2話 映り込む霊の怪
『怖くね?』
電話口から聞こえてくる声に、三隈は考え込んだ。
ある夜。
突然、稲田から「マジでヤバい動画がある!」というメッセージと共に、一本の動画が送られてきたのだ。
それは、カラオケ店で騒ぐ様子が収められている動画なのだが、大部屋の隅に妙に空いたスペースへと画角が移ったその瞬間、暗がりとなっている場所に俯いた女が立っている、という内容のものだった。
撮影者は、当時それには気が付かず、そのまま暫く動画は続き、騒ぎの途中でふいに終わる。
その最後の一瞬に再び暗がりが映り込むのだが、そこに女の姿はない。
ただ、「ふふ」という忍び笑うような声が、動画の終わりに入っているのだ。
『これ撮ったのさ、同期の林君って奴で、こういう動画を作ったりするような奴じゃなくてさ。だから、ホンモノだぜ、これ』
稲田は、興奮を抑えきれないというように声を弾ませている。
「まぁ……それを信じるなら、本物なんだろうな」
三隈の答えに、稲田は不満そうな声を上げた。
『なんだよー。こういうのを求めてんじゃねぇの、お前』
「そうだが……。こうも簡単に撮れるものなのか、と思ってな」
『だから、超真面目君だから、そういう冗談とかドッキリとかしねぇって』
「そうじゃなくて。身近に実際に心霊ビデオを撮るという例が出るとは思ってなかったんだ」
僅かに苦々しさを滲ませた三隈に、少しの間を空けてから稲田は「ふはっ」と笑い声を漏らした。
『お前……もしかして、羨ましいんだろ』
ケラケラと笑う稲田に、三隈はじっと耐えてから「当たり前だろ」と返した。
「心霊現象……幽霊の姿を映像に残すなんて、簡単そうに見えて難しいだろ。そもそも心霊現象を体験するということ自体が稀だっていうのに。……シャッターが切れないくらいで喜んでいた俺が馬鹿みたいだ」
三隈の言葉に、稲田は暫く小さく唸ってから、気まずそうに口を開いた。
『ごめんて。お前が喜ぶかなーと思って動画送って貰ったんだけど、余計なお世話っていうか──』
「いや、喜んではいる」
『……だよな。じゃあ、まぁ……そういうことで』
電話口でガリガリと稲田が頭を掻く音がして、長く息を吐くのが続いた。その後、スッと吸ってから、なんてことはない風に言う。
『で、一応何処の店かは聞いてんだけど、行くだろ?』
その言葉を聞いた瞬間、三隈は思わずテーブルを叩いていた。
『え、なに、怒ってんの?』
「怒る訳ないだろ。ナイスだ稲田」
『あー……なんか、逆に怖いんだけど。ちなみに一人で行ったり──』
「稲田ヘルプ」
三隈の言葉に、稲田は小さく笑い「仕方ねぇなぁ」と声を返した。
『お前の次の休みっていつだっけ。ちなみに俺は──』
「待て」
『ん? どした?』
三隈は、その問いには答えず、スマートフォンに表示された通知をタップした。
メッセージの差出人は「ひめ」。
花畑で友人と思しき相手と笑顔でポーズを取っている写真のアイコンの横に、随分と似合わない文言が並んでいる。
『三隈さん。なんでこんな動画送ってくるんですか! この女の人、私の方に来ちゃいました。今度は、何してるんですか⁉』
続いて送られてきたのは、アイコンの写真と同じタイミングで撮られたであろう写真だった。
淡い色の花畑の中に、仲の良さそうな二人が立ち、その奥に──女が俯いている。
つい今しがた目にしたばかりのその姿を、見間違える筈はない。
あのカラオケ店に居た女だ。
動画は稲田から三隈へと送られた。
当然、三隈からは誰に対しても転送してはいない。
「稲田……ヘルプ」
『それはさっき……いや、何があった?』
三隈は稲田に事の次第を説明し、そうしてから高野姫への返信を考え始めた。
数日後。
仕事終わりに駅で稲田と合流した三隈は、高野との待ち合わせ場所に選んだ喫茶店に着き、店内にその姿を見つけて、小さく唇を噛んだ。
