420●『果てしなきスカーレット』(2025)⑫なぜこんなことに?(前) 予告編拒否反応で大打撃のスカーレット!
420●『果てしなきスカーレット』(2025)⑫なぜこんなことに?(前) 予告編拒否反応で大打撃のスカーレット!
それにしても最後に、不思議に思う点があります。
なんで『果てしなきスカーレット』は、こんなことになってしまったのか?
公開後一カ月半にもなろうとするのに、ネットでは否定的な批判がいまだに燃え盛っているようです。
ただし思想的に偏った作品であるとか、人権を軽視する作品であるといったポリティカルな側面をつついて責めるといった種類のコメントではありません。
単純に「御都合主義でおもしろくない」など、どちらかというと、“物語手法”に関わるテクニカルな部分が、論理的よりも情緒的に嫌われているような印象を持ちます。
そこが何とも、不自然に感じるのです。
たとえば「御都合主義でおもしろくない」アニメ作品なんて、劇場作品だけでなくTVアニメまで含めたら、実際、他にもワンサカとありますよね。
異世界に転生してチートパワーをもらい、しかも王家や貴族など特権階級の家柄に生まれて、努力しなくても天与の才だけでバリバリ活躍できて、ゴボー抜きの下剋上で連戦連勝、最後は天下を取って大勝利すればハーレムもついてきた……と、どことなく“異世界の豊臣兄弟”みたいなラノベなんて、山ほどありそうな……
そんな中、『果てスカ』だけが四方八方から袋叩きでボコられっ放しというのも、不公平な感じが。
いや確かに問題点はいくつか内包しています。
しかし「御都合主義」と言うのなら、薬屋な娘さんが独りでつぶやくお話だって、なぜか美形の優しい上司に恵まれてタイミングよくあれやこれやの事件が起こりますし、ハシラな戦士たちが鬼退治するお話だって、なぜかタイミングよく夜が明けたり救援が到着したり、鬼さんは自動小銃を持っていないとかで、主人公の兄と妹は命拾いし続けますし。ワンなピースの皆様だって、お亡くなりになるのはゲストキャラばかりで、レギュラーの皆様は毎回なぜか全員生還されますよね。
『果てスカ』も、ようやく宿敵を前にして復讐の大願成就という瞬間にスカ嬢が復讐を「やーめた!」になって観客がドドッとズッコケたところで都合よく天罰のカミナリが落ちて「神様ありがとう!」になってしまうのは、たしかに「御都合主義」そのものでしょう。
その代わりようやく愛を知り愛を交わした二人に哀しい別れの運命が訪れるのは、逆に「反御都合主義」として評価されるべきでしょうね。
何が言いたいのかといいますと……つまりどうして『果てスカ』だけがこうも目立つターゲットにされて万人にボコられねばならないのか。この作品、「懲役二時間、罰金二千円」とまで揶揄されるほど罪深いものなのでしょうか。
なにかこう、よほど観客の神経を逆ナデする、特別な“なにか”がスカーレットにはあるのでしょうか??
そこが、わりと“謎”なのです。
*
TVの地上波で二十回近く放映され、今や驚異的な国民的人気作と讃えられる名作も、公開時はケチョンケチョンな結果だった、というケースがありますね。
『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)は製作費5億円で興収6.1億円、配収3.5億円とされています。
また『天空の城ラピュタ』(1986)は製作費6-7億円で興収11.6億円、配収5.83億円とされています。他に「制作費8億に対して興行収入12億」という記述もあります。
両作とも製作費五億から七億円程度で、興収は十億円程度まで、制作会社に入るお金はその何分の一か、ですから、立派な大赤字。
それが、昭和の劇場アニメのありふれた現実だったのですね。
カリ城もラピュタも内容的には歴史的傑作ですが、公開当初はジミジミで、特殊なアニメファンによる“オタクな”嗜好品として、屁の河童的に軽んじられていたわけです。
ですから『果てしなきスカーレット』も、カリ城やラピュタみたいに、長い目で見れば業績がV字回復して地上波放送で視聴率を取り、世間の評判もポジティブな方へ逆転するかもしれません。
欧米では、予想よりも好評で大ヒットするかもしれませんね。
そして期待できるのは円盤商戦。
昨年から今年にかけて、ここまで名前が売れたアニメ作品、類を見ません。
酷評とはいえ、知名度は十分に『国宝』級でしょう。
としますと「かくも有名で、かくも見られていない作品」は『果てスカ』が全国的にダントツ。
悪名は無名に優ると申します。
劇場公開が終わり、DVDにディレクターズカットで“幻の未公開ラストシーン”などが追加されましたら、劇場に足を運んでいない私みたいなファンは、かなりソソられます。もう円盤で観るしかないのですから。
“海外と円盤”でスカーレットは見事に復讐を果たすかもしれませんね。
さらにDVD等の発売に合わせて、永田町のソーリ様が「今度の休みはスカーレットのDVDを観るわ!」と、総理官邸のぶら下がり取材でポロっと一言つぶやかれれば、たちまち怒涛のビッグセールになること間違い無しです。
誠にケーハクで申し訳ありませんが、この国の国民性って、そんなものかも。ソーリ様の一言で爆誕したベストセラー本って、ありますよね。
などなど、目下ニッポンの酷評アニメの筆頭格にあげられる『果てしなきスカーレット』ですが、マジ、果てしないポテンシャルを秘めているのではないか、とも思うのです。
いやフツーに、“良作”の範疇には入りますよね。
悪い作品ではないはずです。
視覚的には綺麗そのものだし、御都合主義でおもしろくなくて、妙に退屈なシーンがあったとしても、それを強調して“致命的欠陥”とするまではいかないように思えます。
なのに、ネットでは信じられない規模でボコり大会の長期戦が続いています。
なぜでしょう?
