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俺の理想(白ギャル)になった幼馴染を、俺の傲慢が汚していく。  作者: ラズベリーパイ大好きおじさん


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9/10

決められない三人と、待てができる負け犬俳優

 田端飛鳥は、最近よく岡野貴之を見る。


 昔から見ていなかったわけではない。

 むしろ幼なじみだから、嫌でも見てきた。


 小学生の頃、凛を置いて先に走っていく背中。

 中学生の頃、アニメのヒロイン論を語ってドン引きさせてきた顔。

 高校生の頃、サッカーは上手いくせに本気になるのが怖くて、何でもないふりをしていた横顔。


 ずっと見てきた。


 そして、だいたい腹が立っていた。


 なのに、最近の貴之は妙に困る。


 凛に対して、前より距離を取るようになった。

 飛鳥に対して、好きだ好きだと軽く押してくるかと思えば、肝心なところでは踏み込まない。

 変なところで待つ。

 変なところで引く。

 そして、変なところで優しい。


 それが腹立たしい。


 腹立たしいのに、目で追ってしまう。


「飛鳥、また貴之見てる」


 カフェの窓際席で、凛がストローをくわえながら言った。


「見てない」


「見てた」


「見てない」


「じゃあ今、貴之くんが何してるか言ってみて」


「レジ横の新作チョコ見てる」


「見てるじゃん」


 凛が笑う。


 飛鳥は舌打ちした。


「視界に入っただけ」


「ふーん」


 その声が、少しだけ拗ねていた。


 飛鳥は凛を見る。


 キャップを深くかぶり、薄いマスクをしている。

 それでも凛は凛だった。

 隠しきれない華がある。


 最近、凛は以前より強くなった。


 誰かの理想になるためではなく、自分で選ぶために笑おうとしている。

 その姿が飛鳥には眩しい。


 そして同時に、怖い。


 凛が自分の足で立てるようになるほど、飛鳥の「守る」という口実は弱くなる。


 私は凛が好き。


 それは変わらない。


 でも。


 貴之に好きだと言われた日から、飛鳥の中に妙な棘が刺さっている。


 自分の汚いところを知られても、好きだと言われた。

 凛を守るふりをして、凛を自分の方に引き寄せようとしたことも。

 レオンを利用したことも。

 貴之を壊そうとしたことも。


 全部知られた。


 それでも、好きだと言われた。


 そんなもの、揺れるに決まっている。


「買ってきた」


 貴之が戻ってきた。


 手には三つの紙袋。


「何それ」


 飛鳥が聞く。


「新作チョコ。凛はホワイト。飛鳥はビター。俺はミルク」


 飛鳥は一瞬黙った。


「……なんで私がビター好きって覚えてるの」


「昔からじゃん」


「昔から?」


「小六のバレンタインで、凛が甘いやつ食べて喜んでる横で、お前だけ『甘すぎ』って文句言ってた」


「そんなこと覚えてんの?」


「覚えてる」


 貴之は当たり前のように言った。


「お前、甘いもの好きだけど甘すぎるのは嫌いだろ」


 飛鳥は何も言えなくなった。


 凛が隣でにこにこしている。


「貴之くん、最近ほんとそういうとこあるよね」


「そういうとこ?」


「ちゃんと見てるとこ」


「前は見てなかったからな」


 貴之はさらっと言った。


 飛鳥の胸が、また変に鳴る。


 そういうところだ。


 逃げずに、自分の最低だったところを認める。

 格好つけない。

 言い訳しない。


 昔の貴之なら、絶対にしなかった。


 飛鳥はビターのチョコを受け取った。


「ありがと」


「おう」


 たったそれだけ。


 なのに、指先が少し熱かった。


     ◇


 岡野貴之は、最近よく田端飛鳥を見る。


 昔から見ていたはずなのに、前は見えていなかった。


 凛の隣にいる口の悪い幼なじみ。

 俺をすぐ最低扱いする女。

 凛の味方。


 その程度の認識だった。


 でも今は違う。


 飛鳥が凛を見る目。

 凛を守ろうとして、でも自分の欲に気づいて苦しむ顔。