「お待たせ、高野さん」
さっさと歩いて行き、ひらひらと手まで振っている稲田を、恨めしい思いで見つめてから、渋々と後に続く。
「あ、お久し振りです。稲田さん、三隈さん」
しかし、小さく手を振って笑顔で応えた高野の姿に、何処かホッとしたような気になって、三隈は高野の斜向かいに腰かけた。
「元気そうで良かった」
思わず出た言葉に、高野はきょとんとしてから、柔らかく笑みを浮かべた。
「もしかして、心配してくれてたんですか」
「……まぁ、元々高野さんにあれを送るつもりはなかったのに、巻き込んだ形になったからな。高野さんは別にこういう話が好きな訳じゃないだろう? 今まさに完全に巻き込んではいるんだが」
店員が二人分の水を運んでくると、メニュー表をパラパラと捲っていた稲田が「俺、カレーセットで。ドリンクはカフェオレの冷たいの」と言いながらメニュー表を三隈に手渡した。
それを軽く覗いた三隈は、サンドイッチのセットを注文し、そうしてから高野に視線を戻した。
高野は既に注文したパンケーキを半分程食べ、アイスティーも同じくらい減っていた。
「あの後、他の画像や動画に影響は?」
三隈が訊くと、高野はちらとテーブルの上のスマートフォンに目を向け、首を横に振った。
「特にはないです」
「高野さんの札で消す……訳にはいかないんだよね?」
稲田が訊くと、高野は難しい顔をした。
「消す、ことは出来ると思うんですけど……その時にこの写真ごと消えちゃったら嫌だな、と思って……。この写真、由梨ちゃんも私も良い表情してるから特にお気に入りの一枚なんです。だから、何かあったら嫌で……。あ、由梨ちゃんっていうのはこの写真で一緒に写ってるお友達なんですけど」
何処か照れたように言った高野は、しかしすぐに表情を曇らせた。
「どうにか、この女の人に此処から居なくなって貰うようにしないとですね」
「結局今回も高野さんのお札に頼ることになっちゃいそうね。まぁ、いつものことだけど」
稲田の言葉に、高野は曖昧に微笑んだ。
高野姫とは、以前に三隈が路で遭った怪異がきっかけで出会った。それよりも前に稲田の祖母を通して高野手製の〝お札〟を手にしていたのだが、全くの偶然の一件だった。
高野は祖母から教わった〝おまじない〟を描き込んだ札によって、願いごとを叶えることが出来る。本人が言うには「偶然そういう風になっただけで、能力はない」のだが、今までに何度も三隈達は助けられていた。
〝おまじない〟の他に書き込まれるのは「安心安全」「囁き禁止」などかなり独特で間の抜けた言葉ばかりだが、そもそもが〝祈り〟から発生している力であるのなら、高野独自の言葉選びの方が、効力があるのかもしれない、と三隈は考えていた。
高野の札について、皆が深く探究するつもりがないから、この謎が解明されることはないだろう。
しかし、確かに効力のある〝お札〟なのであった。
丁度注文したものが運ばれてきて、高野もパンケーキの残りを食べ進め始めた。
バクバクとカレーを口に運んでいた稲田が、ふと気が付いたように三隈を見やった。
「そういやさ、巻き込んだってことを気にするなら、俺は?」
そう言って、自身を指差す。
それを横目で見てから、三隈は鼻で笑った。
「お前は楽しんでるだろ」
「いやいやいや、怖がってるって。お前が『稲田ヘルプ』って言うから、仕方なくだな」
「高野さん。こう言ってるけど、こいつは楽しんでるんだ。この間もトンネルで山の神に遭った時も──」
「山の神?」
きょとんとする高野にかいつまんでトンネルで起きたことを話すと、高野はむっと頬を膨らませた。
「もぅ。やっぱり、そういうことしてたんですね」
そう言ってから、うーんと考え込む。
「三隈さんのそのままにしてる人形……呪いって、強くなってたりしませんか?」
「強く……」
その可能性を考えていない訳ではない。
