416●『果てしなきスカーレット』(2025)⑧シェイクスピアの罠? 期せずして陥った“上から目線”のNHKにNHK!
416●『果てしなきスカーレット』(2025)⑧シェイクスピアの罠? 期せずして陥った“上から目線”のNHKにNHK!
◆シェイクスピアの罠と、NHKにNHK!
文庫小説版を拝読いたしますと、『果てしなきスカーレット』には、読者や観客を混乱させる、なんだか金魚のフンみたいな“余分な付け足し”となっている不要な箇所がちらほらと認められます。
例えば……
文庫P151~153の“墓堀人”との対話です。
スカーレットの悪夢の中のイメージではありますが、そこに墓穴があり棺桶があって、死神めいた墓堀人が、これはアレクサンダー、これはシーザーと、墓穴に安置されている主人を説明しますね。
この場面、明らかにシェイクスピアの戯曲『ハムレット』の一節のパロディです。
語られる内容は確かに意味深です。
しかし……
スカーレットは今、“死者の国”にいて、“死者の国”から脱出する予定は見えていません。
“死者の国”で死んだ人間は“虚無”となって消滅し、跡形も残りません。
従って、墓場というものは、ここには存在しません。
現世に生きていたスカーレットの記憶では、墓場が存在して、彼女はそこに恐れを感じていたでしょう。
しかし“死者の国”を旅している彼女にとって、墓場は意味をなさない。
ここで墓堀人が出てきてあれこれ喋っても、彼女にとっては「?」なのです。
なのに、墓堀人が登場している。なぜ?
無くてもいい場面に見えます。
監督様、すみません、失礼をお詫びいたしますが、この墓堀人の場面、監督様がシェイクスピアからの引用をしていることをあえて強調するために、わざと挿入されたのではありませんか?
つまりこれは、『果てしなきスカーレット』に『ハムレット』をモチーフにしていることを、作品中でクッキリと表明しておきたいと願う監督様の技巧的な演出なのではないかと感じるのです。
じつは物語を『ハムレット』と関連づける演出は、ちょっとしつこいと感じるほど、随所に盛り込まれています。
クローディアスをはじめ、悪役たちの名前が『ハムレット』の引用であること。
作品冒頭のエルシノア城からして、実在のエルシノア城(クロンボー城)の精緻なトレースであり、その室内や登場人物のコスチュームなども、「16世紀のデンマーク」を綿密に考証したものであると、公式サイトに所収の“特番”で説明されています。
そして主人公たちのセリフにも、「尼寺へ行け!」「生きるべきか死ぬべきか」といった『ハムレット』の名セリフがオマージュされています。
しかしこれらすべて、『ハムレット』に関連する事象やセリフなどが、「スカーレットの物語」にとって、本当に必要だったでしょうか?
つまり、シェイクスピアの引用をわざわざ形に残さなくても、すべてを物語の背面に隠してしまった方が良かったのではないか?
そんな気もするのです。
*
と言いますのは……
「シェイクスピア」と聞きますと、私どもニッポンの庶民にとっては、世界文学の歴史に金字塔となって輝く、大変に高尚な文化遺産……というイメージが先走ってしまいませんか?