 俺に対して怒りながら、それでも完全には突き放せない時の沈黙。


 全部、目に入る。


 好きだと思う。


 それはもう誤魔化せない。


 ただ、好きだからといって、何をしていいのかは分からない。


 前の俺なら、好きになった瞬間に奪おうとしたかもしれない。

 俺だけを見ろ、と言ったかもしれない。

 選べ、と迫ったかもしれない。


 でも、今の飛鳥にそれをやったら終わりだ。


 飛鳥は凛が好きだ。

 凛は俺を諦めきれない。

 俺は飛鳥が好き。


 この矢印の地獄みたいな配置で、誰か一人だけを引っ張れば、全員転ぶ。


 だから俺は待つ。


 待つ、という行為がこんなに難しいとは知らなかった。


 待っているだけなのに、体力を使う。

 何もしていないのに、焦る。

 飛鳥が凛に触れると胸がざわつく。

 凛が俺を見て寂しそうに笑うと罪悪感が刺さる。


 それでも待つ。


 たぶんこれが、俺にできる最低限の誠実さだった。


     ◇


 その日は雨だった。


 凛の仕事が押して、三人で集まる予定が夜にずれた。


 場所は飛鳥の部屋。


 貴之が先に着いた時、飛鳥は玄関を開けてすぐに顔をしかめた。


「何その袋」


「薬局とコンビニ」


「買いすぎ」


「お前、声が変だったから」


「は?」


「電話で。鼻声だった。あと返事が少し遅かった。熱あるだろ」


 飛鳥は固まった。


「……ない」


「じゃあ体温計」


「ない」


「あるだろ。お前んち、薬箱きっちりしてるじゃん」


「勝手に覚えてんな」


 飛鳥は文句を言いながらも、体温計を渡された。


 結果、三十七度八分。


「あるじゃん」


「微熱」


「寝ろ」


「凛が来る」


「来るまで寝ろ」


「貴之に看病されるの嫌なんだけど」


「俺も看病スキルには自信がない」


「じゃあ帰れ」


「でもスポドリとゼリーと冷えピタは買ってきた」


「用意がいいのが腹立つ」


 貴之は勝手に台所へ向かった。


「何する気」


「粥」


「作れるの?」


「動画見ればいける」


「怖い」


「大丈夫。最悪スキー家がある」


「病人に牛丼食わせる気?」


「つゆだくなら飲める」


「帰れ」


 結局、貴之は不格好な卵粥を作った。


 少しネギが多かった。

 少し味も濃かった。

 でも、食べられないほどではなかった。


 飛鳥はベッドに座り、毛布にくるまりながら一口食べた。


「……普通」


「普通なら勝ちだろ」


「まあ、うん」


「食えそう?」


「食べる」


 貴之は少し安心した顔をした。


 その顔が、飛鳥にはずるかった。


「最近のあんた、ずるい」


「何が」


「前よりまともになろうとしてるところ」


「まともになれてるか?」


「知らない。でも、なろうとはしてる」


 飛鳥は粥を見つめた。


「そういうの、困る」


「困らせたいわけじゃない」


「分かってるから困る」


 雨音が窓を叩く。


 部屋の中は静かだった。


 凛がいない。


 二人きり。


 その事実が、いつもより重い。


「貴之」


「何」


「私、凛が好き」


「知ってる」


「たぶん一生変わらない」


「うん」


「でも、あんたに好きって言われてから、変な感じがする」


 貴之は黙って聞いていた。


「凛を好きな気持ちはそのままなのに、あんたがこっち見てると落ち着かない。怒りたいのに、ちょっと嬉しい。嬉しいのが嫌で、余計に怒りたくなる」


「面倒くさいな」


「あんたが言うな」


「すみません」


 飛鳥は小さく笑った。


 笑ってしまった。


 その瞬間、自分でも分かった。


 今、かなり危ない。


 貴之といると、楽だ。


 凛といる時の胸の痛みとは違う。

 凛を見ていると、好きすぎて苦しくなる。

 守りたい、触れたい、奪いたい、幸せでいてほしい。

 全部が混ざって、息が詰まる。


 でも貴之は、飛鳥の汚いところを知っている。


 知られた上で、隣に座っている。


 それが楽だった。


 この楽さに流れたら、貴之で決めてしまえるかもしれない。