不思議なことに、『果てしなきスカーレット』の興行は、最初から不振でした。
公開初日から、客足が伸び悩んだのです。
普通、なんというか、最初の一週間ほどは多くの人が観に行って、そこで誰もがズッコケて評判がイマイチだったら、客足が自然と落ちていく……というものと思うのですが。
しかし『果てしなきスカーレット』は、公開以前の予告編の段階から、観客の関心がドン引きするような現象が起こっていたようです。
なぜでしょうか?
ひょっとして予告編に、観客を特定少数の人々に選別し、多数派の観客を自ら排除してしまう内容が含まれていたのでは?
そんな気がいたします。
予告編を見たとたん、「観なくていいや」と拒否反応を感じる人々が多かった。
予告編拒否反応とも呼ぶべき現象です。
*
ネットで予告編の1と2を観ました。
印象に残ったのは次の三点。
一、復讐に失敗してもしつこく執念を燃やすスカーレット。
二、対して「戦いをやめなさい、話し合おう」と訴える聖青年。
三、そうすることで「生きる意味を見つけていく」という作品の大テーマ。
そこで、こう受け止めました。
「そうか、人生のお悩み相談室なんだ」
何が何でも復讐したいスカーレットに、復讐をあきらめさせようとする聖青年。
両者の衝突と相克によって彼女は“人生に迷い悩む”。
聖青年が彼女に迷いと悩みの解決を指し示し、「生きる意味」を見出させる。
そういうお話なわけですね。
そこで直感的に思いました。
「いらんわ、ほっといてくれ!」
人生に迷い悩んで、「生きる意味」を指し示してくれる物語って……
観客個人には、まず、必要ありませんよね。
“小さな親切、大きなお世話”の世界なのです。
何となれば、作品のモチーフである『ハムレット』の名セリフが文庫基盤P254にそのまま引用されているからですね。
P248で老婆が「死んでない者が紛れている」と告げるのを皮切りに、「生きるべきか死ぬべきか」とP255まで延々と迷い悩んで呻吟するスカーレット。
ケリをつけたのは聖青年のセリフでした。
「生きたい、だ。言葉にして言え!」と命令調で諭します。
「生きたい……」とスカーレットはオウム返しに答えます。(P255)
しかしこれ、思いませんか?
「生きる」って、いちいち命令されて決めるもんっスか!?
誰かに命令される以前に、私たちは「どうしようもなく生きていくしかない」状態に追い込まれているではありませんか。
だってこちとら、貧しき庶民です。
「生きるべきか死ぬべきか」なんて迷うのは贅沢そのものの道楽です。
そんな迷いを持てるのは、遅くても結婚するまでの、青春から独身時代までの若い時期だけですね。
結婚したら二人で家計を維持して、出産したらその瞬間から子育てに翻弄され、子供が成長してすんなり就職してくれればいいのですが、突然の離職もあります。ようやく子供が手を離れるころには、夫婦それぞれの両親が年取って、介護の負担がのしかかります。
これが老々介護となれば、もう地獄の日々ですね。
夫婦が長男長女ならば、両親の葬儀で喪主となる負担が、老後の平穏な日々を破壊しかねません。だって親の葬送なんて、いつ来るかわからない、究極のサドンデスゲームなんですから。何年もの間、「明日がXデーかもしれない」と怯え続けるのです。このストレスの重圧、人生を台無しにしかねません。
核家族なので、大勢のきょうだいで負担を分散することができないのです。
それらの負担から解放されたら、夫婦とも七十代に突入し、あっというまに自分たちの介護と終活が迫ってきます。
そこでしみじみと気づかされます。
私たちの人生って、何だったんだ?
