421●『果てしなきスカーレット』(2025)⑬なぜこんなことに?(中) これは“意思決定”の物語。でも観客は“迷わず悩まず考えない”!
421●『果てしなきスカーレット』(2025)⑬なぜこんなことに?(中) これは“意思決定”の物語。でも観客は“迷わず悩まず考えない”!
『果てしなきスカーレット』の予告編2 は「生きる意味を見つけていく」というフレーズで終わります。
これは主人公スカーレットが「生きる意味を見つける」ために、“迷い悩む”お話なのだと想像されます。少なくとも予告編のスカーレットは、戦いながらも苦悩している雰囲気の絵柄ですよね。
じっさい、文庫P235のセリフ「別の生き方を発見できないのは何で?」からP256の「生きたい!」のセリフまで、21ページ分にわたってスカーレットは悩みまくります。
この、微に入り細を穿って描かれる、彼女が深刻に“迷い悩む”シークエンス。
これに対して、21世紀の私たち観客は、残念ながら、あっさりと拒否反応を示したのではないでしょうか。
だって現代人の私たち、生活の中で「迷い悩む」ことをしなくなりましたね。
そうは思われませんか?
*
昭和の時代は、“迷い悩む”状況こそ人間的な人格成長の重要なステップとされて、肯定的に捉えられていたと記憶しています。
ゲーテの『若きウェルテルの悩み』という、誠に悩ましい小説が、青春期の若者の必読書であるかのように推薦されていました。
といっても内容は“哲学的自殺日記”なのですが。
そういえば若くして命を断った、あるいは病没された娘さんの日記が書籍化されて、青春の黙示録としてベストセラーになったものです。瑞瑞しい感性で綴られた“迷いと悩み”が同じ年頃の若者たちの涙を誘いました。
「♪ソ・ソ・ソクラテスか……シェ・シェ・シェイクスピアか……みんな悩んで大きくなった」と、人類の“迷いと悩み”を讃えるCMソングも1976(昭和51)年に大流行したものです。
昭和の若者たちは、みんな「悩んで大人になった」のでした。
*
アニメにおいても、その傾向は顕著でしたね。
鉄腕アトムもサイボーグの009たちも、「人間でありたいけど人間とは違う」自分に悩みました。妖怪人間のベム君(1968-)も「早く人間になりたい!」と呻吟してすっかり有名になりましたね。
『巨人の星』(1968-)や『あしたのジョー』(1970-)、『アタックNo.1』(1969-)や『キャンディ・キャンディ』(1976-)も、主人公と脇役たちは“迷いと悩み”を繰返して成長していったものと思います。
アニメの“世界名作劇場”は、“迷い悩む”ヒロインたちの独壇場でした。
屋根裏の小公女セーラ、少女化された家なき子レミ、ぼっちキャンプの達人ペリーヌ・パンダボアヌ……誰もが貧困と不幸の只中に放り出されて迷い、悩み、そして一生懸命に考えて結論を出し、運命に立ち向かいました。
アルプスのハイジや赤毛のアン嬢はそこまで深刻な立場ではありませんでしたが、それでも友達関係で迷いや悩みに直面して、自分で考えましたね。
“迷い、悩み”そして“考えて問題を解決する”主人公たち。
そんなヒロインや、ヒロインを支えるボーイズたちは例外なく等身大で、観客の私たちを引き込んでいったものです。
一緒に“迷い、悩み、考えて”人生の一歩を踏み出す。
『宇宙戦艦ヤマト』(1974-)の古代君も、「大切なのは戦うことじゃない、愛することだったんだ!」と“迷いと悩み”を吐露します。ガミラス星を波動砲一発で全滅させ、とんでもない大量殺戮をやらかした直後のセリフなので、手遅れもいいところなのですが……
『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』『新世紀ヱヴァンゲリオン』などGAINAX系のヒロインやボーイズたちも、それぞれに“迷いと悩み”を抱えながら、どうにかこうにかして生きていったと思います。ヱヴァの登場人物たち、外見は突っ張っていても、内面ではしばしばすすり泣いていましたよね。
あのころ、ヒーローもヒロインもバイプレイヤーたちも、みんな悩んで大きくなり、そしてささやかな幸せを目指したものです。
アニメは若者たちの“人生劇場”だったのでは?
*
しかし21世紀。
今になって振り返って、気づくのです。
私たちは、“迷い悩む”事をしなくなったのでは?