 飛鳥はそう思った。


「私さ」


 言葉が出かけた。


 貴之でいいかもしれない。


 そう言いそうになって、止まる。


 貴之は静かに言った。


「俺でいい、ならやめとけ」


 飛鳥は目を見開いた。


「まだ何も言ってない」


「顔で分かる」


「何それ」


「お前が凛から逃げるために俺を選ぶなら、俺は嫌だ」


 貴之はまっすぐ飛鳥を見た。


「俺はお前が好きだけど、逃げ場所にはなりたくない」


 胸が、苦しい。


「……ずるい」


「また?」


「ずるいよ、それ」


「俺も必死なんだよ」


 貴之は苦笑した。


「ここで押したら、もしかしたらお前がこっち来るかもって思った。でもそれやったら、前の俺と同じだろ」


 飛鳥は何も言えなかった。


「だから待つ。お前が、俺でいいじゃなくて、俺がいいって思うまで」


 飛鳥の顔が熱くなる。


 熱のせいだけではなかった。


 その時、玄関の鍵が開く音がした。


「ただいま……って、ただいまじゃないか」


 凛の声。


 飛鳥は慌てて毛布を引き寄せた。


 貴之も少しだけ距離を取った。


 凛が部屋に入ってくる。


 仕事終わりで疲れているはずなのに、目は鋭かった。


「二人、何かあった?」


「何も」


 飛鳥が即答する。


「何もではない顔してる」


「熱」


「飛鳥、熱あるの?」


 凛の表情が一瞬で心配に変わる。


 凛はバッグを置き、飛鳥の額に手を当てた。


「ほんとだ。あったかい」


「大したことない」


「寝て」


「凛も疲れてるでしょ」


「飛鳥が寝るまで寝ない」


 凛が真剣に言う。


 飛鳥は弱い。


 この凛に弱い。


 貴之は立ち上がった。


「俺、帰るわ」


「え?」


 凛が振り返る。


「凛来たし。飛鳥寝かせてやって」


「貴之くんは?」


「俺いたら飛鳥が落ち着かないだろ」


「……うん」


 飛鳥が小さく言うと、貴之は少し笑った。


「じゃあな」


 玄関へ向かう貴之の背中を、飛鳥は見た。


 引き止めそうになった。


 でも、引き止めなかった。


 凛の手が、まだ飛鳥の額に触れていたから。


     ◇


 凛は気づいていた。


 最近、飛鳥と貴之の間の空気が変わっている。


 貴之が飛鳥を見る目は、以前よりずっと静かで優しい。

 飛鳥もそれに気づいている。

 気づいて、揺れている。


 凛はそれが怖かった。


 でも、昔みたいに泣くだけではいたくなかった。


 私は貴之くんを諦められない。


 そして、飛鳥のことも好きだ。


 飛鳥が自分を好きでいてくれることに、甘えていた部分もある。

 飛鳥ならずっと私の味方でいてくれる。

 飛鳥なら私を選んでくれる。


 そんなふうに思っていた。


 でも、それはずるい。


 飛鳥に「私を理由に自分の気持ちを殺さないで」と言ったのは凛自身だ。


 なら、凛も逃げてはいけない。


 貴之と飛鳥が近づくのが怖いなら、怖いと言えばいい。

 負けたくないなら、アピールすればいい。

 選ばれるのを待つだけではなく、自分で手を伸ばせばいい。


 翌日、凛は三人のグループチャットに送った。


『明日、私のターンください』


 既読が二つついた。


 最初に返したのは貴之だった。


『ターン制だったのか』


 次に飛鳥。


『何する気?』


 凛は少し悩んでから打った。


『ちゃんとアピールする』


 しばらく沈黙。


 それから貴之。


『了解。正座して待つ』


 飛鳥。


『正座はいらない。凛、無理しないで』


 凛はスマホを握りしめた。


 無理はする。


 でも、誰かの理想になるための無理ではない。


 自分で選ぶための、無理だ。


     ◇


 凛のターン当日。


 集合場所は、昼の公園だった。


 例のタイヤ遊具がある、三人の原点みたいな場所。


 凛は大きめのトートバッグを抱えていた。


 飛鳥が真っ先に聞く。


「何それ」


「お弁当」


「凛が作ったの?」


「うん」


 貴之と飛鳥が同時に固まる。


 凛がむっとする。


「何その顔」


