9.わたしはみんなといてしあわせだわ
「エルマ様の御髪は、本当にお綺麗ですね」
「そ、そうかしら、マーサ。ありがとう……この髪だけは亡きお母様に似ていて、私にとっても誇りなの」
ベルン領の朝。
屋敷の自室にて、エルマはメイドのマーサに艶やかな髪を優しく梳いてもらっていた。
財政の苦しい辺境の男爵家ゆえに、エルマは普段の身支度をすべて自分自身でこなしている。だが、こうしてマーサの手が空いている朝には、彼女が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのだ。それは二人にとって、主従を超えた家族のような、ささやかで温かい時間だった。
身支度を終え、一人になったエルマは窓辺に座り、静かに刺繍枠に向かっていた。
一針、また一針。真っ白な布地に、赤い糸で薔薇の模様が縫い込まれていく。
あの凄惨な血の夜から数日。鼻の奥にこびりついた鉄錆の匂い(幻臭)を必死に誤魔化すように、エルマはただひたすらに、令嬢としての穏やかな手作業に没頭していた。
「あぁ、癒されます……」
出来上がりつつある見事な薔薇を見つめ、エルマはようやく年相応のホッとした吐息を漏らした。鮮やかな深紅の絹糸で象られた花びらに、煌びやかな金糸の縁取りがあしらわれている。剣も魔法もからきしな彼女にとって、この精緻な刺繍の腕前こそが、唯一無二の誇れる特技だった。
ふと、脳内の同居人が語りかける。
(……。小娘。おめぇにもいっぱしの技量ってもんがあるんだな)
『あ、ありがとうございます』
返ってきたのは、エルマの手元――鋭く光る一本の刺繍針を、ただ無関心に眺めるような気の抜けた声だった。
ここ最近、彼は時折こうして気まぐれに相槌を打つものの、以前のように「殺させろ」と強引に体の主導権を奪おうとはしてこない。
『最近、あまりうるさくない……もしかして、誰も傷つけたくないっていう私の気持ち、少しはわかってくれたのかしら……!』
きっとそうだ。そうであってほしい。
そんな切実で淡い希望を胸に抱きながら、エルマはそっと針を布に刺して置いた。
その日の午後。
エルマは息抜きも兼ねて、屋敷のふもとに広がる領民たちの街を歩いていた。護衛の兵士は一人も連れていない。このベルン領において、そんなものは必要ないからだ。
石畳の緩やかな坂道を下っていくと、ふわりと香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
周辺貴族からの陰湿な経済封鎖もあり、街は決して豊かではない。だが、どこからか聞こえる鍛冶屋の小気味良い槌の音や、路地裏を駆け回る子供たちの笑い声が絶えない、活気と素朴な温かさに満ちた場所だった。
「おや、エルマお嬢! 今日も可愛いねぇ。ほら、ちょうど今、窯から出したところだ。これ、オマケしとくよ!」
「あ、ありがとうございます! ロッシお爺さん」
ふくよかなパン屋のロッシ爺さんから、焼きたての甘い丸パンを受け取る。
「おう、お嬢! 今日の肉は極上だぜ! ベルン家のために、一番いい部位をお屋敷に届けさせようか!」
通りの向こうから、分厚いエプロンに血を滲ませたお肉屋のアレクおじさんが満面の笑みで手を振っていた。その右手には、肉切り包丁の代わりに、巨大なバスターソードが握られている。
「ちょっとアレクったら声が大きいわよ! んな物騒なもん振り回して、お嬢様をびっくりさせちゃってごめんなさいね」
「ば、馬鹿野郎! 俺はお嬢を驚かせるような真似は……!」
すかさず隣の屋台から、八百屋のフィンおばさんが洗い立ての瑞々しい葉野菜でアレクの肩をピシャリと叩く。大柄な男が小柄なおばさんにタジタジになるいつものやり取りに、周囲の領民たちからドッと温かい笑いが起きた。
エルマの目には、それが心優しい領民たちの微笑ましい日常に映っていた。
だが、その眼球の奥に潜む『悪鬼』の視点は全く異なっていた。
(……ハッ。相変わらず狂ったシマだぜ。どいつもこいつも、戦を潜り抜けた血生臭ぇ『戦士』の匂いをプンプンさせやがって)
バルバロッサは、脳内で冷笑を漏らす。