むしろ、くよくよと“迷い悩む”キャラクターを、フフンと鼻で笑って侮蔑するようにすら、なってしまったのでは?
といいますのは、“迷い悩む”状況に立ち至ったとき、私たちはまず、どうやってその課題の解決策を探すのか、ということですね。
私たちは日々刻々と、「やる、やらない」「行く、行かない」「伝える、伝えない」とか「買う、買わない」「捨てる、捨てない」といった、ハムレットの「生きるか死ぬか」ほど切羽詰まらないまでも、大小無数の“迷いと悩み”に遭遇して、その都度、決定を下して生きています。
その価値判断基準にしているのは、おおむね、下記の三点ではありませんか?
<ア> コスパが良い。(費用と労力が効率的)
<イ> タイパが良い。(時間的に効率的)
<ウ> トレンドに合う。(SNSの多数意見など社会的正義に合致する)
もちろん悪いことではありません。
“迷いと悩み”を上記三点の篩にかけることで、「合理的判断」による解決を手にしていることは確かです。
ただし……
“迷いと悩み”と“合理的な判断”の間には、“考える”というプロセスが挟まるものですね。
“考える”には情報が必要です。
たぶん私たちの脳は、より多様な選択肢を見つけて、より自由に対策を検討するために、より多くの情報を短時間に集めようとします。
ときには集めた情報が多すぎて、いつまでたっても決められないという不幸な事態も発生しますが……。
昭和の青春を生きた若者たちは、当時、けっこう長時間、延々と悩んだことと想います。解決のための情報集めが大変だったのです。
図書館へ出向いて調べたり、電話したり手紙を書いたり、人に会って相談したり教えを乞うなど、判断に必要な情報を得るプロセスに時間も手間も費用もかかったのですね。
しかし21世紀の今は、カンタン便利!
スマホ一つで、世界中の情報を集めて、考えることができます。
情報のチョイスから、最適解の抽出まで、最近はAIが勝手にやってくれますし。
昭和の昔に比べたら、日々の意思決定が圧倒的にスピーディで即断即決、“迷い、悩む”ことがほとんどなくなりました。
それ自体は文明の進歩であり、結構な事です。
ただし、罠にも陥ります。
あの小さなスマホ画面で視覚的に把握できる極小の情報で、いつのまにか“考えて決定”してはいませんか?
いやもちろん、画面をスクロールすれば無限大に広範囲の情報をチェックすることができますよ、それは事実。
しかし、知らず知らずのうちに……
スクロールすることすら、先に述べました「コスパ・タイパ・トレンド」を迅速に判断する上で「メンドクサイ」となって、検索して出てきた一番上の最初の画面でポチッとクリックしてやしないか、ってことです。
つまり、スマホという文明の利器を扱うことで、広範囲の多量の情報を使って、自分の“迷いと悩み”を“考えた”結果、最も合理的な価値判断ができた……と思い込んでいるだけで、じつは、正体不明のAIがステマ(ステルスマーケティング)の手口でリストの一番上に持ってきた極小の情報に操られ、支配されているのではないか? ってことですね。
それが、じつは膨大な特殊詐欺や悪徳商法やペテン的な投資勧誘などに引っかかる重大な要因になっているのではないかと……
そうなりますと、スマホなどで即席に得られる情報だけで「コスパ・タイパ・トレンド」を見極めた……つまり“自分で考えた”……つもりになって意思決定しまうことが、じつは相当に危険であることを、常に認識しておかなくてはならないでしょう。
特に陥りやすい罠は、<ウ>の「トレンド」ですね。
これから行くお店を選ぶ時の“口コミ評価”なんか、ステルスマーケティングの会社さんが電子的なサクラを集めてプラス評価をデッチ上げているかもしれませんし、その逆に、ライバル店にマイナスキャンペーンを人工的に仕掛けていることもありえるでしょう。
それが今はもう、正体不明のAIが自動的にやってくれるみたいなので、私たちの想像を超えた巧妙で狡猾な情報操作にドップリつかっていると考えてよいのでは?
