26.千の夜を超えろ
それから何度か、同じような凄惨な蹂躙劇が迷路の中で繰り返された。
だが、痛い目を見た公爵軍の指揮官たちも流石に学習したのか、アレクの挑発に頭に血を上らせて単細胞に突撃してくる部隊は、回を重ねるごとに少なくなっていった。
開戦から二日目の夕暮れ。
ベルンの街の防衛線は、奇妙な膠着状態に陥っていた。
『こ、これはひとまず喜んでいいんですよね!? 皆、無事です!』
領主の館、薄暗くなり始めた自室のベッドに腰掛けながら、エルマは安堵の息を長く吐き出した。
街の被害は最小限。領民たちに疲労の色は見え始めているが、死者は一人も出ていない。籠城戦としては、これ以上ないほどの戦果だった。
(……上々だな)
胸をなでおろす少女に対し、精神の奥底に座す悪鬼はどこか達観した様子で、短くそう評した。
要塞としてはしっかり機能している。だが、黄金の瞳は盤面をじっと見据えていた。
* * *
同時刻。東の関所の外に張られた公爵軍の本陣。
豪華な天蓋付きの陣幕の中で、前線の指揮官たちがひどく青ざめた顔で軍議を開いていた。
「恐れながら、ユベール公爵閣下……っ! あの反逆のベルン領、異常です! 街路が動き、罠が張り巡らされ、領民どもが狂犬のように襲いかかってきます。これ以上まともに正面から攻め込んでも、我が軍の損害が徒に増えるばかりで……」
悲痛な報告を並べる指揮官たち。
だが、上座の豪奢な椅子に深く腰掛け、酒が入ったグラスを傾けていたユベール公爵は、ひどく退屈そうに目を細めた。
「良い。駒は補充すればよいだけだ。続けよ」
「なっ……!? し、しかし……!」
「相手の戦力は限られているのだろう? ならば、休ませるな。昼間は小出しにして削り殺せ。それが大軍の道理というものだ」
徴発した寄せ集めの兵など、いくら死のうが路傍の石ころが転がる程度の関心すら湧かない。ユベールはグラスのワインを揺らしながら、思考を巡らせる。
(……だが、夜は軍を引け。無駄な夜襲は必要ない。こちらの真の狙いは、奴らの意識を東と南に釘付けにし、疲弊させることなのだからな)
アデレータを取り戻すための、完璧な包囲網。ユベールの濁った瞳の奥で、狂気と陰湿な策謀がべっとりと揺らめいていた。
* * *
開戦から七日。
月雲が厚く垂れ込める深夜。屋敷のバルコニーから夜闇に沈む街を見下ろしていたガルムは、防壁の外で息を殺して死体の処理にあたるアレクたちの姿を捉えていた。
「ほらよっと。身ぐるみ剥がしてやって正解だったな。鎧ごとじゃ重くて敵わん」
「さっさと終わらせるぞ。匂いが染み付きゃ疫病の元だ」
外に放り出しておけば、朝までには血の匂いに飢えた野犬や魔獣たちが死体を自然と消費してくれるはずだ。情を挟む余地のない、極めて合理的な処理であった。
だが、バルコニーのガルムの顔には、濃い疲労と共に、どうしても拭いきれない違和感がべったりと張り付いていた。
(……おかしい。この戦の匂いは、どこかおかしい)
この数日、敵は大軍での突撃を避け、数十人の小部隊を断続的に突入させる削りの戦術に切り替えてきた。物量で小突いて精神力と体力を削り取る、理にかなった動きだ。
だが、傭兵として数々の死線を潜り抜けてきた直感が、警鐘を鳴らし続けている。
兵力の圧倒的有利を活かすなら、夜襲をかけて籠城側を眠らせないのが定石だ。にも関わらず、公爵軍は夜になると決まってピタリと軍を引く。なぜ決定的な一打を撃ち込んでこない?
