第001話: 日常業務と、小さな「違和感」
照りつける太陽が、アスファルトの上で蜃気楼を揺らしていた。
八月の真昼、まとわりつくような熱気は、息をするだけでも肺を焼かれるような錯覚を覚えさせる。
「ふぅ……今日もたまんねぇな」
俺――芝崎一郎、47歳のベテラン清掃員――は、首に巻いたタオルで滝のように流れる汗を乱暴に拭いながら、大きく息を吐き出した。
長年着古した作業服はすっかり汗と埃を吸い込み、すでに身体の一部のように重く張り付いている。周囲に漂うのは、アスファルトの焦げるような匂いと、そして何よりも――俺たちが日常的に相手にしている、酸いも甘いも噛み分けた「生活の匂い」、すなわち廃棄物の入り混じった独特の悪臭だ。
「先輩、お疲れっス。あと三軒回れば、今日の午前ルートは終わりっスよ!」
横でスポーツドリンクを一気に喉に流し込んでいるのは、長年コンビを組んでいる後輩の同僚だった。茶色く染めた髪の毛先から汗の滴を飛ばしながら、人懐っこい笑顔を向けてくる。若いだけあって体力はあるが、それでもこの異常気象とも言える猛暑の中での連続作業は堪えるはずだ。
「バカ野郎、一気飲みするとかえってバテるぞ。ちびちび飲めっていつも言ってんだろ」
「分かってますって! でも、こうでもしないと干からびちゃいますよ」
冗談交じりの軽口を叩き合いながら、俺は愛機であるプレス式パッカー車(塵芥車)の横っ腹をポンと叩いた。
「こいつも、この暑さでよく文句も言わずに働いてくれてるよな」
この車両は、俺たち清掃員にとって単なる移動手段ではない。強力な油圧ポンプを搭載し、投入口の手前と奥にある圧縮板でごみを容赦なく押し潰しては飲み込んでいく、いわば仕事の「相棒」だ。
『ブゥゥゥン……ガシャン! ガリガリガリ……』
重低音を響かせる油圧ポンプの音は、俺にとってはもはや聞き慣れた子守唄のようなものだった。長年の労働経験から、音のわずかな違いで車体の調子が分かるようになっている。今日も油圧の上がり具合は上々、圧縮板の動きも滑らかだ。
俺たちのような裏方の仕事は、決して華やかなものではない。世間からは底辺だと見下されることもある。だが、この街のインフラを、人々の当たり前の日常を根底で支えているという自負があった。俺は、この地に足のついた現実的な労働風景を、決して嫌いではなかった。
「よし、サクッと終わらせて昼飯にしようぜ。今日は俺が冷やし中華でも奢ってやる」
「マジっスか!? 先輩、太っ腹! じゃあ特盛りでお願いします!」
「調子に乗んな。普通盛りだ」
そんな他愛のないやり取りをしながら、俺たちは次の回収ステーションへと車を進めた。
到着したステーションには、色とりどりのゴミ袋が山のように積まれていた。カラス除けのネットをめくり上げ、手際よく袋を掴んではパッカー車の投入口へと放り込んでいく。
重い袋、軽い袋、水気を含んで嫌な感触のする袋。手袋越しに伝わってくる感触だけで、中身の大体の見当がつく。
「おっと……またかよ」
ふと、持ち上げた青い半透明の袋の中に、不自然な硬さと重さを感じて俺は動きを止めた。
「どうしたんスか、先輩?」
「ルール違反の不燃ゴミだ。燃えるゴミの日に、堂々とスプレー缶だの何だの混ぜ込みやがって……」
袋の口を少し開けて覗き込むと、古新聞や生ゴミの間に隠れるようにして、使い古されたヘアスプレーの缶や、中身のよく分からないプラスチックの塊が詰め込まれていた。
「うわぁ、タチ悪いっスね。見えないように奥に隠してるし」
「マナーってもんを知らねぇのかね、今の連中は。お前、これ分別し直すか?」
「いやいや、無理っスよ! こんな生ゴミにまみれたの、いちいち開けてたら日が暮れちゃいますって。幸い、うちのパッカー車はプレス式ですから、少々の不燃ゴミなら粉砕して押し込めちゃいますよ」
「まぁ、そうなんだけどな……」
俺は小さく舌打ちをしながらも、作業の遅れを避けるために、その袋を投入口の奥へと放り込んだ。
長年の経験からくる、ほんのわずかな「違和感」。
それが、俺の背筋を冷たい汗となって伝い落ちた気がした。だが、茹だるような暑さと、早く冷房の利いた運転席に戻りたいという欲求が、その直感を鈍らせていた。
