王女の決断 1
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エドワードと結婚して三年。
ベアトリスの人生において、これほど穏やかで平和な時はなかっただろう。
夫であるエドワードは優しく、ベアトリスの毎日は安寧と幸福に満ちていた。
公爵でもあり第二王子でもあるエドワードは忙しかったが、そんな彼を支えながら、公爵夫人、そして第二王子妃としての仕事に精を出し、ヘンウッド国の城で暮らしていた頃のように自分を偽ることなく過ごす毎日は、ベアトリスの心を軽くした。
そう、彼女は有能だった。
出しゃばることは好きではなかったが、かといってヘンウッド国で暮らしていたような愚かなふりをというのもまた彼女の精神に負荷をかけていたのは事実だ。
王太子夫妻とのお茶会。
社交パーティー。
忙しい夫に代わっての領地の細々とした仕事。
何もかも、まるで羽が生えたように、ベアトリスの毎日は軽やかで楽しく、光り輝いていた。
幸いなことに、ヘンウッド国の両親や兄からは、深刻な手紙は送られてこない。
きっとうまくやっているのだろう。
そう、思っていた。
兄ニコラスからの、あの、急を要する手紙が届くまでは。
☆
ベアトリスは兄の手紙を読み返しながら、何度目かになるため息をついた。
兄の手紙はこうだった。
『愛する妹ベアトリスへ。
突然こんな手紙を書いて驚かせるかもしれないね。
だけど、あまり時間がないために詳細は伏せさせてもらうよ。
先日、僕は毒を口にした。食事に毒が混入していたんだ。
意識を失っていたため記憶にないが、父上と母上が言うには、三日ほど生死の境をさまよっていたらしい。
今は少しずつ回復傾向にあるが、わけあって毒の影響がまだ抜けておらず、重症のふりをしている。もしもそちらの新聞に僕の情報が載ったら、現時点で僕が先日盛られた毒で死ぬことはないので安心してほしい。この次があればわからないが。
そこでベアトリス。
嫁いだ君にこんなことを言うのは大変心苦しいのだが、単刀直入に言おう。助けてくれ。
今まで君が僕のために隠していた爪(、)が必要だ。
爪を研いで戻って来てほしい。この国のために。
こんな手紙を送りつけてすまない。
だが、事態は急を要する。
愛する妹に危険が及ぶのは避けたいが、もし僕に何かあれば次は君が狙われるのは必至だ。
今一度、僕のため、ううん、国のために力を貸してくれないか。
ニコライより。愛をこめて』
手紙が兄のものであることは疑いようがなかった。
ニコラスとベアトリスしか知らない暗号を使って送られて来たものだからだ。
ニコラスはとても聡明な王太子だが、その彼がこれほど具体性に欠いた手紙をよこしたということは、よほどのことだろうと思われた。
同時に、具体的に何が起きているのか、書かなくともベアトリスにはわかるだろう、という信頼によるものであったのかもしれない。
実際ベアトリスは兄の手紙を読んで、以前からくすぶっていた大いなる問題に、とうとう酸素が送り込まれたのだろうと思った。
ベアトリスが嫁ぐときに、ニコラスも両親も「何とかする」と言ったが、何とかならなかったのだろう。相手は狡猾だ。証拠など残すまい。
ニコラスは、ついにデイヴィッド・プリチェット公爵の排除に動き出すことにし、そのためにベアトリスの力が必要だと言っている。
ベアトリスはそっと目を閉じる。
思い出されるのは幸せだった三年間の結婚生活だ。
愛する夫エドワードと、共に暮らした使用人たち。
それから義理の両親となった国王夫妻に、義兄夫婦。
ヘンウッド国にいた頃には信じられなかったほどの幸福がここにはあった。
正直なところ、それを手放したくないと思う自分がいる。
だが同時に、ベアトリスは王女だった。
ヘンウッド国の王女だ。
祖国の問題に、見て見ぬふりはできなかった。
ベアトリスの幸せを何より願っていたニコラスが、帰って来てほしいと言うのだ。よほどのことである。
けれど、この三年の幸福が、ベアトリスの判断を鈍らせた。
手紙を受け取って一日、ベアトリスは悩んだ。
王女として、ヘンウッド国に戻らなければならない。
ベアトリスは兄も両親も見捨てられない。
だけど――おそらく深刻化しているだろうヘンウッド国内の王位問題に、エドワードを巻き込むわけにはいかなかった。
ないと思っていたニコラスの毒殺未遂まで起きたのだ。
あちら……プリチェット公爵側も、なりふり構わずの方向性に転じたと見ていい。
ベアトリスの命も危険に晒されるだろう。
ベアトリスと共にエドワードがヘンウッド国に入れば、彼もまた。
プリチェット公爵は狡猾だ。
ベアトリスについてきたエドワードを殺害し、その罪を国王夫妻やニコラス、またはベアトリスに押し付ける可能性もある。
プリチェット公爵、または彼の息子が王位につく正当性を主張するために、ずる賢い手を使って来るのは間違いなかった。
エドワードは、巻き込めない。
ならばベアトリスにできるのは、彼に内密で向かうことだ。
言えば、彼は必ずついてくるから。
そして無断で彼の元を去ることがすなわちどういうことを意味しているのか、わからないベアトリスではない。
離縁。
その二文字が頭の中をめぐる。
今のこの幸福を、ベアトリスは手放さなければならない。
そのことが、なによりベアトリスの思考を鈍らせたのだ。
王女の立場よりも、一人の女の幸福を優先させたいという欲求が、頭の半分を占めている。
なんて、我儘な王女だろうか。
ベアトリスは幼い頃から、王女として国のために生きるように教えられてきた。
その教えに逆らいたいと、今確実に、そう思っている。
ベアトリスはエドワードに見つからないように手紙を鍵付きの引き出しの中に収めて、いったん冷静になろうとした。
そうして次の日。
(帰ろう)
ベアトリスは、決意した。
一度決断すれば、ベアトリスは早かった。
すぐさまエドワードの予定を確認し、彼に決して気づかれないタイミングを見計らう。
もちろん、使用人にもだ。
誰一人連れて行かない。
ベアトリスに危険が迫ると言うことは、同行する使用人にも同じだけの、いやそれ以上の危険が迫るかもしれない。
誰一人、巻き込むわけにはいかなかった。
エドワードが、モラン公爵家の使用人たちが、大好きだから。
そして、使用人たちの視線を、エドワードの視線をかいくぐり、簡単な荷造りを終えたベアトリスは、計画を実行に移す。
向かうのは、オルブライト国首都オルグレン駅。
ここから遠く離れたヘンウッド国までを、七日間の汽車の旅で繋ぐ交通手段。
寝台列車モロニー・ロイヤル・エクスプレス――ベアトリスが祖国に帰るのに選んだのは、オルブライト国が誇る最新鋭の蒸気機関を搭載した、貴族向けの高級寝台列車だった。








