第15話:【歪んだ聖域の完成】(最終回)
それから、さらに数年の月日が流れた。
都心の喧騒から少し離れた場所にある、古いけれど手入れの行き届いたアパート。 夕暮れ時、僕が仕事を終えて帰宅すると、玄関を開ける前から、あの懐かしくも清潔な石鹸の香りと、美味しそうな出汁の匂いが漂ってきた。
「おかえりなさい、悠真くん」
キッチンから顔を出したのは、エプロン姿の凛香さんだ。 かつてのような派手さや完璧なメイクはない。けれど、少し伸びた黒髪を後ろで一つにまとめ、穏やかに微笑む彼女の表情は、あの「聖母」と呼ばれていた頃よりも、ずっと人間味に溢れていて美しい。
「ただいま。……今日は、少し遅くなっちゃったね」
「いいのよ。……貴方の帰りをお料理しながら待っている時間も、私にとっては大切な『管理』の一部だもの」
彼女は冗談めかしてそう言い、僕の鞄を受け取る。 ……「管理」。かつて僕を震え上がらせたその言葉は、今では二人の間の、少しだけ自虐的で愛おしい合言葉になっていた。
食事の後、僕たちは二人でベランダに出て、夜風に吹かれた。 凛香さんは僕の隣で、僕の手をそっと握りしめる。彼女の手はもう震えていない。
「……ねえ、悠真くん。今でもたまに、怖くなるの。もし、あの日、貴方が私を見捨てていたら。私は今頃、どこで枯れていたのかしらって」
「……言っただろ。僕が、お姉さんの雨宿りになるって」
僕はポケットから、二つのストラップを取り出した。 あの日、彼女のクローゼットの奥に隠されていた、お揃いのストラップ。
「これ……。まだ持っていてくれたの?」
「当たり前だよ。……これからは、隠さなくていい。僕たちの見えるところに付けておこう」
僕は彼女のスマホと、僕のスマホにそれぞれストラップを付けた。 小さな飾りが、カチリと音を立てて重なる。 彼女はそれを見て、一瞬だけ少女のように目を輝かせ、それから僕の肩に頭を預けた。
「……悠真くん。私ね、もう貴方のスマホの中身を見たり、監視カメラを仕掛けたりはしないわ。……だって、貴方が今、ここにいてくれることが、何よりの真実だって信じられるようになったから」
「……うん。僕も、お姉さんの隣にいるのが、一番落ち着くよ」
二人の関係は、世間から見れば「元加害者と被害者」の奇妙な同居生活に映るかもしれない。 かつての三浦さんや父さんには、きっと理解してもらえないだろう。 けれど、傷つけ合い、狂気を見て、それでもなお離れられなかった僕たちには、この静かな時間が何よりの救済だった。
「……愛してるわ、悠真くん。……世界で一番。……いえ、世界で私一人だけでいいから」
「僕もだよ、凛香さん」
彼女の独占欲は、完全に消えたわけではない。 今でも、僕が同僚の女性と長く話せば、彼女の瞳の奥には一瞬だけ、あの黒い影が差すことがある。 でも、そのたびに僕は彼女を強く抱きしめ、僕がどこにも行かないことを証明し続ける。
歪んでいるかもしれない。 美しくはないかもしれない。 けれど、ここには嘘もノイズもない。
僕たちは、この小さなアパートという名の「聖域」で、ゆっくりと、幸せに、壊れていくだろう。 二人だけで、完結する世界。
それが、あの裏庭で始まった僕たちの、完成されたハッピーエンドだった。
【完】




