16.鉄屑の使い道
カインズ伯爵の辺境拠点までは、馬を飛ばして約一日の距離がある。
怒りに任せて飛び出したガルムだったが、愛馬ティッタの背で前に乗せた愛娘を気遣い、その疾走は風を切るように速く、かつ揺り籠のように優しかった。
その夜。拠点まであと少しという森の中で、二人はささやかな野営の焚き火を囲んでいた。
「寒くはないか、エルマ」
ガルムが自身の分厚いマントを娘の肩に掛けながら、焚き火に薪をくべる。
「はい、お父様。温かいです。……でも、お父様、良かったのですか? ベルン領は……」
「心配するな。留守はアレクがやってくれるさ」
ガルムが豪快に笑い、太い腕を組む。その揺るぎない態度と、パチパチと爆ぜる焚き火の暖かさに、エルマはほっと胸をなでおろした。
炎を挟んで向かい側に座る、父の大きな身体。与えられたマントをぎゅっと握りしめると、もっとその安心感のそばに行きたくなる。
「お父様、そちらに行っても良いですか?」
「うむ……」
隣にちょこんと座ってきた娘の肩を抱き寄せ、ガルムは目を細める。
「久しぶりだな。お前とこうして二人で野営をするなど」
燃え上がる炎を見つめながら、ガルムはひどく穏やかな、父親の顔になっていた。燃え盛っていた殺意は、娘の温もりを感じたことで幾分か鳴りを潜め、研ぎ澄まされた静かな怒りへと変わっている。
「……お父様?」
父とマントに包まれたエルマが、小首を傾げて口を開く。
「昔の、傭兵団のお話を聞きたいです」
「ん? ほう……お前が戦の話に興味を持ち始めるとはな」
目を丸くするガルム。彼がかつて大陸に名を轟かせた凄腕の傭兵団の長であったことは周知の事実だが、箱入り娘のエルマが自らその話題を振るのは珍しかった。
(……ふん。『黒曜の牙』か。規律を重んじ、武の力で大陸中の戦場を駆け巡った傭兵団。そういえば、あいつら強かったな。突然名前を聞かなくなったと思ったら、トップがこんな辺境で領主のマネ事をしてたってわけか。……どうりで、あの領地の連中が揃いも揃って肝が据わってるはずだ)
エルマの脳内で、悪鬼が合点がいったように鼻で嗤う。
バルバロッサにとって、ガルムの戦闘力と、ベルン領の特異な空気感が、これで完全に腑に落ちた。
「お前にはあまり詳しく話したことはなかったな。あの頃の私は、ただ己の剣の腕と、信頼できる仲間たち――今のベルン領にいる連中と共に、大陸中の戦場を渡り歩いていた」
ガルムは懐かしむように目を細める。
「どこの国にも属さず、ただ『武』のみを誇りとした時代だった。だがな、ある契約先の侯爵家の館で、一人のうら若き令嬢の護衛についたのだ」
「それが、お母様……ですね?」
「ああ」
巨狼が、ひどくバツの悪そうな顔で頭を掻く。
「あれほど恐ろしい生き物を、私は他に知らない。館で私の戦いぶりを見た彼女は、あろうことか私を指差し『貴方を私の夫にします』と宣言したのだ。身分が違いすぎる。私は丁重に断り、任期を終えて逃げるように館を去ったのだが……彼女は一軍を率いて、私を地の果てまで追いかけてきてな。……結局、文字通り『とっ捕まった』というわけだ」
「ふふっ、お母様らしいです」
あの夢の中の母が鮮明に浮かび上がってくる。
「お前のその可憐さと、内に秘めた芯の強さは、あの人から受け継いだものだ。だからこそ、私にとってお前は命に代えても守り抜くべき宝なのだよ」
ガルムは愛おしそうに娘の頭を撫でると、明日の決戦に向けて静かに目を閉じた。
――翌日。
太陽が高く昇る頃、二人が乗る馬は、ついにカインズ伯爵軍の辺境拠点へと辿り着いた。
娘との穏やかな夜を過ごし、幾分か冷静さを取り戻していたガルムの腰には、使い込まれた己の剣が静かに吊るされている。
門前には、伯爵の私兵たちが立ち並んでいた。ガルムは厳しい表情を作り、どのような敵意が向けられようとも、愛娘を守りながら正面突破する覚悟を固める。
「……私がオルディス王国、ベルン男爵ガルムである! 貴様らの将を――」
怒号と共に名乗りを上げようとしたガルムの目の前で、信じられない光景が広がった。
チャッ、と一糸乱れぬ金属音が鳴る。
門を守っていた数十人の私兵たちが、一斉に剣を抜き、それを胸の前に掲げて『最上級の騎士の礼』をとったのだ。
しかも、彼らの視線はガルムではなく、馬上の『エルマ』に釘付けになっている。その瞳に宿っているのは恐怖ではない。過酷な拷問(死闘)の後に、甲斐甲斐しく手当てをしてくれた彼女に対する、一種の『崇拝』に近い熱烈な光だった。そして、どことなくほぼ全員の体のバランスがおかしい。まだ傷が癒えていないのだ。
