27.戦士の剣儀
屋敷の前に張られた本陣に、エルマが息を切らして駆け込んできた。
そこには、かつて数多の戦場を震え上がらせた傭兵団『黒曜の牙』の古参たちが勢揃いしていた。平時のエプロンや作業着姿はどこにもない。使い込まれた革鎧を纏い、血の匂いが染み付いた得物を手にした彼らは、まさしく解き放たれた狂犬そのものだった。
「エルマ! なぜここに来た。お前は早く地下へ――」
危険な前線に現れた娘を見て、ガルムが険しい顔で叱咤しようと歩み寄る。
だが、その言葉は途中でピタリと止まった。
恐怖に微かに震えながらも、決して目を逸らさずに自分を見据える娘の瞳。その奥に底知れぬ静かな覇気――バルバロッサの気配――を感じ取ったのか、歴戦の傭兵はこれ以上の子供扱いは無用だと悟り、小さく息を吐いた。
ガルムの顔から父親の甘さが消え、一人の屈強な『戦士』の顔つきに変わる。
彼は腰の長剣を抜き放ち、その切先を下げた。
そこから、刃を下から水平に鋭く切り上げる。流れるような動作で手首を返し、そのまま反対方向へと水平に空を薙ぐ。最後に柄を両手で力強く握り込み、刃を垂直にして胸の前に高く掲げた。
それは、傭兵団『黒曜の牙』に伝わる、命を懸ける死地に向かう前の神聖な剣礼だった。
「我、黒曜の牙の戦士が一人。ガルム・ベルン。――これより死線を越え、冥府の底まで血路を拓かん」
重厚な誓いの声が、水を打ったように静まり返った陣に響き渡る。
それに呼応するように、傍らに立つ者たちが次々と己の武器を抜き放ち、空へ同じ軌道を描いた。
「我、黒曜の牙の戦士が一人。アレク。――ただいまより、我が命を死線の泥に沈める覚悟なり」
「我、黒曜の牙の戦士が一人。ロッシ。――命尽きるまで、この死線に喰らいつく覚悟なり」
「同じくフィン。――この命、死地にて燃やし尽くす覚悟なり」
次々と上がる、狂犬たちの誇り高き名乗り。
圧倒されるような熱気と覚悟の連鎖を前に、エルマは胸の前で両手をぎゅっと握り締めた。
(小娘。見ろ。こればかりは誰も顔を背けてはいけねぇ。目に焼き付けろ。それはお前の使命だ)
『(死なないで……みんな……っ)』
表に立つ少女の純粋な祈りが、震える声となって紡ぎ出される。
「お父様、みんな……どうか、武勲を。武勲をお祈りいたします」
愛する娘からの祈りを受け、ガルムは獰猛な笑みを浮かべ、胸の前に掲げていた剣を天へと真っ直ぐに突き上げた。
「いくぞ、黒曜の牙の戦士たちよ!」
ガルムの号令に応えるように、数十の喉から絞り出された野太い雄叫びが、一斉に天へと叩きつけられた。空気を震わせ、ベルンの夜空に轟くその声は、死地へ向かう戦士たちの誇り高き咆哮だった。
◆
一方その頃。ベルン領の外縁、東の関所のさらに後方。
王国の紋章を掲げたユベール公爵の本陣でも、北の空を染める異様な土煙と轟音に、幕僚たちが色めき立っていた。
「か、閣下!? て、帝国がなぜ!?」
血相を変えて飛び込んできた側近の悲鳴に、豪奢な椅子に深く腰掛けたユベール公爵は、最高級の赤ワインが入ったグラスをゆっくりと傾けた。
彼の顔には、微塵の驚きもない。それどころか、己の陰湿な罠が完璧な形で実を結ぼうとしていることに、恍惚とした笑みすら浮かべていた。
「騒ぐな。すべては予定通りだよ」
ユベールはワインを一口含み、眼下の地獄絵図を見下ろして目を細める。
「帝国軍が憎きベルンの狂犬どもをすり潰し、互いに疲弊しきったところを我らが包囲するのだよ。そして、ベルン領ごとあの野蛮な帝国兵を余さず火攻めにし、殲滅せよ。……なに、帝国の増援はこんよ」
同胞を売り渡し、さらに結託した相手すらも背後から刺す。その底なしの悪意を隠そうともせず、公爵は懐から精巧な細密画を取り出し、ひどく愛おしげにその表面を撫でた。
そこに描かれているのは、至高の美貌を誇る貴婦人――今は亡き、ベルン領主の妻アデレータだった。
