第十話「海賊の骨は歌わない」
ハルは、記録を書いた。
教会の机で。
昼も。
夜も。
雨の日も。
港が騒がしい日も。
死体が浜に上がった日も。
彼は書いた。
百年前の洗礼名。
死亡記録にない名前。
航海日誌の記述。
総督の手紙。
売買の証文。
地下室の壁の文字。
海賊墓地の石板。
処刑台に残された最後の文。
ミナの母方の名。
ミナの名。
すべてを書いた。
神父は、最初は止めた。
総督家の名を汚すなと言った。
島の平穏を壊すなと言った。
死んだ者を掘り返すなと言った。
ハルは答えた。
「掘り返しているのは、死者ではありません」
「では何だ」
「嘘です」
神父は黙った。
その後、何も言わなくなった。
ミナは、名前のない墓に小さな石を置いた。
十二個。
名前が分かる者には、名前を刻んだ。
名前が削られていた者には、読める部分だけ刻んだ。
読めない者には、空白を刻んだ。
空白も、消された名の形だった。
港の者は、初めは笑った。
死んだ子供の墓を百年後に作って何になる、と。
海賊の味方をするのか、と。
総督様を悪者にするのか、と。
ミナは答えなかった。
死体を洗う時と同じ顔で、石を洗った。
ハルは、記録を読み上げた。
教会で。
日曜の朝だった。
島の者が集まっていた。
海は窓の向こうで青かった。
風が花の匂いを運んできた。
ハルは、声が震えないように読んだ。
子供たちの名前を。
消された名前を。
総督の手紙を。
海賊の日誌を。
処刑前夜の文を。
誰も話さなかった。
誰も泣かなかった。
ただ、教会の中が重くなった。
百年分の沈黙が、ようやく椅子に座ったようだった。
読み終えると、ミナが立った。
彼女は前へ出た。
そして言った。
「私は、海賊の娘と呼ばれてきました」
誰も動かなかった。
「違ったのかもしれません」
ミナは続けた。
「でも、どちらでもいい」
ハルは、ミナを見た。
「私に必要だったのは、正しい噂ではありません。名前でした」
ミナは、手に持っていた紙を開いた。
ハルが書いた彼女の名だった。
「これは、私の名前です。消されなかった名前です」
彼女はそれを祭壇に置いた。
「この島には、他にも名前があります」
それだけ言って、ミナは席に戻った。
その日の午後、島の者たちは海賊の墓地へ向かった。
誰が最初に歩き出したのかは分からなかった。
老人。
女。
子供。
漁師。
市場の者。
教会の者。
皆が山を上がった。
墓地には、二十七の石があった。
その端に、十二の小さな石が置かれていた。
海賊のための墓地。
子供たちのための墓。
罪なき者のために。
風が吹いた。
木の葉が鳴った。
誰かが、海賊の骨が歌っている、と言った。
ミナは首を振った。
「歌っていない」
ハルは言った。
「では、何が聞こえる」
ミナは、しばらく耳を澄ませた。
「名前を読む声」
ハルも耳を澄ませた。
風の音だった。
葉の音だった。
遠い波の音だった。
しかし、そう聞こえた。
名前を読む声に。
夕方、二人は浜へ戻った。
海は青かった。
朝と同じように青かった。
けれど、同じ海ではなかった。
ハルは言った。
「記録は、残ると思うか」
ミナは言った。
「紙は腐る」
「そうだね」
「石も削れる」
「うん」
「でも、一度読まれた名前は、誰かの中に残る」
ハルは海を見た。
「それなら、少しは意味がある」
「少しではない」
ミナは歩き出した。
「名前には、帰る場所がいる」
ハルは、その後を歩いた。
浜には、嵐の残した木片がまだあった。
箱はもうなかった。
航海日誌は教会に置かれていた。
総督の嘘も。
海賊の言葉も。
子供たちの名も。
島は、明日も青い朝を迎える。
海は、きっと変わらず美しい。
その美しさの下に何が沈んでいるかを、もう誰も知らないふりはできない。
海賊の骨は歌わない。
ただ、沈黙している。
だから生きている者が、名前を読む。
青い島の朝に。
何度でも。
(第十話 了)
青い島の朝――海賊の骨は歌わない 完