少なくとも、一般的なアニメや漫画の作品とは異なる、なにかこう、別次元の“雲の上の存在”なのですね。
実際、シェイクスピアの代表的な作品、『ハムレット』『リア王』『マクベス』『ヴェニスの商人』などを書籍で最初から最後まで読んだ人、そんなにいないでしょう。
唯一、『ロミオとジュリエット』を児童向けのダイジェスト本で読んだり、オリビア・ハッセー嬢が主演された映画のDVDを観た人がそこそこおられるかもしれませんが。私も最近までその程度でした。
そもそもシェイクスピア作品は舞台劇ですので、文庫や全集の文字媒体はもれなく“脚本”にすぎません。セリフはやたら長く、言葉は難解、そして情景も思い浮かびませんので、これはもう、ある種の精神的拷問ですね。
やはり舞台で見なくては、となります。
しかし国内公演のDVDは結構お高く、多くがダイジェスト版で、セリフに抜けが多く、使われる言葉も難解、聞き取るだけでも難儀します。
となると結局、海外で映画化された作品を、字幕つきで鑑賞するのがシェイクスピア作品を最もリアルな形で見聞きできる手段、ということでしょう。
そうはいっても、たいていストーリーが短縮されていて、意味深なセリフが抜けていたりします。
『ハムレット』の場合、レアティーズの「気高きハムレット、ともに赦し合おう」という肝心かなめのセリフが、映画では1996年の“完全版”と、1947(公開は48)年の“ローレンス・オリヴィエ主演版”、および1990年の“メル・ギブソン主演版”にはありますが、1964年の“ソ連版”では割愛されています。
なお、物語の結末として極めて重要なノルウェー軍の侵攻を落とさずに描いているのは、1996年の“完全版”のみです。
つまりこのように、シェイクスピア作品は、有名なタイトルでも内容が正確に伝わっているとは限らず、かなり曖昧模糊とした作品なのですね。
それゆえに象牙の塔の中に住む、教養深い偉い人のみが読み解くことのできる特別な文学となり、一般庶民からは縁遠い存在になっていると思われます。
*
つまり、天下のシェイクスピア様の作品は、バッグのグ●チやエ●メス、時計のロレ●クスみたいな、リッチーな高級ブランドと化しているのです。
ボンビーな庶民にはどーせ価値を理解できない、手の届かない高級品へと。
それは、下記の三種の付加価値として現れています。
“歴史的価値”と“学術的価値”があいまって、“高級的価値”のドレスを纏っているわけですね。
一、歴史的価値
二、学術的価値
三、高級的価値
そのため、シェイクスピア作品のブランド力を現在の作品にオマージュして借りてくると、その作品の表現手法に、このような現象が発生すると思われます。
一、歴史的価値 → 古臭くなる。
二、学術的価値 → 説教臭くなる。
三、高級的価値 → 上から目線になる。
もしかして、“シェイクスピアの『ハムレット』をモチーフにした”と公言される『果てしなきスカーレット』には、この“古臭くなる”“説教臭くなる”“上から目線になる”という傾向が、わりとあからさまに露見しているのではないでしょうか。
監督様を始め制作者の皆様が、そのような意図はお持ちになっていなくても、“シェイクスピア作品を内容に盛り込んだ”と宣伝したとたん、観客や読者から「古臭くて説教臭くて、上から目線だなあ」といった印象を持たれてしまわないか、ということです。
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そこで、もしかして監督様は「NHKにNHK」になっていませんか?
そのココロは……
「NHKにNH(細田)K(監督)」
『果てしなきスカーレット』はなんだかNHKしてはいないか、そんな印象をそこはかとなく感じてしまうのです。
*
◆NHKの“上から目線”
21世紀、とくにここ十数年のNHKの番組には、あくまで私個人の感想ではありますが、「(番組の内容よりも企画レベルの作り方が)古臭くて説教臭くて、上から目線だなあ」と感じることがしばしばあります。
番組内容はとても良いのに、その“見せ方”にムカッとくるかカチンと来ていたのは、『フロンティア』という、先端科学の現場を紹介する作品。
毎回のタイトルのキャッチコピーがこれでした。(最近は変更されたように思いますが)
「最先端を切りひらく者にしか見えない景色がある」
このキャッチコピー、こちらの頭の中にはこのように意訳されます。
