17.悪党の製錬術
カインズ伯爵軍の辺境拠点を後にしたガルムとエルマは、愛馬ティッタの背に揺られながらベルン領への帰路についていた。
行きとは違い、急ぐ必要のない穏やかな足取りである。しかし、手綱を握るガルムは未だに狐につままれたような顔で、何度目かの渋面を作った。
「……やはり、どうにも釈然とせんな」
ポツリとこぼした父の呟きに、前に乗せられたエルマが振り返って小首を傾げる。
(代われ)
瞬きを一つ。ほんの一瞬だけ、その瞳の奥で冷たい光が入れ替わる。
「何がですか、お父様」
「あのザイードという男だ」
ガルムは忌々しそうに息を吐き出し、遠くの森へと視線を彷徨わせた。
「手首を庇ってはいたが、五体満足の屈強な武人だった。それが私を主の父などと呼び、あまつさえ大金まで差し出して伯爵に嘘の報告をすると自ら提案してきた。……うまく言葉にできん。奇妙なものをみたのだ。そんな気分だ」
「ふふっ。きっと、お父様の凄まじい武勇に恐れをなして、すっかり怯えてしまったのですよ」
淀みなく、エルマが花の咲くような無邪気な笑顔を向ける。その愛らしさに、ガルムは一瞬顔をしかめたのち、「う、うーむ。そういうものか……?」と首を捻りながらも、あっさりと毒気を抜かれてしまった。
戦士としての直感が警鐘を鳴らしているのか、ガルムは何度か渋面を作った。だが、エルマが満足そうに微笑んでみせると、やがて『これ以上、野暮な勘繰りをする必要もないだろう』とでも言うように、安堵の息を吐いてエルマの頭を優しく撫でてやるのだった。
(……ククッ。人を信じる、拠り所にするってな、自分を蔑ろにする弱者の思考だぜ。だから、付け込めるんだ。ザイード、お前は鉄屑からせめて投げナイフくらいには役立ってくれや)
平和な風が吹く辺境の森。無敵の親バカの温かい腕の中で、エルマの顔をした悪魔だけが、誰にも気づかれないよう三日月型の邪悪な笑みを深めていた。
* * *
王都、カインズ伯爵邸の執務室。
豪奢なテーブルの上には、ザイードが持ち帰った金貨がぶちまけられていた。
「くはははっ! 見ろザイード、やはり辺境の田舎貴族など我が武威の前には赤子同然よ! 泣いて命乞いをした挙句、予想以上の金をよこすではないか!」
カインズ伯爵は黄金の輝きに目を細め、下卑た笑い声を上げている。
「ええ。仰る通りでございます、閣下」
対するザイードは、主君の歓喜に同調するでもなく、ただ空洞のような声で短く応えた。
「だがな、ザイード? 聞いておるぞ? 貴様、私の兵を傷物にしたというではないか?」
ふいに、カインズのいやらしい笑みが消えた。手の中の金貨を乱暴に机へ落とし、見下すような冷たい視線がザイードに向けられる。
ベルン領の連中が無抵抗で金を差し出したという報告と、帰還した兵たちが負っていた不気味な怪我の数々。その明らかな矛盾が、伯爵のちっぽけな自尊心をひどく逆撫でしていた。
「はっ。申し訳ありません。道中、大規模な盗賊団に襲われまして」
「言い訳がましいわ! この無能のゴミくずが!!」
激高したカインズは、傍らに立てかけてあった木製の硬い杖を掴み取ると、ザイードの肩や背中へと滅茶苦茶に打ち据えた。
硬質な木が厚い肉を打つ鈍い音が、執務室に幾度も響き渡る。
「盗賊ごときに後れを取りおって! 我がカインズ軍の面汚しめ!」
怒りで顔を真っ赤に紅潮させ、唾を飛ばしながら何度も杖を振り下ろす伯爵。
しかし、打たれるザイードは痛みを堪える素振りすら見せない。ただ静かに、彫像のように無表情のまま、その理不尽な暴力を甘んじて受け入れていた。
