21.近すぎる弊害
月明かりすら届かない、底なしの暗闇。
ベルン領から王都へと続く街道の森を、三つの影が這うように進んでいた。
まずはバルデ領だ。あの領内に入りさえすれば、どうにか生き延びられる。
「くそっ……! あの小娘、狂っている! 悪魔だ、あいつは人間の皮を被ったバケモノだッ!」
折れた鼻から滴る血を乱暴に拭いながら、トンパが涙と鼻水に塗れた顔で呪詛を吐き出す。
容赦なく吹き付ける夜風が、下着同然まで身ぐるみ剥がされた肥満体を芯から凍えさせていた。高級な絨毯の上しか歩いたことのない柔らかい足の裏は、尖った石や枯れ枝を踏み抜くたびに裂け、血だらけになっている。
護衛の男二人も、顔面を粉砕された激痛に呻きながら、青ざめた顔で周囲の闇を警戒していた。馬車も武器も、食糧もすべて奪われ、ただの『肉の塊』として夜の森へ放り出されたのだ。
「ええい、とにかく近くの村までどうにか辿り着かねば! こんな丸裸の惨めな格好で、王都へなど戻れるわけが……っ」
「げへへ……おいおい、こんな夜更けに珍しいな」
唐突に前方の漆黒の茂みが揺れ、下卑た笑い声が響いた。
同時に、ツンと鼻を突く獣臭い体臭と、安酒の饐えた匂いが風に乗って漂ってくる。
「ひっ……! 誰だ!」
「ヒヒッ。見ない顔だ。しかも随分と涼しい格好じゃねえか」
暗がりからヌラリと姿を現したのは、汚らしい毛皮を纏い、錆びた鉈や剣を手にした男たちだった。その数、十人以上。辺境を縄張りとする野盗の群れである。
雲が晴れ、月光が彼らの顔を照らし出す。その目は、弱った獲物を値踏みする飢えた獣のそれだった。
「お、お前ら、わしを誰だと思っている! 王都のガストン商会長、トンパだぞ! 助けて王都へ送り届けてくれれば、いくらでも金を――」
「商会長だァ? そんな丸裸でか? ヒャハハハ! 傑作だな!」
野盗たちは、トンパの言葉などハナから信じていなかった。
「まぁいい。こんな辺境だ、鉱山の労働奴隷にでも売り飛ばせば、二束三文にはなるだろうぜ。おい、捕まえろ」
「や、やめろ……来るな! おい、お前ら何をしている! こいつらを……っ!」
トンパが背後の護衛たちに怒鳴る。しかし、武器を取り上げられ、すでにバルバロッサの理不尽な暴力で完全に心をへし折られている大男たちは、多勢に無勢の野盗を前にして無様に腰を抜かすことしかできなかった。
「あ、ぎゃあああああっ!」
夜の森に、醜い豚の悲鳴が木霊する。
権力もルールも届かない無法地帯で、哀れな悪徳商人は文字通り『全て』を失い、労働奴隷という絶望の底へと引きずり込まれていった。
◆
数日後。王都、王城の最奥に位置する豪奢な大部屋。
その広大な空間の壁際や柱の陰には、銀色の重甲冑に身を包んだ数十名の王室騎士が彫像のように立ち並び、純白の制服を着た侍女たちが床に視線を落として控えていた。
だが、これほど大勢の人間がいながら、部屋はむせ返るような強い香の匂いと、ひどく淀んだ死者の墓所のような空気に満ちていた。
カチャ……。カチャ……。
数十人が息を殺す重苦しい沈黙の中、乾いた木の音だけが不気味に響いている。
部屋の中央、最高級の分厚い絨毯の上に座り込んでいるのは、王衣をだらしなく着崩した中年の男だった。彼は焦点の合わないうつろな目で、床に転がった木製の積み木を無意味に弄っている。
彼こそが、この国の頂点に立つ国王。
だが、その瞳に為政者としての正気は微塵も残っていなかった。
「あう……あぁ……」
王の半開きの口から、粘つく涎がツーッと垂れる。
すかさず一番近くに控えていた侍女が滑るように進み出て、絹の布で恭しく王の口元を拭い、再び音もなく壁際へと退いた。騎士も侍女たちも、誰一人としてピクリとも表情を変えない。大国の威信を背負う彼らは、とうの昔に『見ざる、聞かざる』を徹底するだけのただの家具と成り果てていた。
「――陛下。辺境より、由々しき報告が上がってまいりました」
「おかあさまはかってだ。なんでかって? ほら、き、も、つめない。お? ゆーべーるではないか」
積み木遊びに夢中な王の背後から、恭しく声をかけたのは、ガストン商会を裏で操っていたあの公爵だった。
金糸の刺繍が施された漆黒のビロードの外套に、指という指に光を吸い込むような大粒の宝石を嵌め込んだ、権力と欲望を煮詰めたような豪奢な出立ちの男――ユベール公爵である。
数十名の騎士の視線が向けられる中、公爵は悠然と王の背中に向かって、まるでひどく悲しい出来事を語るように言葉を紡ぐ。
「我が国の商人が、国境のベルン男爵領にて略奪に遭いました。商会長は行方不明、物資は全て不当に接収されたとのこと。ベルン家は長年の貧しさから狂気に走ったのでしょう」
「あー……? りゃく……だつ……?」
「はい。生前、亡きカインズ伯爵が遺した報告書にも、あの地はすでに貧困からくる不穏な気配に満ちているとありました。このままでは国境の守りが機能しません」
公爵の言葉の裏にある真実など、この部屋の誰も気にしていない。騎士も侍女も、公爵が堂々と嘘をついていることなど百も承知だ。だが、この国で彼に逆らえる者など一人もいない。
当の国王は公爵の話などまったく聞いておらず、麻痺したように強張る不自由な指先で、ひたすら積み木を乗せようとしては崩し、幼児のようにキャッキャと無邪気な奇声を漏らしているだけだ。
「……陛下。これ以上、辺境の混乱を放置すれば王都にまで被害が及びます。どうか、国境一帯の管理権限と、治安維持の『全権』を私に委ねていただきたく存じます」
「んぁ……? う、うむ……よきに……はからえ……おちちうえはすべりおちる、つるのした」
「はっ。ありがたき幸せ」
積み木を崩して笑う傀儡の王に向かって、公爵は深く、深く頭を下げた。
その顔には、隠しきれない邪悪な歓喜の笑みが張り付いている。
(……これで、煩わしい国軍の介入を大義名分をもって阻むことができる。私が全権を握った国境一帯を、私の自由に『掃除』してやればいい)
全ては盤上の上。
公爵はゆっくりと立ち上がると、懐から古びた豪奢な銀の懐中時計を取り出した。その蓋を開けると、そこには若き日の美しい女性――アデレータの細密画が嵌め込まれている。
公爵の指先が、何十人もの部下が見ている前で、狂おしいほどの熱をもってその絵の表面をなぞった。
(アデレータ……ああ、愛しの私の花。もうすぐ君を迎えにいくよ)
暗愚な王の狂った笑い声と、無関心を貫く騎士たちの沈黙の裏で、恐るべき軍靴の足音が、ついにベルン領の背後まで迫ろうとしていた。