「ベ、ベルン男爵殿! そして……おお、慈悲深きエルマ様! よくぞお越しくださいました!!」
門兵の代表が、まるで聖女を迎え入れる信徒のように、目を輝かせて恭しく頭を下げる。
「…………ん?」
殺気立っていたガルムは、完全に虚を突かれて瞬きを繰り返した。
「……うむ?」
予想外すぎる大歓迎。
怒りのやり場を完全に失い、素っ頓狂な声を漏らす無敵の父の腕の中で、エルマ(バルバロッサ)だけが、誰にも見えないように三日月型の邪悪な笑みを浮かべていたのだった。
異様な歓迎を受けながら、ガルムとエルマは伯爵軍の辺境拠点の奥、応接間へと通された。
部屋の中央に立っていたのは、カインズ伯爵軍の部隊長ザイードだった。
娘の足に巻かれた痛々しい包帯(※自爆)のことで頭がいっぱいのガルムは、エントランスでの困惑を強引に振り払い、無敵の巨狼の咆哮と共にザイードへと歩み寄った。
「貴様が……! 我が領地を荒らし、あろうことか娘の足に傷を負わせた罪……万死に値する!!」
怒りのままに踏み込み、ガルムはザイードの胸ぐらを太い腕で乱暴に掴み上げる。
ギリリと布が鳴り、屈強な騎士の身体が容易く宙に浮いた。だが――。
「……よくぞお越しくださった。我が主の父君よ」
「……は? 何を言っている?」
胸ぐらを掴み上げられ、今にも首の骨をへし折られそうになっているにも関わらず、ザイードの瞳に恐怖は微塵もなかった。
彼の身体にある傷といえば、包帯のまかれている片方の手首くらいのものだ。五体満足の屈強な武人であるはずの彼が、なぜか脂汗を流しながら、ガルムの怒れる顔を完全に通り越し、その後ろで可憐に微笑む『エルマ』ただ一人にのみ、熱を帯びた狂信の視線を向けていたのである。
「心配めされるな、ベルン男爵。我が使命は重々承知である」
宙吊りのまま、ザイードはひどく穏やかな、殉教者のような顔で厳かに告げた。
「私はこれより王都へ戻り、カインズ伯爵へこう報告するつもりだ。『ベルン領へ赴いたものの、奴らは泣き叫んで許しを懇願し、この金貨を差し出して免じてくれと泣きついてきた』と」
そう言ってザイードが顎で示したテーブルの上には、麻袋に詰められた大量の金貨が積まれていた。
「……な、なんだと? 誇り高き我がベルンの民が泣き叫んで命乞いをしただと? それに貴様、伯爵の命に背いて嘘の報告をするというのか?」
手首を庇っているだけのほぼ無傷な敵将が、ベルンを貶めるような虚偽の報告を、なぜか『身を挺した完璧な隠蔽工作』とでも言わんばかりの得意げな顔で提案してくる。
予想だにしなかった全面降伏と、あまりにも辻褄の合わない狂人の態度に、ガルムの殺意は完全に行き場を失って空回りし始めた。
そこに、完璧なタイミングで天使の声が降ってきた。
「お父様。ザイード様が、そのように取り計らってくれると仰ってくださったのです」
『ちょ、ちょっと! バルバロッサさん!』
勝手に甘い声を出して動く自分の身体に、エルマの本来の意識が脳内でパニックを起こして悲鳴を上げる。しかし身体は止まらず、エルマはトテトテと歩み寄り、ガルムの太い腕にそっと両手を添えた。
「ザイード様は、私たちの痛みがわかる、とても『理解のある』方ですから」
『また! 適当なことを!』
「う……うーむ?」
愛娘の言葉に、ガルムは完全に毒気を抜かれてザイードを床に下ろした。
怒り狂ってカチコミに来たはずが、なぜか自分を「主の父」と崇められ、大金まで用意してこちらの都合の良いように(しかもベルンの名誉を傷つける妙な嘘で)立ち回ると約束している。
歴戦の傭兵であるガルムの常識では全く処理しきれない不気味な事態だったが、可愛い娘がそう言うのであれば、これ以上剣を抜く理由もなかった。
「……釈然とせんな。だが、貴様がそこまで言うなら、今回の件は不問にしてやろう。二度とベルンの土を踏むな」
「はっ。寛大なご処置、痛み入ります」
乱れた乱れた乱れた襟を直したザイードが、深々と頭を下げる。
「それでは、帰るぞエルマ」
狐につままれたような顔で、ガルムが応接間を後にしようと背を向けた、その時。
エルマは父の後を追う直前、すれ違いざまにピタリとザイードの横で足を止めた。そして、誰にも聞こえないほどの小さな声で、彼の耳元に甘く、恐ろしい毒を囁いた。
「――あなたのすべきこと。私が喜ぶことを『第一』になさいな」
ビクンッ、と。ザイードの巨体が、歓喜と恐怖で大きく跳ねる。振り返ることなく立ち去る少女の背中を、手首を庇いながらザイードは恍惚とした瞳で見送り、静かに、そして狂気的にその場に平伏したのだった。