(……あぁ、やはり間違いなどではなかった。私の仕えるべきはあの戦乙女の化身)
打撃の痛みなど、彼には届いていない。
『――あなたのすべきこと。私が喜ぶことを「第一」になさいな』
(はい。私の仕えるべき至高の戦乙女よ)
杖が折れんばかりの勢いで振り下ろされる中、ザイードは無表情のまま、静かに伯爵の背後へと歩み寄った。
腰にある己の剣の柄に、そっと手をかける。
「ふん。だから下級民は……」
伯爵が息を切らせ、杖を持つ手を止めた、その瞬間。
肉を裂く、ひどく生々しい感触と共に。
伯爵の背中から、冷たい剣の切っ先が突き出した。
「……あ、が……?」
何が起きたのか理解できないまま、カインズ伯爵はごぼりと血を吐き、机の上の金貨に突っ伏して絶命した。
「スフィーリア様はおっしゃったのです。我が誇りにかけ、自身の命を全うするものこそ、即ち戦士の心と」
滴り落ちる血の音が響く静寂の中。
主君を背後から串刺しにしたザイードの顔に、後悔や焦りはなかった。
彼は血に濡れた剣を引き抜くと、まるで教会の祭壇に膝をつくように、その場に崩れ落ちた。そして、天井の美しいシャンデリアを見上げながら、脂汗に塗れた顔をこれ以上ないほどの歓喜と恍惚に歪ませる。
「美しくも、猛き、そして流麗なスフィーリア」
「何事ですか!? 伯爵様!!」
只ならぬ物音と血の匂いを嗅ぎつけ、扉を蹴破って数人の護衛騎士が執務室へと飛び込んできた。だが――。
「……ああ、我が戦乙女。我が武威はここにて仕舞い給う」
ザイードの目にはもう、血の海に沈む執務室の光景など映っていない。ただひたすらに、自分を見下ろしていた、美しくも恐ろしい黄金の瞳だけを幻視していた。
「現世でのあなたの命を、今ここに全ういたしました……ッ! ああ、天界の貴女様のもとへ、私はいま馳せ参じます」
踏み込んできた騎士たちの首を、流れるような絶技で即座に刎ね飛ばし、ザイードは狂ったような笑い声を上げながら、血に濡れた剣を逆手に持ち直す。
そして、躊躇いなく、その刃を己の首筋に深く、深く突き立てた。
辺境の要となる権力者と、その忠実な騎士。
悪鬼の狙いすました『毒』は、王都のど真ん中で二人の男の命を理不尽に刈り取った。
* * *
カインズ伯爵の凄惨な死。
狂気によって彩られたその訃報は、瞬く間に王都中へと知れ渡った。
「カインズの豚が死んだか。……やはり、辺境は田舎者の分際で、少々吠えすぎたようだな」
王城の奥深く、薄暗い執務室。
豪奢な衣服に宝飾品を身に着けた男が、手元のワイングラスを揺らしながら冷ややかに呟いた。
「ええ、閣下。カインズ伯爵は、大国ガルヴェリア帝国との国境である『アズガルド山脈』の守りの要でしたからな。……奴が死んだ今、あの辺境は文字通り、首の皮一枚で繋がっているようなものです」
影に潜むように控えていた恰幅の良い別の男が、脂ぎった顔を歪めて揉み手をしながら歩み出た。
「アズガルド山脈は万年雪に覆われた断罪の白嶺。ですが、大軍が通れる唯一の峠道が、あのカインズが管理していたベルン領のすぐ傍にあるのですから」
「……そうか。防波堤のまとめ役が消えたとなれば、あの土地はこれから、さぞかし魑魅魍魎で溢れ返ることであろう」
男はワインを口に含み、ゆっくりと喉を鳴らした。
そして、机の上に伏せられていた一枚の肖像画へと指を滑らせる。
「アデレータ姫よ。時は、もうすぐ成れり」
男の濁った瞳の奥で、底知れぬ妄執の炎がべっとりと揺らめいていた。