「最先端にはご縁のない時代遅れのシモジモの皆様に、我々N●K様がこんなに貴重な映像を見せてあげるのだ。ありがたく視聴して、喜んでおカネを払いなさい」
毎回タイトルを見るたびに、卑屈なシモジモ感覚にさせてくれますね。
内容は全然“上から目線”では無い良作なのですが、制作姿勢に“上から目線”を感じてしまうのですよ。あ、私の勝手な個人的感想です。
そのほかに、“上から目線”をけっこう露骨に感じますのは、いずれも“現在ご存命の著名な偉人からありがたいお言葉を頂戴するか、その立派な血筋をご紹介する”という番組。
『プロフェッショナル 仕事の流儀』
『ファミリーヒストリー』
『NHKアカデミア』
などがそうですね。
視聴者として抵抗を感じるのは、いずれも“現在存命の著名人”が主人公となっていることです。
すでに亡くなられて故人となり、ある程度の期間を経たお方は、その人物の歴史的評価が確定しますので、番組化して人となりを紹介する内容に、それなりの客観性が担保されると思います。
しかし、今もご存命のお方は、この先、社会的評価がどのように定まるのか、全くの未知数です。今からあんなに“持ち上げて”いいのだろうか、と。
一方、『プロフェッショナル 仕事の流儀』『ファミリーヒストリー』『NHKアカデミア』などの番組は、著名人その人を主人公にして、明らかに「褒めたたえる」内容となります。
人間、誰しも“明と暗、光と闇”を内在しています。百%パーフェクトな聖人君子なんて、一人もいないと考えてよいでしょう。
しかし前掲の番組は“印象を悪くする要素や黒歴史”といった“不都合な真実”があったとしたら、絶対に隠しますよね。少なくも除外し、無視するか素通りします。そうしなければ、主人公の偉人様に対する名誉棄損が成立してしまいますから。
そこに、番組制作の姿勢に関する“偽善”を感じてしまうのですよ。
「尊敬すべき偉い人の偉大なお言葉を拝聴しなさい」
そんな“上から目線”をひたひたと浴びている気分になるものです。
これが民放ならお好きになさればいいのですが、N●Kという国内最強の権威ある公共媒体が、番組を通じて特定個人に“尊敬すべき権威”を授けているのが露骨に感じられるわけですね。
だって、“よいことしか伝えない”のが前提となるのですから。
私は上記の三番組は、まず視聴したことがありません。
かわりに見ていたのは民放の『しくじり先生』です。
失敗例こそ人生の参考になります。
成功例はあまり勉強になりません。
成功例の裏に、いろいろと“隠された不都合な真実”があったりもするからですね。
他人のアイデアを盗んだり、ライバルを蹴落としたり、コネありきの利権だったり、たとえば古い事例では、株で大儲けした裏には、証券会社のエコヒイキな“損失補填”があったりとか、ですね。
そういった重要な事実が伏せられているかもしれないのですから。
もっとも、NHKでも、『あの人に会いたい』のように、故人となられた著名人の映像をリプレイされる番組には好感が持てます。すでに人物評価が時代に検証されたお方の言動となりますから。
また、『アナザーストーリー』『ダークミステリー』『英雄たちの選択』で時おり紹介される、“やらかしてしまった、生き方の失敗例”は教訓として役立ちます。
また、BSで放映される昼間の映画劇場、あの作品の選択眼は時宜を得ていて、素晴らしいタイミングで見せておられると思います。それと、“NHKの制作ではない海外ドキュメンタリー”も非常に充実した内容を誇ると思いますよ。
個人的感想として最低なのは、視聴率ワースト1.2.3の大河ドラマ三作品と、『紅白歌合戦』と、ときどき大ハズレを出す特別枠のスペシャルドラマです。
大河ドラマは、『黄金の日日』『独眼竜政宗』『山河燃ゆ』『獅子の時代』『春の波涛』『花神』などは良かったのですが、“視聴率ワースト1.2.3の作品”はさすがに「カネ返せ!」ものです。役者さんの演技も、脚本家さんの努力も十分に感じられますが「そもそもの企画意図がスカタンだ」としか思えません。誰に言われてあの企画をやらかしてしまったのやら……
『紅白歌合戦』は半世紀以上も昔の1960年代こそ視聴率が80%ありましたが、最近は30%。じっさい、見なくなりましたし、巨額の投資に見合うのか、再考してほしいところです。
なのに、夜7時過ぎからの本番のために、夕方5時から延々と前宣伝の番宣番組“まもなく紅白!”をやるなんて、いやNHK様、何を考えておられるのか?
