9.縁談の終わり
『脅威個体』を倒した後、ルクシーヌとトラプターは、未だその場にとどまっていた。
ルクシーヌの負った傷は、あのあと改めてトラプターの回復陣を使わせてもらい、ほぼ回復している。 だが、ルクシーヌはまだ魔力が回復しきっておらず、トラプターは血がまだ足りていない。
ここは外縁領地だ。下手に移動すれば魔物と遭遇する可能性がある。
『脅威個体』を倒したことで、残る『残滓』の軍勢も、力を落としたのだろう。未だ谷を突破できないようだった。
応援に呼んだ他の地域の辺境貴族も、そろそろ到着する頃だ。下手に移動するよりとどまって、回復を図った方が安全と思われた。
だから、動かないことに決めた。
馬を呼び寄せ、とりあえず就寝用の敷物を敷き、二人して携行食料を口にした。
人心地ついたところで、ルクシーヌは考える。血を使いすぎ、横になって休んでいるトラプター。自分のために命がけで助けに来てくれた縁談の相手。
彼とはこれからどうなっていくのだろうと、考えた。
今は縁談中だ。このままいけば、婚約することになるだろう。その先は、結婚することになる。
彼女の思う、「愛のない結婚」をすることになる。
婚約までの期間が迫り、戦いを終えたばかりの、気を抜いたとき。ルクシーヌは始めて、そのことについて真剣に考えてしまった。
「そんなことが、できるのですか……?」
命を懸けて助けてくれた相手を、愛情を持たずに結婚する。それが異常なことだと今更になって気づいてしまった。
失恋の痛みは、彼女にとってつらすぎた。だから恋愛について考えまいとしていた。意図的に考えから消して、ここまで来てしまった。
だが、トラプターの方はどうだろう。
自分に好意を持って接してくれた。優しくしてくれた。いろんなことを教えてくれた。助けてくれた。
それに対して、一切の愛情を返さない自分は、何なんだろう。
自分が今までやってきたことが、どっと思い返された。彼の与えてくれた善意も厚意もきちんと受け止めず、ただ戦闘での相性ばかりを考え、自らの力を示すことばかりに気を取られていた。
それは彼の気持ちを踏みにじることなのではないだろうか。
ルクシーヌは涙をこぼした。
あまりに身勝手で、あさましく、愚かしい。
自分の今までしてきたことの罪深さに耐えかね、涙がこぼれ始めた。ぬぐってもぬぐっても、涙があふれて止まらなくなった。
そんなルクシーヌの有様に、横になっていたトラプターが跳ね起きた。
「ル、ルクシーヌ嬢!? ど、どうしたんですかっ!?」
横になっていたトラプターが跳ね起きる。
ルクシーヌはもう、隠しておけないと思った。涙につっかえながら、みっともなくもみじめに、自分のこれまでを語った。
失恋の痛み、喪失する恐怖に耐えきれなかったこと。
「愛のない結婚」なんてバカな思いつきに飛びついて、行動したこと。
その結果、トラプターと出会い、その好意を踏みにじってきたこと。
すべてを話した。話さずにはいられなかった。
トラプターはじっと黙って聞いていた。
ルクシーヌが話を終え、泣きじゃくるばかりになったころ、ようやく彼は口を開いた。
「……あなたのような人が、僕のような冴えない辺境貴族のところに来た理由がようやくわかりました。まさかそんなおかしな理由で来ていたなんて、想像もできませんでした」
「……ごめん、なさい、ごめんなさいっ……!」
「そんなに謝る必要なんてないですよ。あなたの行動の始まりは間違いだったかもしれない。でも、この地に来てからあなたのしてきたことは、正しいことばかりだったじゃないですか。今日もこうして、領民を守るために命がけで戦ってくれたじゃないですか」
「でもっ……でもわたしっ……!」
トラプターは怒っていなかった。ただ、悲しそうに、気遣うように、じっとルクシーヌのことを見つめていた。
「泣かないで。泣かないでください、ルクシーヌ嬢……あなたがおかしな理由で縁談に来たことより、今、あなたが涙を流していることの方が、僕にはずっとずっと、つらくて悲しいことなんです」
「えっ……」
ルクシーヌの涙が止まった。
その温かな目に。優しい声に。彼女は動けなくなった。
婚約を解消されたとき。
自分を愛して結婚してくれる人などいない。
自分が愛して結婚できるような人などいない。
ルクシーヌはそう思い込み、自分の気持ちに蓋をした。戦う力のみを頼りに、今日までやってきた。
だから、トラプターの言葉を。視線を。そこに込められた想いを。
わからない。受け止めきれない。
心臓が早鐘を打つ。頬が赤く染まる。耳まで赤くなっていることを自分でもわかっている。
本当は、自分の気持ちも、トラプターが向けてくれる気持ちもわかっている。
でも、ルクシーヌは受け止めきれない。
自分にはその資格がない。
ただその思い込みが、彼女の気持ちも身体も動けなくさせていた。
「……あなたは自分を許せないのですね。そういうことならわかりました。ふさわしい罰を与えます」