若いうちは、あくせくと働きながら子育て。
そして年金生活に入ったら、自分たちの健康が衰えて、病院通いをしながら、認知症で徘徊したりする両親の介護に明け暮れる。
ようやくホッとしたら、たちまち自分たちが認知症だ。
結婚後はもう、「生きるべきか死ぬべきか」なんて悩む余裕すらありません。
子供と親に、人生を捧げることになるのです。
「必死で生きる」、この一択しか残されないのです。
そりゃあ、気軽に楽チンで死ねるなら、楽しそうな異世界に転生して、王族や大富豪や大芸術家の家系に生まれてみたいものです。
しかし現実は、子育てと親の介護の責任がジワジワとのしかかってきて、死ぬどころではなくなるのですよ。
「死にたくても死ぬことが許されないから、生きるしかない」
ハムレット並みに迷うまでも無く、この一択しか残されていないのです。
だからスカーレットと聖青年みたいな、「生きるべきか死ぬべきか」なんてフラフラと悩める贅沢さは、現代の貴族階級である“上級国民”ならいざ知らず、市井の庶民には全く関係ございません。「どんなに人生が空虚でも、死ぬまで生きる」以外の選択肢はあり得ないのです。
だから私も、『果てしなきスカーレット』の予告編を見ただけで、「このテーマなら映画館までわざわざ出向いて観たいとは思わないな、いずれ中古店でDVDを買えばいい」となってしまったのです。
*
『果てスカ』は、ヒロインが固執する“復讐”を、あれこれ“迷って悩んだ”末に、結局、取りやめにする物語です。
せっかくの復讐計画を、途中であきらめる。
これ率直に、つまらんではないですか。
困難な条件をなんとかクリアして、復讐の大願を成就する。
それがリベンジ物語の醍醐味です。
そもそも本家の『ハムレット』からして、多大な犠牲を払って復讐を完遂していますね。
日本人の好きな『忠臣蔵』も『巌窟王』も『レオン』も多大な犠牲を払って復讐を完遂する物語です。
『半沢直樹』も“倍返し”の復讐ざんまい、『コンフィデンスマン』のシリーズもそうですね。天に代わってお仕置きするように、リベンジが成功すればスカッとしませんでしたか。
SF大作の『デューン/砂の惑星』(1984、2021)は王家を滅ぼされた王子の復讐物語。ハリソン・フォード主演の『逃亡者』(1993)は、冤罪を被せられた男の復讐劇でしたね。
戦史の一大イベント、太平洋戦争だって、米国から見ればリメンバー・パールハーバーの復讐物語ですね。
中東情勢なんて復讐の連鎖そのものですし、現職の米大統領も、前大統領に対する復讐にご執心のように見えます。
アニメの大ヒット作もそうです。
『進撃の巨人』も『鬼滅の刃』も家族を殺された人々の復讐物語ですね。
『ONE PIECE』は、いじめ、虐待、迫害などに対する反抗であり、「やり返す」という意味で復讐的な要素が含まれていますね。
だいたい、「強者への復讐をやめる」=「弱者の泣き寝入り」に直結しますので、観客のストレスが増えるばかりです。
ストレスの解消は「復讐の完遂」、これあるのみ。
ですから「復讐やめました」でヒットした作品、まず、お目にかかったことがありません。
確かに細田監督様の大英断による“新しい挑戦”であることは認めますが、だから観客が映画館へ出向く動機にはなりえないのです。
予告編の段階で、「復讐をやめる物語」であることが見えてしまったのが、災いしたと申せましょう。
*
しかもスカーレットの復讐のネタが、不倫による王位簒奪であり、簒奪者クローディアスを殺したとしても、スカーレットがクローディアスを消去して女王に戴冠するだけであって、しょせん“私ンちのお家騒動”の域を出ないのです。
復讐に成功しても、観客からすれば「だから何だよ」になってしまうのですね。
なのでハッピーエンドになっても、「良かったね、がんばったねスカーレット!」と一緒に喜んであげるには、決定的に共感が不足するのです。
父王の冤罪死からリベンジ毒殺に失敗するまでの六年間、スカーレットは臥薪嘗胆で苦心惨憺で辛酸を舐めたわけではなく、剣術と筋トレに励みながら、優雅なプリンセスライフを満喫していたのですから。あくまで王族の、王族による、王族のための復讐劇から外に出ないのです。
これがレ・ミゼラブルのコゼットみたいに奴隷寸前の家畜並みにこき使われるとかしていたら、観客の同情を集めたと思うのですが。
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散々“迷って悩んで”復讐をやめることにするスカーレット。
そんな彼女の結末が、予告編の段階で、観客の側に“見切られて”しまった。
散々“迷って悩んで”、結果はそれなのかよ! ……と。
“迷って悩む”ことを表看板に掲げたがゆえに、“迷って悩む”ことを観客の側から「いらんわ、放っておいてくれ」と突き放されたのですね。
まずはそれが、『果てしなきスカーレット』への、ニッポンの観客の根深い拒否反応の原因ではないかと思うわけです。
【次章へ続きます】