「いや、凛って料理するんだ」


 貴之が言う。


「するよ。最近練習してる」


「知らなかった」


「言ってないもん」


 凛はレジャーシートを広げた。


 重箱ではない。

 普通のタッパーがいくつも入っている。


 おにぎり。

 卵焼き。

 唐揚げ。

 ブロッコリー。

 ミニトマト。

 ウインナー。

 あと、なぜか小さなカップに牛丼の具みたいなもの。


「牛丼?」


 貴之が反応する。


「スキー家には負けるけど、作ってみた」


「手作り牛丼の具……」


 貴之の目が少し潤んだ。


「泣くほど?」


「いや、これは結構くる」


 飛鳥が呆れた顔をする。


「ちょろい」


「違う。牛丼は心だ」


「出た」


 凛は少し照れながら言った。


「貴之くんには、ちゃんと今の私を見てほしい。昔みたいに、貴之くんの好きな女の子になろうとするんじゃなくて」


 凛は貴之を見る。


「私が何を好きで、何を頑張ってて、どういうところがだめで、どういうところがずるいのか。そういうのも見てほしい」


 貴之は黙って頷いた。


「飛鳥には」


 凛は今度は飛鳥を見る。


「守られるだけじゃなくて、私も何かしたい。飛鳥を甘やかしたい」


 飛鳥が目を逸らした。


「甘やかされるの慣れてない」


「だから練習」


「何を?」


「はい」


 凛は飛鳥の口元に卵焼きを差し出した。


 飛鳥が固まった。


「……え?」


「あーん」


「凛、ここ公園」


「誰も見てない」


「貴之が見てる」


「俺は木」


 貴之が即座に言った。


「木は喋らない」


「ざわ……ざわ……」


「それ木じゃない」


 凛は引かない。


「飛鳥、あーん」


 飛鳥の顔が赤くなる。


「自分で食べる」


「だめ。今日は私のターン」


「ターン制強い……」


 飛鳥は観念して、卵焼きを食べた。


 凛の顔がぱっと明るくなる。


「どう?」


「……甘い」


「甘すぎた?」


「ちょうどいい」


 飛鳥が小さく言う。


 凛は嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、飛鳥の胸が痛んだ。


 やっぱり凛が好きだ。


 可愛い。

 守りたい。

 甘やかしたい。

 甘やかされたい。


 この笑顔に勝てるものなんてない。


 そう思うのに、隣で貴之が黙って凛の手作り牛丼の具を食べている姿を見ると、別の感情も疼く。


 貴之は凛を見ていた。


 でも、以前のような所有欲の目ではない。


 ちゃんと凛を見ようとしている目だった。


 その変化が、飛鳥にはまたずるかった。


     ◇


 午後は、凛プロデュースの三人デートだった。


 まず、ゲームセンター。


 凛は貴之にダーツ勝負を挑んだ。


「私、練習した」


「マジで?」


「レオンくんに負けないくらいには無理だけど、貴之くんに見てもらいたくて」


「十分だろ」


 クリケットではなく、カウントアップ。


 凛のフォームはまだぎこちなかった。

 でも、ちゃんと狙って投げている。


 何度も外す。

 たまにブルに入る。

 入るたびに嬉しそうに振り返る。


「見た?」


「見た」


「今のよくない?」


「かなりよかった」


「ほんと?」


「ほんと」


 貴之は素直に褒めた。


 凛が笑う。


 飛鳥は少し離れて、その二人を見ていた。


 胸がちくりとする。


 でも、嫌なだけではない。


 凛が自分で貴之に向かっていく姿は、少し誇らしかった。


 次に、雑貨屋。


 凛は飛鳥に似合う髪留めを選んだ。


「私、髪留めとか使わない」


「知ってる。でも似合うと思う」


「凛が使った方が可愛い」


「今日は飛鳥」


 凛は黒いシンプルなヘアピンを選び、飛鳥の前髪を少しだけ留めた。


 鏡の中の飛鳥は、いつもより少し柔らかく見えた。


「可愛い」


 凛が言う。


 飛鳥は顔をしかめた。


「やめて」


「本当だもん」


「やめて」


「飛鳥、可愛い」


「凛」


「好き」


 飛鳥は完全に黙った。