その袋のさらに奥深く、生ゴミの水分を吸ってドロドロになった紙屑の中に、限界まで劣化したスマートフォンの「リチウムイオンバッテリー」が潜んでいることなど、外から見て分かるはずがなかった。
そして、そのすぐ傍らに、中身のガスが抜けきっていない「可燃性のスプレー缶」が転がっていることも。
夏の異常な高温に晒され続けた回収ボックスの中で、スプレー缶のパッキンは既に劣化し、荷箱の密閉空間内には、漏れ出した可燃性ガスが密かに、しかし確実に充満し始めていたのだ。
「オーライ、巻き込みます!」
後輩が明るい声で安全確認を行い、俺はパッカー車側面の操作パネルに手を伸ばした。
『プレス』のボタンを押し込む。
ブゥゥゥン! と油圧ポンプが一段と高い唸りを上げ、分厚い鉄の圧縮板が、投入されたゴミの山へと容赦なく迫っていく。
メキメキ、バキッ、という音を立てて、ゴミ袋が破裂し、中身が粉砕されていく。パッカー車の圧倒的な物理的圧力は、大きなごみでさえも木端微塵にする力を持っている。
その強力なプレスが、ルール違反の不燃ゴミ袋に到達した瞬間だった。
『……パキッ』
油圧ポンプの重低音にかき消されそうなほど小さな、しかし俺の長年の経験が「異常」だと瞬時に警告を発するような、乾いた破裂音が耳に届いた。
限界まで圧縮されたスマートフォンのバッテリーが圧力に耐えかねてひしゃげ、内部でショートを起こした音だった。
「……おい、お前!」
俺は咄嗟に操作パネルから手を離し、後輩を振り返った。
その瞬間、投入口の奥で、散った小さな火花が、密閉空間に滞留していた高濃度の可燃性ガスに引火した。
――ゴォォォォォォッ!!
異様な熱気と、金属が軋む嫌な音が空気を震わせた。
「えっ……!?」
何が起きたか分からず、呆然と立ち尽くす後輩。
爆発する。
理屈ではなく、何十年も現場で培ってきた本能がそう告げていた。
俺の頭をよぎったのは、自身の命への執着でも、逃げ遅れる恐怖でもなかった。
「逃げろっ!!」
俺は後輩の作業着を掴み、全身の力を込めて車体から遠くへと突き飛ばした。
アスファルトの上を無様に転がっていく後輩の姿を視界の端に捉えた直後。
パッカー車の分厚い鋼鉄の荷箱が、内部からの凄まじい膨張圧力に耐えきれず、断末魔のような金属音を上げた。
そして、世界が白く染まった。
鼓膜を突き破るような爆音。
すべてを焼き尽くすような、凄まじい熱波。
過度な痛みや苦しみを感じる暇すらなかった。
まるでカメラのフラッシュを至近距離で浴びたかのように、視界が強烈な閃光に包まれ、俺の意識は夏の陽炎の中にフッと溶けるように途切れた。
***
……。
…………。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
気がつくと、先程までの肌を焼くような熱気も、油とゴミの混ざった悪臭も、耳鳴りがするほどの騒音も、すべてが嘘のように消え失せていた。
あるのは、絶対的な「静寂」。
俺はゆっくりと目を開けた。
そこは、上下左右の感覚すら曖昧になるような、果てしなく広がる真っ白な空間だった。足元には大理石のようになめらかな床が広がり、見上げれば雲一つない純白の虚空が広がっている。
「……ここは、病院か? いや、天国か?」
俺は自分の手を見た。火傷一つない、いつもの武骨でシワの刻まれた手のひら。作業着も破れておらず、汗すら引いている。
「目覚めましたね、古き魂よ」
不意に、鈴を転がすような澄んだ声が空間に響いた。
声の主を探して振り向くと、そこには現実離れした美しさを持つ女が立っていた。
透き通るような銀色の髪、宝石のように輝く瞳。純白のドレスを身に纏い、背中からは光の粒子が舞い散っている。どう見ても人間ではない。流行りのファンタジー小説に出てくる『女神』というやつそのものだ。
「あなたは死にました」
女神は、慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、淡々と、しかし残酷な事実を告げた。
「あの爆発事故で、あなたの肉体は致命的な損傷を受け、その命を終えました。しかし、あなたの魂は消滅することなく、特別な運命を……」
「――ちょっと待ってくれ」
女神が、いかにもな台詞を紡ぎ始めようとしたその時、俺はたまらず彼女の言葉を遮った。
死んだ? 特別な運命?