三隈は以前に呪いを込められた人形を自宅に仕込まれ、その上恐らくその犯人だと考えられる女に、生前死後付きまとわれたことがある。
結局、それも高野の札によって解決し、何者かが扉を叩いたり、夜な夜な首を絞めたりということはなくなったのだが、件の人形は今でも廃棄せずに所持している。
「一応、高野さんの札で包んでいるけど」
「以前にも言いましたけど、私は霊能力者とか、除霊師って訳ではないので……あまり過信しない方が良いと思うんです。──オカルトマニアの三隈さんにこういうことを言っても仕方ないとは思いますが……」
諦めきった顔で言う高野の様子に小さく笑ってから、三隈はサンドイッチを口に運び、珈琲で流し込んだ。
雑居ビル群の中に、特に煌びやかに光る一角がある。
三隈達が目指すカラオケ店は、よくあるチェーン店だ。店舗入口は綺麗に掃除され、窓ガラスもよく拭かれていて清潔感がある。
とても、幽霊の出るカラオケ店には見えなかった。
「なんかめっちゃ綺麗な店ね」
「そうですね。でも……何となく、違和感というか……」
高野は五階建てのビルを見上げ、「うーん」と眉を寄せた。
「何かを感じるのか?」
三隈が訊くと、眉間の皺を深くする。
「感じるというか……綺麗な筈なのに、汚い感じ……空気が汚れているような感じと言うのか……」
「空気ねぇ」
稲田は辺りに視線を向けながら、クンクンと鼻を鳴らす。そうしてから、首を傾げた。
「んー、俺にはさっぱり判らない」
「当たり前だろ。俺達にはこれっぽっちもそんな力ないんだからな。──行くぞ」
三隈が言うと、稲田は「へいへい」と気の抜けた声を出し、扉を潜った。
「いらっしゃいませ」
店内の雰囲気に合った、何処か品のある様子の店員が笑顔で三隈達を出迎えた。
「三人で。あ、出来れば二階の奥の部屋が良いんだけど、空いてます?」
指を三本立てながら言った稲田に、店員は少しの間を空けてから答えた。
「二階の奥、ですか?」
「階段上がって突き当り右の部屋……だったかな。この間知り合いがそこ使ったみたいなんですけど、なんかいい部屋だったとか何とか言ってたんですよねぇ」
店員は、曖昧に頷くと、カウンターの中のモニターに目を落とした。
「埋まってます?」
稲田が訊くと、店員は僅かに眉を寄せてから、首を振った。
「いえ……ご利用頂けます。もし、何かあれば部屋を交換しますが、他が埋まっていたらそれも難しくなりますけど、良いですか?」
「大丈夫です。──な?」
稲田は三隈と高野を振り返り訊くと、手早く手続きを済ませた。
階段を上がり、二階の廊下に出る。
左右に幾つもの扉が並び、その内の幾つかから微かに歌声が漏れ聞こえていた。
「やっぱり、何か知ってんのかな?」
「まぁ、店員なら知ってることもあるだろう。掃除をする時に何かを感じる、とかな。ただ、使用禁止にはしていないのが気に掛かる……が、本部の意向とかそういうやつだろう」
「そうねぇ。ありそう」
稲田が苦々しい声を出し、部屋の前で足を止めた。
扉が開け放たれ、未利用だということが判る部屋は、何の変哲もない。
「んじゃ、入るぜ」
「あぁ」
三隈は頷き、後ろをついて来ていた高野を振り返った。高野は不安そうに胸の前で手を握りしめていたが、覚悟を決めたようにパッと手を下げた。
「行きましょう!」
「あぁ」
部屋に入り、扉を閉める。
先程迄届いていた他の部屋の音は殆ど聞こえなくなり、閉じられた空間特有の重苦しさが生まれた。
三人で入り口付近の狭いスペースに佇み、動画で見たものと同じ画角で部屋を見渡す。
「あの辺り、だよな?」
稲田が部屋の一画を指差した。
ソファが途切れ、微妙に空いた空間がある。空間といっても、そこで何が出来るでもない。所謂、デッドスペースと呼べるものだ。
そこに、女は立っていた。
三隈は稲田を見やり、ソファを指差した。
