肉食カニバリズムを扱う生々しい内容であったことが指弾されたものと思われます。

 ただし画風は今でいう“キモカワ”な印象で、“グロだけど可愛い”というか、『美女と野獣』の野獣さんがコナン君みたいに外見幼児化した感じで、嫌悪感はかなり抑制されていますね。

 たとえ外見は醜悪でも、かすかに人間性を残して、一縷の望みが垣間見えるといった風貌なのです。

 しかしそれが、マンガのモノクロ画面から総天然色にカラー化され、CGアニメで闊達に動き、叫び、吠え、グサッと噛みつく聴覚的効果も加われば、おどろおどろしさは天文学的に増大します。いやもう、コンプライアンス的に限界を感じる凄まじさ。地上波放送は絶対不可だろうなあ……

 主人公の子供、アシュラは人間の言葉を理解できず、最初はまったく動物と同じ、ケダモノと呼ばれるそのままに、“人間の子供の姿をしているけれど、思考と行動は野犬同然”というか、ほぼ完全な野生状態です。

 しかし、ある親切な少女に出会ったことで、少しずつ人間の言葉を覚えて少女とのコミュニケーションが取れるようになり、それとともに、「自分はケダモノでなく人間だ」という自我意識が芽生えてきます。

 アニメではこの点を強調し、アシュラの意識が本当に少しずつですが、“人間化”していくさまを丁寧に描いていきます。

 すると、どうなるのか。

 人間の言葉を理解するにつれて、野犬並みに狂暴だったアシュラに、人間的な“感情”が身についてくるのです。

 少女に親切にされたことに対する、素朴な感謝の念、そして、なにか恩返ししたいという、他者を思いやって尽くしてあげようとする善意が育ち、ついにアシュラは、その少女のために肉の塊を取ってきて、プレゼントするのですが……

 なんだか、その善意の不器用さと切なさに、観客のこちらも目頭が熱くなってくるのを感じます。野獣でしかなかった主人公が、言葉を覚えたことで人間に近づき、善意という崇高な感情を示すことができた。

 しかし、その結果を見せられた時、言いようのない無念な思いをアシュラと共有してしまうのですね。

 言葉を覚え、それだけ賢くなって、人間に近づけたことは、アシュラにとって、果たして幸せなことだったのだろうか?

 

 そこには、ケダモノから人間に近づいたことで、様々な“人間的な感情”を身に着けたが故に、自分の善意が拒否されたときの苦しさ、哀しさ、悲嘆、そして絶望まで感じるようになってしまったアシュラがいるのです。

 そして、人肉を食らってきた自分自身への、激しい嫌悪感までも、

 別番組の妖怪人間さんは「早く人間になりたい」と願います。人間になることは幸せになることだという、無邪気な希望が妖怪たちにも宿っているのですね。

 しかしアシュラのケースをみると、「人間になることは果たして幸せなのだろうか? むしろ逆に、“不幸を知る”結果になってしまったのではないか?」……と、心をかきむしられるような気分になってくるのです。

 アシュラは、それでも、人間になるべきなのだろうか?

 

 深く、考えさせられます。

 それが『アシュラ』の作品テーマなのでしょう。

 『果てしなきスカーレット』の予告編2では、「生きる意味を見つけていく」ことが最後に強調されます。

 しかし『アシュラ』では「“人間として”生きる意味」は何なのだろう? と、スカーレットよりも深い、根本的な命題が突きつけられるのです。

 アシュラの場合、人間ではなくケダモノでいた方が、不幸を知らずにおれたかもしれない……

 ゾッとするような戦慄をそこに感じるわけです。


 やや、似た感傷を持つ作品として、ダニエル・キイス作の小説『アルジャーノンに花束を』を思いだします。知的障害の青年が、画期的な脳治療の実験台となることで、偉大な天才と言ってもいいほど驚異的な知能を身に着ける。鋭敏な思考力と深淵な洞察力、そして異性への恋愛の感情も彼は獲得します。しかし脳治療の効果は一時的なもので、しばらくすると知能の衰退が始まってしまう……

 人は“賢くなる”ことは善いことだと信じてやみませんが、本当にそうなのだろうか?

 と考えさせてくれる、SFとして稀有な傑作マスターピースですね。中編小説として1959年に発表されたのが初出になりますが、21世紀の今になっても、これほどの感動を与えてくれる作品には、とんとお目にかかれません。

 21世紀のSFって、どこか進歩したのだろうか? と、さらに考えさせられますね。


 『アルジャーノンに花束を』をお読みになって感動された方は多いと思います。SF好きには避けて通れない一作ですね。

 そして2012年の劇場アニメ『アシュラ』は、それ以上に凄惨で残酷なお話ではありますが、どなたも一度はご覧になればと、お勧めする次第です。

 とくに『アルジャーノンに花束を』を知っておられる方には、ぜひとも。

 アルジャーノンと同様に、「人間として生きる意味」という、人類の現実を直視させてくれる作品として。

 とはいえ、一度観たら、二度目はかなりキツいという、壮絶な傑作なのですが……


       *


 細田守監督様は、『巌窟王』(2004)と、『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』(2014)、そして『アシュラ』(2012)をご覧になっていたでしょうか?


 三作ともある意味、“復讐の人生”に関する物語ですね。


 もしかすると、ご覧になってなかったかもしれない……という気がいたします。あくまで私の個人的な印象ですが。

 文庫本のノヴェライズを読んだ範囲では、『果てしなきスカーレット』は前述の三作品に、残念ながら根本的に“迫力負け”しているように感じるのです。


 “復讐”を捨てる物語である『果てしなきスカーレット』は、前述の三作品の前提を覆すほどのパワーが必要なはずです。

 その点、スカーレットは一歩及ばなかったのかもしれませんね。


 2026年一月下旬の今、公開後二カ月を経た『果てしなきスカーレット』は、国内の銀幕から姿を消しつつあります。


 興行成績は今ひとつだったとはいえ、アニメファンの世界に、大きな足跡を残したことは確かです。

 

 かくも大規模で全国的な論議を巻き起こし、良くも悪くも巨大台風のようなスカーレットブームを巻き起こしたこと。

 その代わり、知名度は中途半端なヒット作よりも遥かに大きい。

 悪名は無名に優る……で、いいじゃないですか。

 そういう作品も、アニメの歴史の中には必要とされ、神様がそのように配材されたのではないでしょうか。


 さらば、スカ―レット。

 でも、円盤でお会いしましょう、スカーレット。

 DVDは買いますよ、きっと。


 考えてみれば、知人友人と一緒に、劇場で鑑賞するには、こっ恥ずかしい作品なのかもしれませんね。

 一人でじっくりと、DVDなどで味わいたいと思います。



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