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困難事例〜誰も行きたがらない家〜  作者: 那須 儒一


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4月4月(土)赤いハイヒールの家 序

利用者:A(87歳)女性 要介護2


担当職員:飯沼いいぬまめい


9:00 訪問。玄関は施錠されていたが、A様より「開いているよ」と返答あり。


9:05 居室にて服薬介助。


9:18 「今日は娘さんも来ている」とA様が発言。室内に利用者以外は確認できず。


9:30 退室。

特記事項:訪問時、玄関に赤いヒールが一足あった。 退室時に再確認したところ、ヒールは消失していた。



新しい職場での初訪問――私はそんな期待に胸を膨らませ、さっそく社用スマホで介護記録に目を通していた。


「これ……なんですか?」


私は思わず、佐上さがみ先輩の顔を見上げ首を傾げる。


「ん? なにって介護記録だけど……」


先輩はこの記録に違和感を覚えていないようだ。


介護記録にこんな特記事項――《《普通》》は残さない。


「大丈夫、大丈夫!

服薬介助とバイタル測定して、様子確認するだけだから。うちの困難事例の中でも軽い方よ」


「困難事例……?」

困難事例とは、簡単に言うと“対応が難しい”ケースを指す。


「あっ、私、次の訪問あるから!

それじゃあ、初訪問! 頑張ってね!」


露骨に話をそらされた気がする。

先輩はドタバタと靴を履きそのまま訪問に出ていってしまった。


誰もいなくなった事務所に私のため息だけが響く。


「はぁ……転職失敗か……」

人間関係が煩わしくて前職のヘルパーを辞めたのに、ろくな引き継ぎもなく独り立ちで担当とは……既にブラックな側面が見え隠れしていた。


「って、私もそろそろ訪問の時間だ」

自家用車に乗り込み、出発した。


訪問介護……通称“ヘルパー”。

簡単に説明すると、介護が必要な御宅に訪問するサービスだ。


私、白石しらいし菜々《なな》は、月給32万円という介護にしては高額な給与に目がくらみ――目に見えた地雷を踏み抜いてしまった。


“訪問介護ステーションとこよ”

――正社員四人の小規模の事業所。

少人数であれば、派閥争いに巻き込まれないと思ったのに……既に暗雲が立ち込めている。


車を走らせること30分――ようやくA様の自宅に到着した。



9:00 訪問。玄関は施錠されていたが、「開いているよ」と返答あり。A様の返答後、解錠音を確認。 入室したが玄関付近に人物は認められず。

玄関先には赤いハイヒールあり。


9:10 自己紹介を行い、居室にて服薬介助。バイタル平常値。気分不快の訴えなし。顔色良好。


9:22 「今日も娘が来ている」とA様が発言。

台所より食器の接触音を聴取。 台所内に人物は認められず。


9:30 退室。


特記事項:退室時に玄関先を確認したが、赤いヒールは無くなっていた。



自分でもどうかしている。

こんな特記事項を残すなんて……。


でも……記録通りのことが起きるなんて。

背筋に嫌な汗をかいていた。


A様はベッド上からは動いていない。


車を走らせながら、生唾を飲み込む。


「こんなの……どうかしている」


私は、事業所に帰って椅子に腰掛けた。

寂れたアパートの一室にある2LDKの事務所。


まだ初日だというのに、自宅のような安心感で満たされる。


事務所には管理者も佐上先輩もいない。

初仕事ということもあり、今日の訪問はA様だけ……でも、残りの時間どうすればいいのよ。


指示を仰いでいなかった私も悪いけど。

新人をほったらかしにするなんてあり得ない。


――私はA様の個人ファイルに目を通す。


「やっぱり……」

A様の娘様はジェノグラム(家族構成図)では既に故人となっている。生前はA様とは同市内にて別居していたらしい。娘様が時折、A様の様子を見に行っていたとのこと。


A様に認知症の現病歴はない。単に、受診をしていない可能性もあるが、やりとりをした限りでは軽い物忘れ程度だ。


……先輩にいろいろ聞きたかったけど、この日は定時まで誰も帰ってこなかった。


先輩から『先にあがりな』とメールが届いていたのでその日は退勤した。



ふぅ……毎日、これなら楽だけど。

結局、A様の何が困難事例かは分からなかった。


A様も普通の方だし、自宅もよくある日本家屋の一軒家。


帰宅してアパートの扉を開けた。


「えっ……」

息が止まる。


玄関先に、私のものではない赤いハイヒールが、きちんと揃えて置かれていた。

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