 貴之が横でぼそっと言う。


「これは強い」


「うるさい」


 飛鳥は貴之を睨んだが、迫力はなかった。


 凛は笑っていた。


     ◇


 夕方、三人は川沿いの道を歩いた。


 昔、凛が貴之に告白した場所に近い。


 凛はそこで立ち止まった。


「ここ、苦手だった」


 貴之が表情を硬くする。


「ごめん」


「謝ってほしいわけじゃないよ」


 凛は川を見る。


「ここで振られて、私、終わったと思った。貴之くんの好きな女の子になれたはずなのに、だめだったんだって」


「うん」


「でも今は、少し違う」


 凛は振り返った。


「私は、貴之くんの好きな女の子になりたいんじゃない。貴之くんに、私を好きになってほしい」


 貴之は何も言わなかった。


 凛は続ける。


「飛鳥にも、私を選んでほしい。でも、飛鳥が私を理由に自分を縛るのは嫌」


 飛鳥が小さく息を呑む。


「だから私、ちゃんと頑張る。二人に選ばれるためだけじゃなくて、二人を好きでいるために」


 凛は少し笑った。


「負けないから」


 その声は震えていた。


 でも、まっすぐだった。


 飛鳥の中で、昨日まで固まりかけていた答えがほどけていく。


 貴之で決めれば、楽かもしれない。


 そう思った。


 でも、凛がこんなふうに手を伸ばしてくるなら。


 飛鳥はその手を無視できない。


 やっぱり凛が好き。


 でも、貴之のことももう無視できない。


 決められない。


 決められない自分が情けない。


 でも、今この場で無理に決めることの方が、たぶんもっと不誠実だった。


     ◇


 その夜、三人はなぜか駒込桜の部屋にいた。


 理由は簡単だ。


 凛が「第三者の意見がほしい」と言い出し、飛鳥が「普通の第三者は無理」と言い、貴之が「レオンと桜さんならもう全部知ってる」と言ったからである。


 桜の部屋は相変わらず洒落ていた。


 間接照明。

 大きなソファ。

 香水の匂い。

 高そうなラグ。


 そして、そのラグの上に桐生レオンが座っていた。


 いや、座っているというより、正座に近い姿勢だった。


 首元には、犬用ではないが犬っぽく見えなくもない黒いチョーカー。

 手にはスキー家のCM台本。

 隣には桜。


「……何してんの」


 貴之が聞く。


 レオンは真顔で答えた。


「待て」


「いや、状態じゃなくて」


「桜に待てって言われた」


 桜がソファで足を組みながら笑う。


「今、レオンはご褒美前の待て中」


「ご褒美って何ですか」


 凛が恐る恐る聞く。


「頭なでる」


「平和」


 飛鳥が呟く。


 レオンは少し顔を赤くした。


「見るな」


「いや見るでしょ」


 貴之が言う。


「元復讐者が待てしてるんだぞ」


「お前にだけは言われたくない」


「俺は待てできないからな」


「自慢するな」


 桜が手を軽く叩いた。


「よし」


 レオンは露骨にほっとした顔をした。


 桜が彼の髪を撫でる。


「よくできました」


 レオンは目を逸らしながらも、抵抗しない。


 むしろ少し嬉しそうだった。


 凛は微妙な顔をしている。


「レオンくん、幸せそうだね」


「幸せかどうかは別として、落ち着く」


 レオンは真面目に言った。


「負けを受け入れると、人間は楽になる」


「その方向に楽になったんだ……」


 飛鳥が引き気味に言う。


 桜は楽しそうだった。


「で? まだ決着ついてないの?」


 三人は黙った。


 桜は呆れたようにため息をつく。


「長いねえ。連ドラ何クールやる気?」


 レオンも頷いた。


「早く決着つけろよ」


「お前が言うのか」


 貴之が突っ込む。


「俺は決着つけた。岡野に負けて、桜に飼われた」


「そんな決着のつけ方ある?」


「ある」


 レオンは堂々と言った。


「負ける相手を決めるのも人生だ」


 妙に説得力があって嫌だった。


 桜が三人を見回す。


「で、今日の議題は?」


 凛が手を上げた。


「私が頑張ってアピールしました」


「偉い」


 桜が即答する。