(まるで、こちらの意識を東と南に釘付けにし、ただ見計らっているような……)
ガルムの背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。
と、同時だった。
突如として、大地を震わせるほどの巨大な『鬨の声』が、静まり返った夜の闇を切り裂いた。
「な……っ!?」
ガルムが弾かれたように手すりに駆け寄り、顔を上げる。
敵が陣取る東(バルデ方面)ではない。南(カインズ方面)でもない。
そこは、安全だと信じ切り、警戒を解いていた死角。険しい天然の要害であるはずの――北のアズガルド山脈の方角だった。
鳴るはずのない方角からの、大軍の雄叫び。
そして、暗黒に沈んでいた北の山肌に、無数の松明の炎が浮かび上がった。それらは瞬く間に繋がり、恐るべき速度で山の斜面を滑り降りる炎の雪崩となって、ベルン領の無防備な背後へと押し寄せてきたのである。
「バ、バカな……! あんな山中から大軍だと!?」
防衛戦の最中、意識の死角を突かれたガルムの絶叫が、夜風に呑み込まれていく。
揺らめく数千の松明の炎に照らし出されたのは、黄金の獅子ではない。二つの手と絡みあった糸の旗印と蒼獅子の旗印――蒼獅子は用いていいのは帝国の皇族だけだ。
「ガルヴェリア帝国……!? 辺境を潰すために国を売ったか! ユベールッ!!」
己の権力闘争のために、あろうことか外敵である帝国軍を山脈越しに引き入れたのだと察したガルム。顔を怒りで歪ませた、血を吐くような咆哮が夜空に木霊する。
* * *
『なんで……敵、が……あそこから……なん、で……?』
自室の窓枠にしがみついたまま、エルマはガタガタと歯の根を鳴らして震えていた。
耳を劈く父の悲痛な絶叫。夜の闇を埋め尽くす数千の松明の炎が、無防備な北の門を容易く突破し、そこから徐々に街の外周を囲むように不気味に広がっていくのが見えた。
怒りに任せて無秩序に突入してきた公爵軍とは違う。
圧倒的な兵力差がありながらも、彼らは決して功を焦らず、まずはベルン領からの退路を完全に断つための強固な包囲網を敷き始めているのだ。それは、一切の隙を持たない真の軍隊による、冷酷なまでの殲滅陣形であった。
(――クククッ、やりやがったぜ! ハッハァ! 最ッ高じゃねぇか!!!)
エルマが絶望に思考を停止させる中、精神の奥底では最凶の悪鬼が歓喜に打ち震えていた。
盤面を根底からひっくり返す、盤外からの理不尽な暴力。自分たちを包囲していた公爵軍すらも、帝国からすれば所詮は「囮」でしかなかったのだ。これこそが戦争。バルバロッサにとって、この絶望的な死地は血沸き肉躍る極上のエンターテインメントに他ならない。
(小娘。いつまでもそこで震えてる場合じゃねぇ。ここにきて待機は悪手だぜ?)
『え……?』
強制的に意識を引き戻すような悪鬼の野太い声が、脳内に響いた。
(あの軍勢は遊びじゃねぇ。ここまできたら、この屋敷の自室だろうが地下だろうが、安全な場所なんてありゃしねぇよ。マーサと、あとそうだな。仲良しのダイナを連れていけ。まずは、指揮官である親父の傍にいるのが一番マシな選択なんじゃねぇか?)
その言葉は、死地に立たされたエルマの生存本能を強烈に刺激した。
ただ待っていれば死ぬ。この絶望的な盤面の中で生き残るには、自ら動かなければならないのだと。
『わ、わかりました……っ!』
エルマは震える両手で自身の頬を強く叩き、気合を入れる。
そして振り返り、顔面を蒼白にさせて部屋の隅で固まっていた侍女のマーサの手を、力強く握りしめた。
「マーサ! ここにいては駄目です。まずは地下へ向かいます!」
「お、お嬢様……!? しかし、旦那様からはここを動くなと――」
「状況が変わりました! 地下に避難しているダイナを連れ出して、一緒に陣のお父様のところへ行きますよ!」
「せ、戦場に!? 正気ですか!?」
戸惑い震えるマーサを半ば強引に引っ張り、エルマは部屋を飛び出した。
冷たい石造りの廊下を駆け抜けながら、少女は強く唇を噛み締める。絶対の安全圏だったはずの地下貯蔵庫すら、もはや大悪党の目には「死地」と映っているのだ。ならば、自らの内側に潜む悪鬼の采配だけを、今は頼るしかなかった。
狂乱の夜。
非戦闘員の待つ地下へと急ぎ、盤面を破壊されたガルムの待つ陣へと、エルマが向かう――。




