四話
自宅に辿り着いても、それで全てが終わったわけではない。
ナレシュはナイゼルの濡れた衣服を脱がせながら、着替えさせるべきかその前に風呂にいれるべきか悩んだ。
触れてみたナイゼルの体は相変わらず熱く、呼吸は荒い。風呂は不要と判断し、タオルで全身を拭ってから自身の服に着替えさせ、ベッドへと運ぶ。これだけでも大分重労働であったが、濡れた服の始末や看病などの手配も必要だとナレシュは動き続ける。
軽くくしゃみをしながら濡れたナイゼルの服を拾い上げたナレシュは、ぼちゃり、と濡れた音を立てて落ちた紙袋を見下ろし、そっと持ち上げた。
あくまでそっと拾ったのだが、びっちょりと濡れた紙袋である。底が抜けて中身が床へと落ちたことにナレシュは天井を仰ぐ。
現実逃避も一瞬に、落ちたものを拾おうとしたナレシュは、その手を止めた。
錠剤が僅かに残った薬瓶。ラベルには──
ナレシュは無言でベッドのある部屋を振り返る。
気づけば、覚えのある香りがそこかしこに満ちていた。
叶うならその香りのもとを腕に抱いて眠れたら、どれだけの安らぎを得られるだろう。
煩わしさなど一欠片もない、ただ心地良さと安寧を静かに約束する香りがナレシュを誘う。
ふらり、と足を踏み出し、ナレシュはベッドで眠るナイゼルを見下ろす。
じりり、とどうしようもなく強い感情がナレシュの胸を焼いた。
ナイゼルが目を覚ますと、そこは暖かなベッドのなかであった。
きょろり、と動かぬまま視線だけ周囲に巡らせれば、窓から差し込むのは麗らかな日差し。どれだけ時間が経ったのか見当もつかない。
更に周囲を見渡せば、ベッドの側に椅子を引き腕を組んだナレシュの姿があった。
偉そうな仕草がよく似合う、と場違いに思いながら見つめるナイゼルが無言でいると、ナレシュが口を開いた。
「体調管理を怠るのは如何なものか」
「……せめて、第一声は案じてほしかったですな」
ふん、とナレシュが鼻で笑う。
「自傷したも同然の相手を案じるほど、私は暇ではない」
「体調管理を怠ったのは私ですが自傷とは心外ですな。看病はしてくださったようですが、これで閣下にお暇があればどれほどの厚遇になったのか……いやはや想像も及びませんな。蝶よ花よと愛でられるのでしょうか。またオメガやアルファが喜びそうな」
「それだけ話せれば十分だな」
ナレシュがサイドボードから小瓶を持ち上げ、ナイゼルの眼前に翳した。
碧色の目をかっと見開き、ナイゼルは飛び起きて小瓶を引っ手繰った。
「っ何故!!」
急に起きたことでふらつく体を無視し、ナイゼルは声を荒げた。
睨むような激しさで凝視されても、ナレシュは静かな表情を崩さない。
数秒の無言、ナイゼルの呼吸が整い始めたところで、漸くナレシュは口を開く。
「お前の濡れた服を片付けるときに出てきた……抑制剤か。ベータには必要のないものだな」
「……知り合いに、届けるところでしてね」
「ほう、お前は使い差しをひとに与えるのか」
「まだ新しく、希少なものなので量が最初から少ないのです」
「嘘だな」
断じるナレシュにナイゼルの鼓動が跳ねる。
「いや、一部は嘘ではないか。新しいというのは嘘ではないが、最初から少ないのではなく、お前が飲んだのだろう? ナイゼルよ。
医者が嘆いていたぞ、用量を守っていればそんな残量にはならない、とな」
ナイゼルはナレシュが全て調べ終わっているのだと察し、強く唇を噛んだ。
優秀なアルファ。アルファのなかでも誰よりも優れ、その仕事振りは部下としてもよく見聞きしていた。それがいまは心底忌々しい。
知られたくはなかった。
ベータではなく、オメガなのだと、ナイゼルはナレシュに知られたくなかった。
今までの振る舞いは物好きなベータの好奇心から、オメガの擦り寄りへと意味を変えるだろう。
いや、最初からそうなのだと言われれば否定できない。
ナレシュにだけ感じるフェロモン。そこに好奇心を覚えたのだと、興味を抱いたのだと、最初はそうだったのだと、どれだけ言い募ったとしても、結果はオメガがアルファに惹かれた以外のなにものでもないのだから。
「ナイゼル」
「なんでしょうか。ベータ性の偽称で私を罰しますか? どうぞ、なんなりと受け入れましょう」
浮かべたナレシュ曰くの品がないいやらしい笑みとやらは、自嘲になっていないだろうか。それだけが不安だった。
もう、なにもかもがどうでもいい。
どうしてここまで自暴自棄になっているのか分からないが、ナイゼルは「もう終わりだ」という気持ちでいっぱいであった。小瓶を握り締める手が真っ白になる。