そんなことはどうでもよかった。
俺は一歩前へ歩み寄り、静かな、しかし切実な声で、一番気になっていたことを尋ねた。
「俺のことは、まあいい。俺と一緒にいたあいつ……後輩は、無事だったのか?」
女神の目が、わずかに見開かれた。
まるで、予想外の言葉を聞いたとでもいうように。
「……え?」
「俺が突き飛ばしたんだが、爆風に巻き込まれてないか? あいつ、まだ若いんだ。俺みたいなオッサンが死ぬのはいいが、あいつまで道連れになっちまったら、俺は死んでも死にきれねえ」
俺は頭を掻きながら、まっすぐに女神の瞳を見つめ返した。
女神はしばらくの間、呆然と俺を見つめていた。その表情には、これまでに数多の魂を導いてきたであろう彼女にとってすら、新鮮な驚きが浮かんでいるように見えた。
「……フフッ」
やがて、女神は小さく吹き出した。
「本当に、あなたは面白い魂ですね」
「面白い?」
「ええ。ここに呼ばれた者の多くは、自身の死にパニックを起こすか、あるいは新たなる力や第二の人生を与えられることに歓喜し、己の欲望を口にするものです。それなのに、あなたは……見知らぬ空間への転移に動じることもなく、新たな力に歓喜することもなく、真っ先に、自らの死よりも仲間の安否を気遣うのですね」
女神はドレスの裾を翻し、俺の目の前まで歩み寄ってきた。
「安心してください。あなたの身を挺した行動のおかげで、あの青年は軽い打撲と擦り傷だけで済みましたよ。今頃は、あなたの死を深く悲しんではいますが、命に別状はありません」
「……そうか。なら、よかった」
俺は心底ホッと息を吐き出し、その場に胡座をかいて座り込んだ。
肩の荷が下りたような感覚だった。自分の人生が終わったというのに、何故だか不思議と清々しい気分だった。
「これで心置きなく成仏できるってもんだ。で、俺はこれから地獄行きか? それとも天国ってやつがあるのか?」
俺の問いかけに、女神はゆっくりと首を横に振った。
「どちらでもありません。私は、あなたのような魂を探していました」
「俺みたいな?」
「ええ。若さゆえの無鉄砲さでもなく、自己中心的な欲望でもない。長年の労働で培われた冷静な判断力、そして何より、他者を思いやることのできる成熟した精神性。それこそが、私の世界に絶対に必要なものなのです」
女神の表情から笑みが消え、真剣な眼差しが俺を射抜いた。
「お願いです、芝崎一郎。機能不全に陥り、有毒な瘴気と汚染にまみれた私の世界――『ダンジョン』を、あなたのその手で、清掃してはくれませんか?」
白亜の空間に響き渡ったその突拍子もない依頼が、俺の、いや――『ダンジョン清掃員』としての新たな日常の始まりだった。