丸太のような腕でバスターソードを軽々と扱うアレク。一見隙だらけのようでいて、油断なく周囲を警戒しているフィンの低い重心。
あのイカれた父親ガルムが私兵団として育て上げた歴戦の猛者どもが、揃いも揃ってこの小娘の前でだけは、腑抜けた『村人』の顔を下げているのだ。
「ふん、相変わらず隙だらけの顔ね。領主の娘なんだから、もっとシャキッとしなさいよ。……ほら、これ」
「か、可愛いです! 新作の焼き菓子ですか?」
「あ、あんたに味見してほしいわけじゃないからね! 焼きすぎちゃった失敗作なんだから!」
ツンとそっぽを向きながら、綺麗に包まれた小箱を押し付けてくるのは、エルマと年頃も背丈もよく似た町娘・ダイナだ。
「もう、ダイナったら素直じゃないんだから。昨日の夜から、エルマ様に食べてもらうんだって一生懸命に練習してたくせに」
「お、お姉ちゃん!? 余計なこと言わないでよ!」
真っ赤になって怒るダイナの隣で、姉のファナが優しく微笑み、エルマの乱れた後れ毛を直してくれた。
「エルマ様ー!!」
不意に、足元から元気な声がした。
見下ろすと、服も顔も泥だらけにした幼いトムが、息を切らして駆け寄ってくるところだった。
「トム! 転ばないように気をつけて」
「えへへ……あのね、これ! 川で拾ったの! エルマ様の瞳と同じ色だから、あげる!」
トムがいっぱいに伸ばした小さな手。その泥だらけの手のひらには、水に濡れてキラキラと光る、透き通った菫色の綺麗な石ころが握られていた。
エルマはドレスの裾が泥で汚れることも厭わず、その場にしゃがみ込む。そして、トムの小さな手を両手でそっと包み込み、満面の笑みで石を受け取った。
「ありがとう、トム。ふふっ……冷たくて、とっても綺麗な石ね。私の宝物にするわ」
皆、エルマの大切な領民たちだ。
隣で微笑むファナが、目を細めながら呟いた。
「エルマ様は、本当にこの街の皆さんがお好きなんですね」
(おめぇは、こいつらが好きなのか?)
ファナの優しい問いかけと、脳内に響く悪鬼の呆れたような声。
その両方に答えるように、エルマは立ち上がり、春の陽だまりのような一切の曇りがない笑みを浮かべた。
「ええ、もちろんですっ!」
「……ふふっ。いつも陽気なお肉屋のアレクおじさんも、しっかり者の八百屋のフィンおばさんも。いつも口うるさくて少し意地悪だけど、私のために一生懸命お菓子を焼いてくれるダイナも、本当に優しくて一緒に遊んでくれるファナお姉ちゃんも……。焼きたての甘いパンをこっそりオマケしてくれるロッシ爺さんも、泥だらけの手で綺麗な石ころをくれる小さなトムも……。みんな、みんな大好きよ!」
その言葉に嘘はない。
彼らの息遣い。手の温もり。街の匂い。この愛に満ちた世界こそが、エルマの『日常』だった。
(……ミルクに蜂蜜とシロップをブチ込んでシェイクして飲みてぇ気分だぜ)
胸焼けすら覚えるエルマの甘すぎる言葉に、バルバロッサは脳内で底知れぬため息を吐く。
――悲劇はいつも、嫌なタイミングで訪れる。
「……大、大変です! お嬢様!!」
平和な笑い声が響く広場に、屋敷に残っていたはずのメイド・マーサが、血相を変えて駆け込んで来た。
普段は完璧な礼儀作法を崩さない彼女が、息を切らし、スカートの裾を握りしめてなりふり構わず走ってくる。そのただならぬ様子に、周囲の領民たち――歴戦の戦士たちの空気が、一瞬にして冷たく張り詰めた。
「どうしたの、マーサ? そんなに慌てて……」
(……ハッ。ようやく来やがったか。待ちくたびれて、ゴブリンがオーガに進化しちまうかと思ったぜ)
退屈な平和の終わりを歓迎するバルバロッサの冷笑と同時に、マーサはエルマの前に膝をつき、震える声でその『絶望』の名を口にした。
「隣領の……カインズ伯爵様から、使者が到着なさいました……! ベルン家に対し、至急、兵糧と莫大な特別税を納めよとの……理不尽な要求状を持参して……っ!」
その瞬間、エルマの表情から血の気が引いた。
彼女の愛した平和な日常が、強欲な権力者の泥靴によって無惨に踏みにじられた音がした。