歌番組は民放で十分ですよ。そろそろ別な企画をお考え下さい。紅白なんてハナから見ないんですから。
そして直近は、スペシャルドラマの『火星の女王』。火星と地球で発見された“謎の物体”の驚異的な機能と、“火星に残された人々が今後自活してゆく手段”の関係性がまるでわかりません。それぞれ無関係なドラマじゃないか? それに“火星の女王”ってタイトルは何のことで、誰を指しているのか? 一時間半×三話分の四時間半、混迷と退屈に消費するには、私だって年末は忙しいのだ! そんな暇は無いのだ! 時間を返せ!
……と、つまらぬ話題を続けてしまい、申し訳ありません。
要するに申し上げたいのは、『果てしなきスカーレット』の文庫小説版を読み終えまして、「なんだか最近のNHKの番組に似通ったスカタンを感じてしまった」ということなのです。
ものすごく酷な言い方で、本当に申し訳ありませんが……
「とてつもなく綺麗な“きれいごと”を、どことなく“上から目線”で、“さあ、有り難くご賞味あれ”」と差し出されたような、そんな気配が漂ってしまうのですよ。
もちろん細田監督様が、そんな“上から目線”の意図をお持ちのはずがありません。
これだけは確かだと申し上げたく存じます。
監督様の制作意図や制作手法に、誤りがあったとは全く思いません。
ただ、ひとつの失策として、「シェイクスピア作品をモチーフにした」と発表されてしまったことがあげられると思うのです。
『果てしなきスカーレット』はシェイクスピアゆかりの作品だ……とレッテルを貼ってしまった瞬間、作品に「古臭くて説教臭くて上から目線」のイメージが、コバンザメみたいに貼りついてしまったのではないでしょうか。
シェイクスピア・ブランドの権威が、逆効果になった。
これ、“シェイクスピアの罠”かもしれません。
はからずも、意図せずして「NHKにNH(細田)K(監督)」になっちゃったのではないか。
そう思うのです。
◆シェイクスピア作品は古臭くて説教臭くても「上から目線」ではなかった!
しかしシェイクスピア作品は、もちろん古典なので古臭いですし、セリフも長くて説教調になるのはやむを得ません。
西暦1600年の昔、ニッポンではまさに関ヶ原の戦いをやらかしておりました。
大坂の陣はこれからです。真田丸の時代ですね。
シェイクスピア作品は、そんな時期の演劇です。
21世紀のような、派手な舞台装置にレーザー演出、ワイヤー操演といったビックリアクションなどあり得ません。
とにかくセリフだけで観客に想像してもらわねばならない。
セリフが説教調になっても、むべなるかな、ですね。
*
ではシェイクスピア作品は“上から目線”だつた?
その真逆だったはずです。
ネットの記事
●シェイクスピア時代のロンドン演劇事情…大衆娯楽として芝居が盛況した理由とは?