「とりあえず、座れ」
「え、俺? まぁ……いいけど」
稲田に続いてソファに腰かけた高野が、いつまでも入口に立ったままの三隈に首を傾げる。
「三隈さん?」
それに応えず、三隈は鞄からデジタルカメラを取り出した。
「まずは、撮影だ」
「あ……はい、そうですね。って、私達も映るんですか……?」
恐る恐るといった風に訊く高野に、三隈は頷いた。
「ある程度再現をした方が良いかと思ってな。一人は撮影をしなければならないし、撮影するなら俺だ」
「そ、そうですね」
高野は稲田と顔を見合わせ、曖昧に笑い合う。
「というか、この間のデジカメと違くない?」
「あぁ、それも持って来てるが、今回の件はちゃんと映せた方が良いと思ってな。新しく買った」
「へぇ、金持ちぃ。てか、スマホで良くない? 別に映りとか気にする訳じゃないじゃん? お前が映すのって、こういう心霊系のことだろ」
その言葉に、三隈はデジタルカメラから目を上げ、ふと高野を見やってから視線を逸らした。
身構えた高野が、恐怖に顔を歪める。
「な、なんですか三隈さん! その間は何ですか⁉ どんな理由でデジカメ買ったんですか⁉」
「……スマホでこういうものを撮ると、画像やら何やらに不具合が起きる可能性があるからな。撮影用で分けることにした」
シンと部屋が静まり返る。
パッと立ち上がった高野が、手をぶんぶんと振り回しながら三隈に詰め寄った。
「もー! 酷いです! 私の大切な画像は可笑しくなっちゃいました! 例え三隈さんの意思じゃなくても、三隈さんが切っ掛けなんですからね!」
僅かにたじろぎ、後退した三隈は、難しい顔をした。
「それについてだが、そもそもあの動画を送ってきたのは稲田だ。高野さんは稲田の連絡先も知っているだろう? なのに何故俺からだったんだ?」
「それは……」
考え込んだ高野は、ふとデジタルカメラの画面に目を留め、「あっ」と声を上げた。そうしてから、パッと部屋の一角に目を向ける。
その様子に三隈は画面を覗き込み、同じように視線を移した。
事態を察した稲田が二人の視線を追い、そろそろとソファを移動した。画面を覗き込み、小さく唸る。
「うわ……居るじゃん」
画面には、部屋の隅に俯いて佇む女の姿が映っていた。
「予想より随分早かったな。それに、撮影中に画面で確認が出来た。あの動画だと女に気がついた様子はなかったから、何度か動画を撮る必要があるかと思っていたが」
「お前、そんな冷静に……って、言っても意味ねぇか。──どうする?」
稲田の問いに、三隈は高野を見やった。
「高野さんの札……何て書くべきだろうな」
「そう、ですね……。佇むの禁止……占有禁止、とかですかね?」
「占有……」
繰り返した三隈は、思わず鼻で笑っていた。ムッとした高野が袖を引いて抗議する。
「じゃあ、他に何か思いつきますか?」
「いや、それで良いと思う。ひとまずやってみよう」
頬を膨らませていた高野は、しかし取り出した手製の札に文字を書き足した。そうしてから、出来上がった札を手に部屋の隅を見つめる。
三隈はその様子を眺めてから、手元のカメラに目を移した。女は変わらず俯き、佇んでいる。
「た──」
「高野さん、俺がやるから札貸して」
「え、あ……すみません」
高野は何処かホッとしたように札を稲田に手渡すと、三隈の後ろに隠れるようにした。それを背後に感じながら、三隈は稲田と顔を見合わせ、頷いた。
「んじゃ、なんかあの辺りに……やってみるわ」
「あぁ、頼む」
そろそろと女の佇んでいると思われる位置に近付いた稲田は、手にした札を勢いよく宙に突き出した。
「……どう?」
稲田が画面の中で振り返る。暫く様子を見ていた三隈は静かな声で答えた。
「消えてないな。お前の手が女の顔にめり込んでる」
「うぇっ」
稲田は慌てて手を引っ込め、恨めしげな目を三隈に向けた。