「お前は口数が多すぎる。ひとの話は最後まで聞け」
「……仰せのままに」
「……その薬だが……飲むのをやめろ」
「何故? これがなければ困るのを、閣下のようなアルファにはお分かりいただけませんかな?」
「強すぎる副作用を持つ薬を飲みすぎるな。一般的な抑制剤に切り替えろ、と言っている」
ぎり、と歯を軋ませ、ナイゼルは床に小瓶を叩きつけた。割れた小瓶から錠剤が溢れる。
「貴方とて知っておられるだろうっ? オメガの! アルファの煩わしいフェロモンを!! 私はあれが我慢ならぬのです!!! あの吐き気を催す空気も! それを放っている自身も! それらに群がって伸ばされる手も視線も、なにもかもがだ!!!」
怒鳴り散らせば目眩がした。ぐらりと倒れそうになるナイゼルを支えたのはナレシュの腕で、触れた肌からは泣きたいほどに心安らぐ香りがした。
「……もう、私は知っている……ならば、もうそれ以外に煩わされたくなどない……」
ナレシュのフェロモンだけに惹かれる。
もう、ナレシュ以外のものに意識を妨げられるなど堪えられない。
ナイゼルは、ただナレシュだけを感じていたかった。
「私は確かにオメガとアルファのフェロモンを煩わしいと思っている。あれらは香害に他ならん。アルファにもこの薬のようにフェロモンを封じる薬を開発しようという向きがないのは何故なのかと、疑問に思ったことさえある。
だが、例外というものを理解した」
ぐ、とナイゼルを抱き寄せて、ナレシュは彼の病んだ女のような顔をそっとなぞった。
それだけでナイゼルの背筋にぞくぞくとした痺れが走る。
ナレシュが琥珀色の目を細める。ナイゼルの前で浮かべた、初めての笑みであった。
「お前だけは、お前の香りだけは、何時も心地よいものであると思っていた。どんな薬で薄めようと、封じようと、お前の香りだけは分かる。私だけは、分かる」
くく、と笑声まで上げて、ナレシュははっきりと笑った。
「運命などくだらぬな。故に、これはただの我欲に過ぎん。ナイゼル、私は側に置くならお前以外では堪えられん」
「……本気で仰っておいでか」
「戯れで言う必要のあることか?」
ナイゼルはぐ、とナレシュの胸を押した。
逃れるような仕草にナレシュの眉間に皺が寄る。
「……私は、私のフェロモンはいま、薬によって薄まっているに過ぎませんので……薬が抜ければ、閣下にとって好ましくないものに成り下がる可能性もありましょう。お言葉はもっと、考えて述べられるがよろしい」
「ほう、では薬が抜けた際も同じ言葉を言おう。そのときは──お前の項を噛ませろ」
信じられぬと目を見開いて、ナイゼルは呼吸すら止める。
ナレシュに冗談を言っている気配はない。
冗談だとすれば相当質の悪い冗談だけれど、冗談であってくれれば、とどこかで願ってしまうのはナイゼルがナレシュの言葉を信じ切ることができないでいるからだ。
「は、はは……お戯れを……」
「戯れは言わん」
冗談で済ますことも、流すことも許されない。
ナイゼルは薬が抜けたとき、ナレシュにとって変わらぬままであれば項を噛まれる。
ナレシュの番になる。
「…………疎ましいとお思いになれば、後ろから撃っていただきたい」
「いいだろう。そんな日は来ないがな」
あまりにもはっきりとナレシュが言い切るので、ナイゼルもとうとう笑ってしまった。
そうであればいい。
そうあってほしい。
そう思いながら、わらった。
「おや、ナレシュ殿。また囀り雀に追い回されておいでか」
「そういうお前は今度は誰に引っ付いてもぐりこんだ」
社交の場、賑やかなパーティーの喧騒離れた庭でナレシュとナイゼルは向かい合う。
「来たいのであれば私と共にくればいいだろう。そうすれば私とて無難な同伴者探しに困らん」
「我が身が可愛いか弱いオメガは、嫉妬に狂ったオメガやアルファの視線で串刺しになどされたくないのですよ」
ふん、とナレシュが鼻で笑う。
「私が番をそのような目に合わせるとでも?」
「おや、それは頼もしいことを仰いますな」
「次があればお前が来い。いいな」
「否は聞いてくださらぬのでしょうなあ。まったく、亭主関白でいらっしゃる」
「番を常に側へ置こうとしてなにが悪い」
ナレシュに抱き寄せられ、彼の腕のなか、彼の香りに包まれてナイゼルはうっとりと微笑む。
「いいえ? なにも、なにも悪くなどありませんな」
満足そうに頷いて、ナレシュは噛み跡があるナイゼルの項へ手を回す。
重ねた唇は、ただただ心地良かった。