 飛鳥が続ける。


「私は、貴之に傾きかけました」


「お」


 桜の目が光る。


「でも凛にアピールされて、やっぱり凛が好きだってなりました」


「なるほど」


 貴之が言う。


「俺は飛鳥が好きです。でも凛が頑張ってるの見て、ちゃんと向き合わないといけないとも思いました」


「うん」


 桜は少し考えた。


 そして、ばっさり言った。


「決着無理じゃない?」


「身も蓋もない」


 飛鳥が言う。


「だって全員が全員に何かしら矢印持ってるじゃん。しかも矢印の種類が違う。恋、未練、依存、尊敬、罪悪感、家族感、幼なじみ感。全部混ざってる」


 レオンが頷いた。


「牛丼で言うと、混ぜすぎだな」


 貴之が反応する。


「牛丼は混ぜすぎても成立する場合がある」


「そこ食いつくな」


「重要だろ」


「重要じゃない」


 桜は笑った。


「でもまあ、無理に一つの形にしようとして壊れるくらいなら、なぁなぁでもいいんじゃない?」


 凛が顔を上げる。


「なぁなぁ」


「悪い意味じゃなくてね。今すぐ決めるには、全員まだ感情が生っぽい」


 桜はレオンの頭を撫でながら言う。


「煮えてない鍋を無理やり皿に盛ると、腹壊すよ」


「牛丼の次は鍋か」


 貴之が呟く。


「黙って聞け」


 飛鳥が肘でつつく。


 レオンは少し真面目な顔で言った。


「俺は岡野にずっと勝ちたかった。でも、勝つか負けるかだけで考えてるうちは、何も見えてなかった」


 その言葉に、三人は黙る。


「お前らも、選ぶか選ばないかだけで考えすぎなんじゃないか」


「レオンくん……」


 凛が少し感心した顔をした。


 レオンは続ける。


「まあ俺は今、桜に選ばれて飼われてるから勝ち組だけどな」


「台無し」


 飛鳥が言った。


 桜は大笑いした。


「よしよし、うちの子は今日も可愛いね」


「やめろ、人前だ」


「嬉しいくせに」


「……否定はしない」


 貴之が遠い目をした。


「人って変わるんだな」


「お前が一番変わっただろ」


 レオンが言い返す。


 そのやり取りに、凛が笑った。


 重い話をしに来たはずなのに、空気が少し軽くなる。


 それでよかった。


 今の三人には、重さだけでは耐えられない。


     ◇


 帰り道。


 三人は夜の街を歩いていた。


 凛は真ん中。

 左に飛鳥。

 右に貴之。


 以前なら、凛は貴之の三歩後ろにいた。

 飛鳥はそれを見ていた。


 今は違う。


 三人並んで歩いている。


 それだけでも、ずいぶん遠くまで来た気がする。


「結局、決まらなかったね」


 凛が言った。


 飛鳥が苦笑する。


「決める気でいたんだけどね」


「飛鳥、貴之くんに決めそうだった?」


 凛が聞く。


 飛鳥は少し黙った。


「……少し」


 貴之の心臓が跳ねる。


「でも、凛が頑張ったから?」


「うん」


 飛鳥は正直に言った。


「凛が手を伸ばしてきたら、無視できない」


「そっか」


 凛は少し嬉しそうで、少し悔しそうだった。


「でも、私も安心してないよ」


「え?」


「飛鳥が貴之くんに揺れてるの、分かるから」


 飛鳥は顔を赤くした。


「凛」


「私、負けないって言ったでしょ」


 凛は笑った。


「飛鳥にも、貴之くんにも」


 貴之は頭をかいた。


「俺、かなり難しい立場だな」


「自業自得」


 飛鳥が即答する。


「はい」


「でも」


 飛鳥は少しだけ声を柔らかくした。


「今日の貴之は、ちゃんと待ってた」


「待てならレオンの方が上だったけどな」


「張り合うな」


 凛がくすくす笑う。


「私たちも、待てを覚える?」


「誰が誰に?」


 飛鳥が聞く。


 凛は少し考えた。


「全員が全員に」


「それ、ただの停滞じゃない?」


「停滞じゃなくて、保留」


 凛は言った。


「今すぐ決めない。でも逃げない。三人で過ごす。ちゃんと好きって言う。嫌なことも言う。ずるいことしそうになったら止める」


 飛鳥が頷く。


「それなら、できるかも」


