番外 テディの小さな冒険
ぽかぽかと温かい日差しに青い空。
梅や気の早い桜なんかも咲き始め、家でじっとしているのはなんだかもったいない。
どこかそわそわと、クマのぬいぐるみが窓から外を覗いていた。
クマの待ち人は、こんなに空が晴れているというのにどんよりと肩を落とし、マスクにゴーグル型の眼鏡をして『お伽堂』に現れた。
「間さんは花粉症かい」
「ぞうらんれすよ……ごどじわしょーじょーがきつくっれ……っ……くしゅ!」
「山が近いからかねぇ。きついようなら、無理しねぇで帰んな。なんなら病院にでも行って、薬もらって家で寝てろ」
腫れぼったい目で鼻をかみかみ店主と話をしている。
しばし迷ったようだが、結局彼は病院へと向かったようだ。
頭上の花にも足元の花にも気づかぬように、とぼとぼと歩く背中に哀愁が漂っていた。
心なしか、クマの肩も落ちている。
ふと、顔を上げたクマは、カウンターの奥に座った店主を振り返る。店主はいつものように淡々と帳簿を取り出して眺め始めた。
クマが窓辺から床に飛び降りて移動しても気にする素振りもない。
しかし、クマがカウンターを回り込んで、店主の自宅に続くドアを開けようとすれば、彼は立ち上がってドアを開けた。手にした帳簿に視線を向けたまま。
クマはありがたく隙間に身を滑り込ませたのだが、すぐにザワザワした空気が背後からのしかかってきたのを感じた。
「あれ。ハザマさん来てないんですか?」
「病院行けって追い出した」
声と気配から、自分を食べかけたやつだと、クマは慌てて奥へと走る。
「クマ公がなんか思いついたみてぇだから、暇なら見てやれ」
「暇と言えば暇ですけど……」
続きのそんなやりとりはクマには聞こえていなかった。
長い廊下の左右にあるドアや襖。できるだけ雰囲気の穏やかなところをクマは覗く。
開けて閉めて。開けて閉めて。
開けて。
爽やかな風の吹く草原が見えて、クマはもう少しドアを押し開けた。一歩踏み込んで、ドアを見失わないようにと慎重に辺りを見回す。
緊張しているかのようにまだ少し迷っていれば、背後にまたあの気配が。
クマは意を決して進み始めた。
草をかき分けて行くと、踏み固められた道に出る。クマはその道をてくてくと歩いて行った。時々道端の花に目を留めて、近寄っては眺めている。
のんびりしていたら怖いやつが追い付いてきて、クマの背後へと忍び寄っていった。店主やクマに名前をつけた人間の居ないところでは、いつ食べられるか気が気じゃなくて、気づいたクマは逃げるように先を急ぐ。
途中で森の中へと進路を変え、木々の中にぽっかり出現する泉を探した。薄暗いところじゃなくて、日が差し込み、水がキラキラするようなところ。
お目当ての泉に行き着いて、周りの草むらを丹念に調べるクマを横目に、怖いやつは木からもぎ取った赤い実を食べていた。気に入ったのか、もうひとつ。
しばし夢中になって探していたクマは、四枚の葉の真ん中に小さな白い花が咲いてる植物をようやく見つけて、嬉しそうにそれを引っこ抜いた。
勢いで尻餅をつく。
その拍子に、背後に生き物の気配を感じた。怖いやつとは違う気配。
クマがそーっと振り返れば、赤い毛並みに黒ブチ模様の大型の猫みたいな動物が、フンフンと鼻を近づけていた。口からはみ出した大きな牙が二本、ギラリと光った気がする。
慌てて飛び起きたのが悪かったのか、逃げようとしたクマを猫のような動物は反射的に手で払った。
ぽーんとクマは跳ね上がり、そのままぼちゃりと泉へ落ちる。
猫みたいな動物は、スープをかき混ぜるように前足を泉に入れて動かした。
「世話が焼けますね」
ぺろりと手に付いた木の実の汁を舐めた男は、次の瞬間、猫みたいな動物を片手で抱え込んでいた。驚く動物が身を捩る前に、その三角の耳にかぶりつく。しゅるしゅると子猫サイズに縮んだ動物は、緩んだ腕から抜け出すと、一目散に森の中に駆けて行った。
男はそれをしばし目で追ってから、泉の上に手をかざす。いくつか波紋が広がって、クマが浮いてきた。
水を吸ってびしょびしょのクマを掴むと、男は容赦なく絞り始める。クマは精いっぱい手を伸ばして、手にした植物が潰されないようにしていた。
「ヒールハーブですか。四つ葉のは効力も高いですけど、誰に? あちらの人間には効きませんよ……ああ、似た草がありましたね。幸運のシンボル的な……」
男は独り言のようにそう言うと、クマを雑に手にしたまま泉の畔からふっと姿を消した。
*
昼なのにカーテンの引かれた薄暗い部屋で、クマの心配する男は寝ていた。手にしたスマートフォンがこぼれ落ちそうになっている。
テーブルの上に薬の袋と水が少し残ったコップが置いてあった。クマは自分を掴んでいる手から抜け出し、コップに取ってきた植物を入れる。
「満足ですか」
クマはもう一度掴みあげられたけれど、目的は達成したので、満足げにコクコクと頷いた。
クマを手に、男はしばし寝ている男を見下ろして、その手から落ちそうなスマートフォンをそっと取り上げた。そのまま枕元へと置き直す。
「悪霊なら食べてしまえるんですけどね」
男はそれからふと掴んだクマを見てニヤリと笑った。クマは背筋が寒くなったけれど、暴れられもしない。そのまま耳をかぷりと咥えられて、涙目になった。
すうっと力が抜ける感覚は、何度経験しても慣れないものだ。
「駄賃代わりです。ハザマさんが元気になったら、一緒に神社に行きましょうか」
クマは涙目のまま、青空に桃色の花がたくさん咲いている景色を思い浮かべていた。