それが、スマホのあの小さな画面に濃縮されている。
食い物のお店くらいならまだしも、これが民主主義の根幹たる選挙に乱用されていることが疑われる時代になってしまいましたね。
ある選挙の特定の候補者について、やれ英雄だ勇者だ救世主だのといったベタボメのコメントがドドーッと並ぶ、あるいは逆に対立候補にはボロクソのマイナスコメントがドドーッと並ぶ。
そして投票日の翌日にはアカウントが消されて、怒涛のようなイカサマコメントが最初から無かったかのようにサッと消滅して、跡形も残らない。
なんと、不気味な時代となったものです。
では、どうすればいいのか。
「私は、騙され続けている」
それくらいの認識で、“他人を疑い自分を疑う”ことしかなさそうです。
よく考えて、正しいと思って決めた自分の判断ですら、一秒後には「何者かにハメられたのかもしれない!」と大声で自問でもしなければ、危なくて仕方がない。
それが私たちの時代の、「真のトレンド」なのかもしれません。
いや本当に、キモチワルイ時代感覚なのですよ。
*
そこで『果てしなきスカーレット』です。
ネットを見れば、大量のボロクソコメントがドーッと出てきますが、一方で少数派ながら、真逆の絶賛コメントが集まったサイトもあるようです。
つまり、作品として否定も肯定も、絶対的なことは決められない。
それらの評価はどうあれ……
『果てスカ』は、主人公スカーレットが「生きる意味を見つけていく」ために、「生きるべきか死ぬべきか」という重たい命題を“迷い悩む”、そして“考え抜いて、決める”お話なんだ……と理解できることは、間違いないでしょう。
要するに『果てしなきスカーレット』は、そのテーマをたった一言に煮詰めて凝縮しますと……
「彼女の意思決定」
それだけの物語、なんですね。
スカーレットは、どうやって意思決定したのか。
それが、この物語の肝心かなめのキモなのです。
じつは、ストーリーの最初から最後まで、彼女の“意思決定のプロセス”を描き上げていると称しても過言ではないと思われます。
そう考えると、じつは、なかなか良い作品なのです。
ですから、文庫のP153、墓堀人のセリフが、突然にその重要さを増してきます。
「あんたが知りたがっているのは……!」
「あんた自身だよ!」
つまりこれ、「己を疑い、己を知れ!」ってことですね。
「何が何でも復讐を実行せねばならない」と決定している自分を疑ってみる。
人生を捧げて“復讐する”という“生き方”は正しいことなのか、その意味を自分自身に問いかけることで、改めて“考える”。
そして改めて“意思決定”してみなさいよ……と。
これ、現代の私たちにとって、わりとグサリと刺さる概念ですよね。
スマホがあふれ、スマホを手にして、スマホに訊いて“意思決定”している自分。
たぶん、スマホが無くなると、いろいなことを決められなくなるのでは?
そんな自分を数歩離れて客観的に“再考”してはどうか。
自分の意志決定は、正しく“自分が決めた意思決定”と言えるのか?
いや、実は、私たちは自分では何一つ決められない、というか、本心から自分で“意思決定”することは、やめてしまっているのではないだろうか?
そのように認識すれば、『果てしなきスカーレット』の作品メッセージ、意外と鋭いように思えます。
作品の真のテーマは、「意思決定」。
そうなんですね、ですからP255で聖青年から、
「生きたい、だ! 言葉にして言え!」
と強引に命じられて、
「……生きたい」
と従うスカーレット。
彼女のこの弱気な“意思決定”、こンなんでいいのか!
こんなに被強制的な消極的プロセスで、正しい意思決定ができたのか?
そんなことまで考えさせてくれるのです。
スカーレットは私たち21世紀の現代人を鏡に写したような存在。
“復讐”は正しい選択なのかどうか、“迷い、悩む”スカーレットに、私たちが投影されています。
“スカーレットの父王”は、いわば自分のスマホです。
処刑される父親の、一枚の画面を見て、彼女は“復讐”を“意思決定”しました。
しかし、その画面をチョイとスクロールしたら、“意外なつぶやき”が現れます。
「許せ」って?
Lineの画面に、突然、謎のフキダシが出現したようなものですね。
そして聖青年。
彼もスカーレットにとっては、砂漠で拾った中古スマホみたいなもの。
その画面にユーチューブ動画で渋谷ダンスが出てきて、「生きたい、だ! 言葉にして言え!」
と音声メッセージでしつこく強要してくるようなものです。
それやこれやで、最後に何をどうやって意思決定するのか。
まあ、その結末が、あのタナボタ式ハッピーエンドというのはいさか解せませんが、それもひとつの、問題提起型のフィナーレと解釈することもできるでしょう。
馬鹿凡な「これでいいのだ」ではなくて、「これでいいのか」という終わり方をしているということです。
*
そこで、本稿の本題です。
『果てしなきスカーレット』はどうしてこんなに観客からボコられるのだ?