 貴之も頷いた。


「俺も、それがいい」


「貴之くんは、本当は飛鳥に決めてほしい?」


 凛が聞いた。


 貴之は正直に答えた。


「ほしい」


 飛鳥の肩が少し跳ねる。


「でも、凛に無理して諦めてほしくはない」


「うん」


「飛鳥にも、逃げるために俺を選んでほしくない」


「うん」


「だから、なぁなぁでいい」


 飛鳥が顔をしかめる。


「言い方」


「保留でいい」


「最初からそう言え」


 凛は笑った。


「じゃあ、保留」


 夜風が吹いた。


 ままならない関係は、今日も決着しない。


 でも、誰も泣いて逃げてはいない。


 それだけで、前よりずっといい。


     ◇


 その後、なぜか三人はスキー家に寄った。


 理由は貴之が腹を減らしたからである。


「決着つかなかったし、飯食うか」


「どういう理屈?」


 飛鳥が呆れる。


「決着がついてもつかなくても腹は減る」


「真理っぽく言うな」


 凛は少し笑っている。


「今日は私も食べる」


「メガ?」


 貴之が聞く。


「普通」


「賢い」


 店員が注文を聞く。


 貴之はいつものように言った。


「ネギたま牛丼メガ、つゆだくだくだくだく、明太マヨトッピング、温玉変更で」


 飛鳥は頭を抱えた。


「今日は控えめだね、くらいに思ってしまった自分が嫌」


「成長だな」


「違う」


 凛は普通盛りの牛丼。

 飛鳥はおろしポン酢牛丼。

 貴之はいつもの長いやつ。


 三人でカウンターに並ぶわけにはいかないので、テイクアウトにした。


 向かったのは、例の公園。


 夜のベンチに座り、三人で牛丼を広げる。


 凛は一口食べて、目を細めた。


「うん。おいしい」


「だろ」


「スキー家の回し者?」


 飛鳥が言う。


「レオンの方が今は公式に近い」


「そうだった」


 凛がスマホを取り出す。


「レオンくんに送ろ」


 写真を撮って、グループではなくレオン個人に送る。


 すぐに返信が来た。


『また決着つかなかったのか』


 凛が読み上げると、三人で笑った。


 続けて桜からもメッセージが来た。


『早く決着つけろよ。でも面白いからもう少し続けてもいいよ』


 飛鳥が苦笑する。


「完全に観客じゃん」


 貴之は牛丼を混ぜながら言った。


「まあ、俺たちも自分たちのこと分かってないしな」


「分かってないまま進むの怖いね」


 凛が言う。


「怖い」


 飛鳥が認める。


「でも、止まってるよりはいい」


「うん」


 凛は飛鳥の肩に少し寄りかかった。


 飛鳥は驚いたが、逃げなかった。


 貴之はそれを見て、少しだけ胸が痛んだ。


 でも、その痛みも今は受け入れられた。


 飛鳥は凛が好き。

 凛は貴之を諦めきれない。

 貴之は飛鳥が好き。


 その矢印は今日も変わらない。


 ただ、その間に少しずつ別の線が増えている。


 信頼とか。

 罪悪感とか。

 家族みたいな時間とか。

 笑いとか。

 牛丼とか。


「ねえ」


 凛が言った。


「また私のターン、やっていい?」


「いいよ」


 飛鳥が即答する。


「じゃあ次は飛鳥のターンも」


「私?」


「うん。飛鳥もアピールして」


「誰に」


「私と貴之くんに」


 飛鳥が露骨に動揺した。


「何で貴之にも」


「保留だから」


「保留って便利すぎない?」


 貴之が笑う。


「じゃあ俺のターンもある?」


「ある」


 凛が言う。


 飛鳥も、少し遅れて頷いた。


「ただし、牛丼だけは禁止」


「俺の主武装が」


「禁止」


「じゃあダーツ」


「それはレオンが嫌がりそう」


 凛が笑う。


 飛鳥も笑った。


 貴之も笑った。


 決着はつかなかった。


 飛鳥は一度、貴之に決めそうになった。

 貴之はそれを望みながらも、逃げ道にはなりたくないと踏みとどまった。

 凛は泣くだけではなく、ちゃんと手を伸ばした。


 そして結局、三人はまた三人に戻った。


 なぁなぁ。


 保留。


 未決。


 言い方はいくらでもある。