「そういうこと言うなよ。例え幽霊でも嫌だろ、それ」
札を手に後退した稲田は、三隈の頭を軽く小突くと溜め息を吐いた。
「どうする? 特に何かをしてくる訳でもないけど、写真に写ってんのはどうにかしないとだろ。ひとまずは写真から出て行って貰うことを考えないとだよな」
「あっ」
その時、高野が声を上げた。
二人の視線が集まり、少し迷ってから、新しい札を取り出して顔の横で掲げ見せる。
「思い出す……回顧、とかどうでしょう」
「回顧?」
「はい。きっと何かがあって此処に残っている訳ですよね。でも、何をするでもない。だから、今改めてそれを思い出して貰って、そちらに集中して頂く……という感じです」
三隈はその言葉を吟味しながら、このカラオケ店が入っているビルについて下調べしたことを思い返していた。
カラオケ店となったのは、この数年のこと。
その前には、小さな事務所数件が入るビルだったようだ。出来る限りに女の幽霊が出る原因となる事件などがないか調べたが、特にそのような記事は出てこなかった。
カラオケ店となってからは、当然ない。
そもそも動画に映り込むものだから、存在が知られることもないのだろう。店員は当然何かを知っているだろうが、それを流布するということはない筈だ。
「それで、いってみよう」
念の為、万能札もすぐ使えるように用意し、三隈は「回顧」と書かれた札を持った稲田に頷いた。
「じゃあ、やるからな」
「あぁ」
そろそろと女に近付いた稲田は、先程と同じように勢いよく札を持った手を突き出した。
「……どう?」
画面を見つめていた三隈は、現れた変化に僅かに目を見開いた。
「稲田。札から手を離せ」
「え? なになになに」
パッと手を離した稲田が後退る。
画面の中の女は、ゆっくりとその顔を上げていた。
前髪に隠されていた瞳が、ギロリと札を睨み付け、そうして、「回顧」という文字をじっと見つめている。
「み……三隈さん」
高野が囁くように言って、袖を掴んだ。
「あぁ、動きが──見ろ」
画面の中の女は、薄く口を開けていた。見守る内、それが徐々に大きく開いていく。
あ……あぁ、あぁあ……ああぁぁあ……。
その口から、声が漏れる。それは、女が佇んでいる空間そのものから聞こえていた。女は驚愕の表情をしながら頭を押さえ、声を漏らし続ける。
「何か言って──」
そう稲田が言い掛けた時、突如その声は部屋いっぱいに響き渡った。
キーンとスピーカーが高い音を発し、ガタガタと扉の硝子が揺れる。
女の声と、スピーカーの音、部屋が鳴る音。それらが鼓膜を刺激し、三隈達は耳を押さえた。
「くそ、耳が……!」
耳を押さえながら、必死に扉のノブを掴もうとした三隈は、ふいに音が止んだのに顔を上げた。
耳の奥ではキンとした音が残っていたが、部屋はシンと静まっていた。
床に投げ出していたデジタルカメラを取り上げ、三隈は画面を覗き込んだ。
──居ない。
「高野さん、写真を確認して」
「は、はい……」
耳の辺りを擦っていた高野は、スマートフォンを取り出すと暫く操作し、声を上げた。
「居なくなってます! 以前の状態に戻りました!」
そう言って掲げるスマートフォンを、三隈と稲田は覗き込んだ。
淡い色の花畑の中に、仲の良さそうな二人が立ち、笑みを浮かべている。その奥には何処までも続くかのような花畑。
「とりあえず、去ったか」
はぁ、と三人の溜め息が重なった。
「喉乾いた。飲み物取って来よ」
「あ、私も行きます」
それぞれに受付時に配られたコップを手に廊下に出ると、言葉を交わさないままにドリンクバーへと向かった。
部屋に戻り、飲み物を半分程飲んでから、おもむろに顔を見合わせる。
「で、もう暫くは消えたってことだよな?」
「多分……そういうこと、ですよね。あの女の人は、自分が此処に残ったことを思い出して……それで……」
