22.悪党の盤面
ベルン男爵領、領主の館の前。
数日間にわたる国境の村々の視察と警戒指示を終え、ガルム・ベルンは愛馬から降り立った。元傭兵団長である彼にとって、数日馬に揺られる程度の疲労など無に等しい。だが、その顔には隠しきれない重苦しい影が落ちていた。
カインズ伯爵の死により、辺境の流通は間違いなく混乱する。ただでさえ貧しいベルン領だ。そこに王都の強欲なガストン商会が足元を見て、物資の供給を絶つか、法外な値上げを要求してくるのは火を見るより明らかだった。
領民たちをどう食わせるか。そして何より、愛する一人娘にどれほどの不自由を強いることになるのか。
「……すまない、エルマ。不甲斐ない父を許してくれ……」
ガルムは誰に聞こえるでもなくポツリと呟き、重い足取りで屋敷の扉を開けた。
「旦那様! お帰りなさいませ!」
「お父様……っ、おかえりなさい……」
エントランスに出迎えに来たのは、メイドのマーサと、愛娘のエルマだった。
ガルムはエルマの顔を見るなり、片膝をついてその小さな肩を両手で包み込んだ。悲壮な覚悟に満ちた、熱い瞳で見つめる。
「エルマ……留守にしてすまなかった。お前に、一つ謝らねばならないことがある」
「えっ……? 謝る、ですか……?」
「ああ。カインズ伯爵が死んだ影響で、しばらく領内の物資が滞るかもしれん。お前には貧しい思いをさせるが、どうか耐えてくれ。私が必ず、なんとかしてみせるから」
愛する娘を安心させるように、力強く頷く。
だが、その言葉を聞いた瞬間。なぜかエルマは顔面を蒼白にし、お腹のあたりを両手でギュッと押さえてプルプルと震え始めた。
「お、お父様……あの、それは、その……」
「お嬢様? どうされました、また胃がお痛みですか?」
「だ、大丈夫です……」
マーサが心配そうに覗き込むが、エルマは引きつった笑みを浮かべる。
「お父様、えっと、その、物資のことなら、あまり心配しなくても……」
「心配するなだと? 何を言っている。備蓄の麦はもう底をつきかけているし、武器の数も全く足りていないのだぞ。いくらお前が気丈に振る舞っても、現実は――」
「おお、ガルム! 戻ったか!」
ガルムの言葉を遮るように、中庭の方からアレクが足音荒くやってきた。その顔には、隠しきれないニヤニヤとした笑みが浮かんでいる。
「アレク。留守番ご苦労だったな。なんだその顔は」
「いやぁ、心配するようなこたぁ何もないぜ。とりあえず、中庭の第一倉庫に来てくれよ」
アレクに促され、いぶかしげに中庭へと向かうガルム。そして、アレクが勢いよく倉庫の重い扉をガラガラと開け放った。
「見ろよ、この備蓄! 当面はまったく問題ねえ!」
「なにをごちゃごちゃと……ん?」
ガルムの目が、倉庫の中を捉える。
そこに広がっていたのは、ベルン家の貧相な倉庫には絶対にあり得ない光景だった。
倉庫の半分を埋め尽くすほどの、麻袋に入った大量の麦。
錆止めの油がしっかりと塗られた、実戦用の業物(長剣や槍)の数々。
さらに、革鎧や鉄兜といった防具類までもが、所狭しと並べられているではないか。
「…………は?」
ガルムは文字通り、目を白黒させた。
二度、三度と瞬きをし、自分の目をこする。だが、幻ではない。目の前には、小規模な部隊を当面維持できるほどの大量の物資が存在している。
「なっ……!? な、なんだこれは!? こ、これほどの物資、一体どこから……!? お前たち、私が留守の間にどこの村を略奪してきたんだ!?」
あまりの事態に、ガルムの口から領主らしからぬ叫び声が飛び出した。
「ハハッ、略奪だなんて人聞きが悪ィ。馬引きの連中ごとあの豚をふん縛って、正当な慰謝料として置いていかせたんですよ」
「あの……お父様……。ガ、ガストン商会の方がいらっしゃいまして……」
ガルムが振り返ると、エルマが胃を押さえて今にも泣き出しそうな顔でうずくまっていた。
「トンパ商会長がか!? あの強欲な豚が、これほどの物資をタダで置いていったとでも言うのか!?」
「そ、それが……私に色々とご迷惑をおかけしたからと……お詫びとして置いていかれました……。じょ、譲渡書も、あります……」
震える手で、エルマが羊皮紙を差し出す。
そこには確かに『私、トンパの不始末の詫びとして、持参した武具と麦をすべてベルン家に無償で譲渡します』という一文と、トンパの血文字(本物の血)のような痛ましいサインが記されていた。
「不始末の詫び……? 一体どんな不始末をすれば、こんな物資を丸ごと譲渡することになるのだ……? このサイン、なぜか赤黒いし……」
「ひぐっ……うぅぅ……」
ついに胃痛と罪悪感が限界を突破し、その場にしゃがみ込んでむせび泣き始めるエルマ。ガルムは「商人に酷い嫌がらせでもされたのか!?」と慌てて娘の背中をさすり始めた。
「エルマ!? エルマ!? なぜ泣いているんだ!?」
慌てふためく中、不意にエルマの身体がピクリと震えた。
スッ、と。しゃがみ込んでいた少女がゆっくりと顔を上げ、涙で濡れた瞳で父親を見つめ返す。
「うれし泣き……です。お父様。エルマはがんばりました」
こてんと小さく首を傾げ、可憐な花が綻ぶように、ふわりと微笑む。
あまりにも愛らしい、非の打ち所がない健気な娘の姿。
だが――それを見た瞬間、歴戦の傭兵であるガルムの背筋を、氷のような悪寒が撫でた。完璧すぎる笑顔の奥にある瞳が、まるで硝子玉のように一切の温度を失っているように見えたのだ。
「……っ」
ガルムは、ほんの一瞬だけ息を呑んだ。
だが、そのコンマ数秒の硬直は、瞬時に掻き消される。愛娘を疑うなど親としてあるまじきことだと、己の直感を強引にねじ伏せたのだ。
「おお……! そうか、そうか……っ!」
ガルムは感極まったように、愛娘をその太い腕で力強く抱きしめた。
「怖かっただろうに……お前は本当に強い子だ。よくこのベルンを守り抜いてくれた!」
「ええ、ええ! お嬢様は本当に、ご立派でした……っ!」
「まったく、大したお嬢だぜ」
涙ぐむマーサと、鼻をすするアレク。
心温まる領主一家の感動的な光景の中。
* * *
(ブフッ! ヒャハハハハハハッ!! おい見ろよ小娘! ガルムのツラ、最高に傑作だなァ!)
親父の分厚い胸に抱かれながら、悪鬼は腹を抱えて大笑いしていた。
すべてが美談として処理されていくこの喜劇。
『あぁ! 勝手に!?』
脳内で喚き散らす小娘のパニックをよそに、悪鬼は計算し尽くされた健気な愛娘の演技を完璧にこなしてのける。
(盤面は揃ってきている。綺麗だ。とっても綺麗だぜ! ……クハハハ、ハーッハッハッハッハッ!!)
これから始まる血みどろの狂宴を思い描き、大悪党は極上の歓喜に酔いしれるのであった。