 でも、この夜の公園で食べる牛丼はうまかった。


 それだけは確かだった。


     ◇


 同じ頃、駒込桜の部屋。


 レオンはソファの下のラグに座り、スキー家CMの次回台本を読んでいた。


 桜がスマホを見て笑う。


「また決着つかなかったって」


「知ってる。凛から牛丼写真来た」


「どう思う?」


「早く決着つけろよ、と思う」


「でも?」


 レオンは少し考えた。


「でも、無理に決めて壊れるよりはマシなんじゃないか」


 桜が目を細める。


「成長したね、レオン」


「飼い主がいいからな」


「自分で言うようになった」


 桜は嬉しそうに笑った。


「おいで」


 レオンは少しだけ迷った。


 それから、桜の足元へ移動する。


 桜が彼の頭を撫でた。


「よしよし。待てができて偉い」


「俺は犬じゃない」


「でも待てできる」


「……できる」


「じゃあ偉い」


 レオンは目を閉じた。


 負けること。

 待つこと。

 決めきれないこと。


 昔のレオンなら、全部嫌いだった。


 だが今は少し違う。


 負けても終わらない。

 待っても死なない。

 決めきれない時間にも、意味がある。


 あの三人も、たぶんまだ途中なのだ。


「なあ、桜」


「何?」


「あいつら、いつ決まると思う?」


「さあね」


 桜は笑った。


「案外、一生決まらないかもよ」


「それはそれで地獄だな」


「でも、楽しそうじゃん」


 レオンは少しだけ笑った。


「まあな」


 スマホに、岡野からメッセージが届いた。


『次のCM、つゆの表現が弱い。相談に乗る』


 レオンは即座に返信した。


『いらん』


 すぐに返ってくる。


『遠慮するな』


『してない。拒否だ』


 桜が覗き込んで笑った。


「仲良し」


「違う」


「はいはい」


 レオンはスマホを伏せた。


 岡野貴之。


 かつて倒したかった男。

 今は、面倒くさい牛丼仲間。


 人生は本当にままならない。


 でも、ままならないからこそ、少し面白い。


 桜の手が髪を撫でる。


 レオンは目を閉じたまま、小さく呟いた。


「……早く決着つけろよ、ほんと」


 その声は呆れていた。


 けれど、少しだけ優しかった。


     ◇


 夜の公園では、三人がまだ牛丼を食べていた。


 凛が飛鳥に寄りかかり、飛鳥は文句を言いながらもそのままで、貴之は二人を見ながら自分のメガ盛りを平らげている。


「次の日曜、どうする?」


 凛が聞く。


「凛の仕事は?」


 飛鳥が聞く。


「夕方まで空いてる」


「じゃあ昼だけどこか行く?」


「俺のターンでいい?」


 貴之が手を上げる。


 飛鳥が警戒する。


「牛丼?」


「違う」


「本当に?」


「本当に」


「じゃあ何」


「河川敷でボール蹴る」


 凛が少し驚いた。


「サッカー?」


「久しぶりにちゃんとやろうかなって」


 飛鳥は貴之を見た。


 サッカー。


 貴之が逃げたもの。

 レオンを傷つけたもの。

 でも、本当は好きだったかもしれないもの。


「いいじゃん」


 飛鳥が言う。


「見ててあげる」


「やるんだよ」


「私も?」


「凛も」


「私、運動そんなに」


「アイドルだろ。体力あるだろ」


「それとサッカーは別」


 凛が笑う。


「でも、やる」


 飛鳥も小さく頷いた。


「じゃあやる」


 貴之は少し嬉しそうだった。


 その顔を見て、飛鳥の胸がまた鳴る。


 やっぱり、困る。


 凛が好き。

 貴之も気になる。


 決められない。


 でも今日は、それでいい。


 凛が飛鳥の手を握る。


 貴之がそれを見て、少し笑う。


 夜風が吹く。


 タイヤ遊具は黙ってそこにある。


 決着はまだつかない。


 なぁなぁで、保留で、未完成で。


 それでも三人は、明日の予定を決めている。


 たぶん今は、それだけで十分だった。

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