そう言うなり、トラプターはルクシーヌの両手を握った。
「あなたへの罰は、僕と婚約することです。婚約して、罪を償ってください」
「そんな……そんなの……何が償いになるというのですか……?」
「だってあなたは、『愛のない結婚』をしたいのでしょう? 僕と婚約すれば、そんなことはできなくなります。あなたの望みは叶わない。ちゃんと罰になっているじゃありませんか」
トラプターはいたずらっぽく笑った。
ルクシーヌは、困惑するばかりだった。
……自分には、こんな優しいことを言ってもらう資格なんてない。
ただその思いだけが頭の中を占めて、彼女はどうしても動けない。
「こう考えてください。僕は罠魔法の使い手です。あなたは罠にかかったのです。もう逃げられませんよ。僕の手を、振りほどけないでしょう?」
魔力も少しは回復してきている。光のオーラを纏えば、トラプターの手を振りほどくのは簡単なことだろう。
でも、ルクシーヌには、それができる気がまったくしなかった。この手から伝わる温かさが、見つめてくれる優しい瞳が。彼の声が。それをさせない。
捕らわれた。つかまった。逃げられない。
自分が動けないことすら、理由を与えられてしまった。
彼女のおかしな思い込みではなく、罠と言う言い訳までもらってしまった。
そうなると、彼女にはもう、自分の気持ちを偽ることも、彼の気持ちから目をそらすことも、できなくなってしまった。
「あはは、本当ですね……わたし、すっかり、罠にかかってしまいました……」
気の抜けた、涙にぬれた顔で。微笑みながら、彼女は自分の負けを認めた。
彼女はまたしても恋愛に負けた。
だが、婚約解消された時とはまるで違った。
暖かで、穏やかで、優しい敗北だった。
遠く、馬の足音が聞こえてくる。
辺境貴族の増援が来た。これでルクシーヌとトラプターは安全に帰ることができるだろう。
こうして、トラプター伯外縁領地での、『脅威個体』との戦いは終わったのだった。
『脅威個体』との戦いから、二週間ほど過ぎた。
ルクシーヌとトラプターは正式に婚約した。
そして彼女はトラプターの邸宅にとどまり、結婚までの準備をしている。
手続きや雑事ばかりではなく、まず、気持ちの準備が必要だった。
「おはようございます、ルクシーヌ」
「……おはようございます、トラプター様」
いつもの朝。いつもの挨拶。それなのに、ルクシーヌは慣れないものを感じていた。
それは、「ルクシーヌ嬢」ではなく「ルクシーヌ」と呼ばれるようになったからだ。
少しだけ距離が縮んだ。ただそれだけの事なのに、胸がざわめく。気恥ずかしくて、うれしくて、もどかしくて、どうにも落ち着かない。
彼女の最初の婚約は、結局のところ、恋というものにあこがれて、ただ熱狂的に駆け抜けただけだった。
一人の男性と向き合い、理解し、愛し、そして共に生きていく。
そうしたことについて、彼女はまだ知らないことが多すぎた。これから少しずつ、学んでいかなくてはならないのだ。
「ルクシーヌ。実は王都から招集が来ているんです」
「王都から?」
「ええ。『脅威個体』について、陛下が直接話をお聞きになりたいそうです。祝勝会も行われるそうですよ」
「それは光栄なことですね。わたしも、トラプター様のご活躍を、ぜひ陛下へお聞かせしたいです!」
「でもあなたは……王都では、いい思い出ばかりではないはずでしょう? 報告なら僕一人でも大丈夫です。ここで待ってくれてもいいんですよ?」
確かに、ルクシーヌにとって、王都は失恋とは切り離せない場所だ。
トラプターの気遣いはうれしかった。でも、気にしすぎだとも思った。
でも彼女もわかっている。そうまで気にさせてしまっているのは、自分に原因があるのだ。
「トラプター様。最初の婚約で、わたしが一番間違えたことは、失恋から逃げてしまったことなのです」
「そうかもしれません。でも、つらいことから逃げることは、間違いとばかりも言えないと思いますよ?」
「ありがとうございます。でも、わたしにとっては間違いだったのです。戦いで不利になれば、逃げなくてはいけない時もあるでしょう。でも、まず最初に、一度は立ち向かうべきだったのです。戦わずに逃げたこと。それがわたしにとって、一番の間違いだったのです」
「なるほど……それはあなたらしいですね」
ルクシーヌはニッコリとほほ笑んだ。
「ええ、そうです。それがわたし、光属性・近接特化・撃滅型令嬢ルクシーヌ・インファートなのです! いい機会です、王都に行きましょう! 今度は負けません!」
元気よく、胸を張り。彼女はそう、高らかに宣言したのだった。
終わり
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2024/7/2
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!