「あぁ、美しき私のアデレータ……。あの薄汚い狂犬に奪われた貴女の無念を、今こそ私が晴らしてさしあげよう。貴女を穢した泥の犬小屋は、今日ですべて燃やし尽くす」
薄暗い陣幕の中、燃え上がるベルンの炎をワイングラスに透かしながら、公爵のねっとりとした、狂気を孕んだ呟きが響く。
「そして……貴女は生まれ変わっている、今度こそ私の腕の中へ迎え入れよう。フフッ、ハハハッ……!」
辺境の男爵領を舞台にした、血塗られた死の盤面。
狂犬たちの命を懸けた抵抗も、帝国の蹂躙も、すべてを利用し尽くそうとする底なしの悪意が、ベルン領を真綿のように締め上げていた。
◆
「ファナ。戦えない者たちをまとめて、東の門から抜けろ。まだ間に合うはずだ」
屋敷の入り口に陣取ったガルムは、背後に控えるファナに短く命じた。
「東にはユベール公爵の軍が展開しております。あちらへ逃げれば……」
「ユベールの狙いは、俺たちベルンを帝国と相討ちにさせて弱ったところを叩く、『国を救った英雄』になることだ。大義名分を重んじる王国の騎士団の目がある以上、無抵抗の領民を無差別に殺すような真似はできない。いまはそれがありがたい」
ファナは静かに頷き、非戦闘民の誘導へと走る。
その後ろ姿を見送るや否や、ガルムは歴戦の凶暴な顔つきで古参たちを振り返った。
「ユベールが帝国と通じている以上、いつもの『サハグの嘲り』は読まれていると思え。北の十字路での迎撃は捨てる!」
「団長、どうする!?」
「車輪が可動するうちにやるぞ! 家屋を動かし、北門からのルートを細い一本道に絞れ! そして、この屋敷の前で扇形に展開して待ち構える! 敵は山越えしてきた歩兵部隊だ。騎馬がいねぇなら、細道から押し出されてきた端からすり潰せる!」
それは、長年の戦場を生き抜いてきた巨狼が瞬時に導き出した、歩兵戦における絶対の処刑陣形だった。
やがて、北の細道から黒い波のように帝国兵が押し寄せてくる。
だが、屋敷の前に展開した『黒曜の牙』の扇形陣形は、まさしく鉄壁にして凶悪そのものだった。
「オラァッ! ベルンを舐めるなよクソどもが!」
アレクの大剣が唸りを上げ、先陣を切って飛び出してきた帝国兵を鎧ごと真っ二つに両断する。
ロッシの斧が的確に敵を断ち、フィンの双剣が血の舞を踊る。狭い通路から押し出されるように姿を現した帝国兵たちは、扇形に待ち構える歴戦の狂犬たちの集中攻撃を浴び、悲鳴を上げる間もなく次々と肉の壁へと変わっていった。
「……すごい」
安全な後方からその光景を目にしていたエルマは、思わず希望の息を漏らした。
数では圧倒的に不利なはずなのに、父たちは一歩も退かない。それどころか、帝国兵の死体が細道を塞ぐバリケードのようになり、完全に戦況を支配しているように見えた。
屋上からは、味方の狙撃隊が細道で身動きの取れない帝国兵に向けて無数の矢を射出している。
しかし、帝国軍は一斉に押し寄せることをやめ、嫌がらせのように少数の波状攻撃を幾度も仕掛けてきていた。
(……この無駄のねぇ、統率。陣形、戦法。既視感あるぜ。気に食わねぇが、綺麗だ)
表に立つ少女が無邪気な希望を抱くその奥底で。
悪鬼は過去を逡巡する。門にたどり着いてからの無駄のない動き。即座に突撃態勢を変えるその柔軟さ。
(嫌な奴を思い出すぜ。リヒト)
ゼノン一家の軍師、リヒト。軍略だけで地位を上げた天才。交易都市ゼネビアではバルバロッサを捨て駒にしたあの非情の軍師。
(仮にあいつだとすると、次はえげつねぇもんが待っている)
エルマの奥底で、悪鬼がその采配に舌打ちをした、まさにその直後だった。
波状攻撃を凌ぎ、狂犬たちの士気が最高潮に達しようとした瞬間――戦場の『静寂』が、頭上から引き裂かれた。
突如、屋上の戦士が吹き飛び、燃え上がる。それは高速で射出された火の球だった。
『え……』
(ああ、そうかよ。火弾槍。完成してやがったのか)