そこで言葉を止めた高野は、僅かに顔を青くして続けた。
「咄嗟に思い付いたことではあったんですけど、もし誰かを呪い殺すこと……が目的だったらどうしましょう……」
高野の声は、不安を滲ませていた。
考え込んでいた三隈は、その横顔を眺めてから、言った。
「どうだろうな。全てを観測出来た訳じゃないから何とも言えないが、そうはなっていないと思う」
「なんで判るんだよ?」
稲田の言葉に、画面に目を落とし、そうしてから答えた。
「今迄、札の効果はすぐに現れてた。つまり、顔を上げた時点で札の効果はあったんだろう。そこで『回顧』──何かを思い出した。そうして呻き、音を響かせて消えた。あの時の顔……とてもこれから呪い殺してやろうという顔には見えなかった」
いつの間にか停止していた動画のフォルダを開き、再生する。そうして女の表情を二人に見せようとした三隈は、そのまま画面に見入っていた。
「どうした?」
「消えてる……」
「消えてる? 動画が?」
「いや、動画は残ってる。女が消えてる」
動画には、三隈達の声だけが残されていた。最後の方で画面が揺れ、床に落ちる。
確かに映り込んでいた女の姿は、すっかり消え去っていた。
ふと気が付いたようにスマートフォンを取り出した稲田が、何やらと操作して驚きの声を上げた。
「おい、こっちのも消えてるぞ。林君のやつ!」
事の発端となった動画の中からも、女の姿は消えていた。
佇む女の幽霊は、完全に消え去ってしまっていた。
「そりゃ、そーよね。高野さんの写真から消えてんだもん。他のも消えるわな」
「札を切っ掛けに、あの霊に関する問題がすっきり解決した……ということなのか……?」
三隈の声に、稲田と高野は顔を見合わせ、曖昧に頷いた。
はぁ、と稲田が大きな溜め息を吐く。
「なんか、すげー気持ちが疲れた。ラーメン食いたい気分」
「判ります。味が濃いものが食べたい気分ですよね」
「お、じゃあ今から行く?」
ぐっと体を伸ばした稲田は、デジタルカメラを手に立ったままの三隈に首を傾げた。
「どうした。別にこのまま歌いたい気分って訳でもないだろ?」
三隈は僅かに唇を噛み、デジタルカメラを鞄に仕舞った。
「いや、確かに高野さんの写真から女を消すつもりではあったんだが、まさか自分で撮った動画と、林君の動画どちらからも消えるとは思わなかった。証拠が消えた。複雑な気分だ」
その言葉に稲田は鼻に皺を寄せ、そうしてから三隈の頭を軽く小突いた。
「まぁ、体験出来たんだから、そもそもの目的は達しただろ。お前は記録に残すよりも、記憶に残したいんだからな」
はたと稲田を見やった三隈は、ふと笑みを漏らしていた。
「そうだな」
鞄を持ち上げ、スマートフォンを操作する。
「ラーメンか……。この辺りにあったか?」
「どうだろ。この辺りあんまり使わねーしな。──高野さん?」
扉を半分開けた稲田は、ぼんやりと立ち尽くしている高野を振り返り、首を傾げた。ハッとした高野がわたわたと荷物を取り上げる。
「すみません、ぼーっとしちゃってました。えーと……ラーメン。お二人は何ラーメンがお好きですか?」
「俺は、豚骨ぅ。あ、でも味噌も好きかな」
「いざそう訊かれると迷うが……醤油。いや、やっぱり味噌も良いか」
廊下を歩きながら、高野はクスクスと笑う。
「お二人とも味噌ラーメンは共通してお好きなんですね。実は私も味噌ラーメンが好きです。この間の北海道旅行も何度か食べたんですよ」
「えー、良いなぁ。本場じゃん」
「じゃあ、味噌ラーメン屋を探そう」
三隈はスマートフォンを操作し、検索を始めたが、ちらと肩越しに廊下を振り返った。
そこはただ、手入れの行き渡った何の変哲もないカラオケ屋の廊下が伸びているだけだった。
あの女の幽霊は何故、あの場に立っていたのか。
きっと、あの場にあの幽霊が再び立つことはないのだろう。