2021.3.22Popular 『@audience』の“人気演劇コラム”より
シェイクスピアが活躍した約400年前のロンドン演劇界は、市民に観劇文化が根付いた時代とされ、演劇史では「エリザベス朝演劇」としてその興隆が語られます。それまで貴族邸を巡業していた劇団が市中の劇場で公演を打つようになり、芝居が多様な階級に親しまれた時代です。(中略)
変化のはじまりは1576年、ロンドン最初の劇場、シアター座の建立です。庶民のための立ち見エリアと貴族のための観覧席が設けられ、上流文化だった劇団の公演が庶民にも手の届く娯楽として市民に開放されました。
ピューリタン革命で劇場が閉鎖されるまでの約60年間、ロンドン市内外には延べ16もの劇場が建設され、中には3000人規模の大劇場もあったそう。これは、演劇史上類を見ない速さでの劇場開発であり、他のどの時代、地域と比べても圧倒的に演劇文化が普及したことを裏付けています。
*
シェイクスピア作品が上演された劇場環境には“庶民のための立ち見エリアと貴族のための観覧席”が同時存在していました。
彼の作品は、それまでのような貴族相手の作品でなく、ボンビーな庶民からも木戸銭を稼ぐ大衆演劇の側面が大きかったと思われます。
シェイクスピア作品は21世紀では“世界名作”として讃えられ、権威ある文学遺産としてアカデミックに評価されていますが、もともとは大衆演劇であり、現代の観客よりも知識も語彙も少ないボンビー庶民にも理解できる、世俗の作品だったはず。
つまり“上から目線”のはずがないのです。
もしも貴族を喜ばせるだけの“上から目線”の作品だったら、ただでさえボンビーな庶民が劇場に来るはずがなく、観覧スペースはそれこそスカスカになったはず。
しかしシェイクスピアの凄いところは「貴族と庶民の両方に受ける作品」を意図的に量産できたことにあるのでしょう。
『ハムレット』を庶民が観れば、「お高く留まっていても、貴族連中は殺し合いばかりで全滅だぜ」と内心で嘲笑し、週刊誌のスキャンダル暴露記事を読む気分になれたでしょう。
一方、貴族が観れば「正義の仇討ちを完遂したハムレットは立派で気高い」と感激し、涙する貴婦人もいたのではありませんか?
「貴族と庶民の両方に受ける作品」、つまり「神聖でありながら世俗」という、相反する要素を、作品の受け止め方によって双方満足させるように絶妙に配剤した傑作という事なのですね。
これがシェイクスピア作品の多くに共通する魅力であると思います。
しかしどうも、『果てしなきスカーレット』のストーリーは、どちらかといえば貴族趣味の方に寄り添っていったように思われます。
21世紀の今、本来は庶民的だったシェイクスピア作品は、壮麗な権威をまとった高級ブランド作品となり、ボンビーな庶民からは遠ざかってしまいます。
どう見ても、アニメみたいに気軽に楽しめるテイストではありませんしね。
ただしこれは世界的な傾向でなく、ニッポン独自のガラパゴス的なシェイクスピア・ブランドの高級化かもしれませんが。
ただ、シェイクスピアの名を冠してしまったことにより、『果てしなきスカーレット』が「古臭く、説教臭く、上から目線」という、現代ニッポンのシェイクスピア・ブランドのイメージを被ってしまったのではないか、それが作品内容にとってマイナスに働いてしまったのではないか、そう考えるわけです。
だから「シェイクスピアの罠」というべきかもしれませんね。
*
『果てしなきスカーレット』は『ハムレット』の雰囲気を匂わせながらも、表向きは無関係を装った方がよかった。
「16世紀デンマーク」は「とある異世界の異国」でもよかった。
ほら、『ゼンダ城の虜』(アンソニー・ホープ作1894年出版)という世界名作の冒険小説は三回にわたって映画化されている傑作ですが、その舞台は、中央ヨーロッパの架空の国ルリタニア王国。
ですから、オズでもナルニアでも、カリオストロ公国でもエイルシュタット公国でも良かったのです。
それでも十分にお話は成立しますし、絵的には、お城のビジュアルは実在のエルシノア城とクリソツで問題ないですし。
そしてクローディアスやガートルードといったシェイクスピア・キャラの人名は、もっと覚えやすいアニメチックな名前にしておかれてもよかったでしょう。
シェイクスピア作品から、良い意味で脱却していた方が、スカーレットの生き方にハムレットがダブることなく、その演出が際立ったのではないでしょうか。
次章では、作品の問題点と「こうあってほしかった」を一気にまとめます。
【次章へ続きます】