どうして、こんなことになってしまったのか?
なるほど、という気もするのです。
『果てしなきスカーレット』は、単なる復讐譚とか不可思議満載の異世界冒険恋愛アドベンチャーではなくて、人間の“意思決定”をテーマに据えた、哲学的アプローチの作品なのだと、そう考えてみましょう。
つまり物語の奥底に、人間の“意思決定”はどうあるべきなのか……という真のテーマが隠されているのですね。
ただしそういったことを解明するには、ストーリーの各所が説明不足すぎて大事なことがいろいろと抜けていたりとか、余分なセリフが饒舌にダラダラ続いていたりして、ボーッと眺めているだけではさっぱりわからずに、思考の迷路で堂々巡りしてしまうのです。
そこで、見方を変えてみましょう。
『果てしなきスカーレット』は、普通の映画作品とは逆に、むしろ観客の側に向けて、このストーリーに“迷い、悩み”、そして“自分でよく考えて”、そして観客の皆さんが結論を出してくださいね……と“意思決定”を求めているのではないかと。
観客が自分で、スカーレットに成り代わって「迷い、悩み、考えて、結論を出し、意思決定してください」というのですから、作品のテーマを理解しようと思ったら、正直ものすごく「メンドクサイ」プロセスを強いられる難物作品となるのです。
しかし私たち観客は、スマホを手にした21世紀の一般庶民です。
なにかにつけて、スマホを開いて「コスパ・タイパ・トレンド」をササッとチェックして即断即決していますね。
その時、スマホの言いなりになってはいませんか?
聖青年のセリフみたいに「生きたい、だ! 言葉にして言え!」 と命じられたら、「はい、生きたいです」と意思決定していませんか?
私たちはもう、じっくりと情報を吟味して、自分で“よく考えて決める”ことをやめてしまったのです。
そのことに、気が付いていないだけではありませんか?
そうなると、“自分で考えて決める”=“メンドクサイ”とスルーしてしまっていませんか?
だから、予告編の画面で「生きる意味を見つけていく」というキャッチコピーを目にしたとたん、これは“迷い、悩み、考える”ことを観客の方に求めてくる作品だと気が付いて、そこで「メンドクサイ!」と、論理的よりも情緒的な拒否反応に転じたのではないでしょうか。
*
スマホを使った即断即決に慣らされた21世紀の私たち観客は、すでに、アニメ作品なんかに“迷い、悩み、考える”要素など全く求めなくなってしまったのです。
昭和のアニメ作品の観客は、主要キャラであるヒロインやボーイズに一体となって、“迷い、悩み、考える”ことで、心を共にして成長しました。
令和の時代の観客は逆に、「そんなメンドクサイことはいらない!」と、最初の最初の段階から拒否ってしまうのです。そうではありませんか?
ネットで配信される映画を見る際に、早送りにして短時間で効率よく内容を把握する人も多々おられと聴きます。が、そのような鑑賞法の場合、登場キャラと一緒になって“迷い、悩み、考える”ことは、ほぼ、ないでしょう。
作品をデータとして脳に取り込むことはしても、“主人公の意思決定”のプロセスをじっくりと追って、しばし人生を共にして感動する事なんか、できませんよね。
私たちはそれほどに、「考えることを放棄している」のではないでしょうか。
だから、「観客に、考えることを強制する」作品だと受け止められた『果てしなきスカーレット』は人々からメンドクサがられ拒否されて、予告編の段階から酷評のターゲットにされてしまったのではないか、そう思う次第なのです。
これはたぶん、行動心理学とか認知心理学とか、そういった分野の現象でしょう。専門家様に、ぜひ分析していただきたい事例かと思います。
『果てしなきスカーレット』の公開がもしも昭和の時代だったら、当時の若者たちは、意外とスカーレットに共感して、一緒になって迷い、悩んであげたかもしれません。割と多くの若者たちに、温かく迎えられたのではないかと思います。
『果てスカ』の悲劇は、観る人たちが“21世紀のスマホ人間”だったことにあるのではないか。そんな気がします。
作品の興行不振は、四六時中スマホを覗きながら「考えることを忘れた」哀れなボケカナリアみたいな私たち現代人の“意思決定能力の乏しさ”を反映しているのかもしれません。
【次章へ続きます】




