15.巨狼の疾駆
――エルマが屋敷で忌まわしき『死闘』を繰り広げてから数日後。王都、オルディス王城にて。
「マーサ……よくぞ知らせてくれた」
豪奢な大理石の回廊。長きにわたって不自然なほど待たされていた国王への謁見をようやく終えたガルムは、疲労の色も見せず、駆けつけた忠実なメイドの肩を力強く叩いた。
「旦那様……。カインズ伯爵の軍勢が、我が領地に。お嬢様がご心配です……っ」
息を切らし、今にも泣き出しそうなマーサの報告を聞き、ガルムの瞳に獰猛な光と、深い焦燥が入り混じる。
「ああ。今すぐ領地へ帰還する。愛馬を牽け」
ガルムの決断は即座だった。
本来であれば、ここは王都。軍を勝手に動かしたカインズ伯爵も今、この同じ王都の屋敷に滞在しているのだ。真っ先にカインズの元へ乗り込み、その非道を王家の前で徹底的に糾弾し、政治的に縛り上げるのが貴族としての『正解』である。
だが、今のガルムの頭の中には、愛する娘の姿しかなかった。そして何より、今の段階ではカインズを糾弾する決定的な証拠が何もない。
(エルマ……! 私の可愛い妖精が、震えて泣いているかもしれない。一刻も早く、この腕で抱きしめてやらねば……ッ!)
愛娘の安否。その一点のみが、歴戦の勇士であるガルムから冷静な判断力を完全に奪い去っていた。政治の駆け引きなど、後回しで構わない。
「旦那様、私は後ほど合流いたします。今はいち早くエルマ様のもとへ……」
恭しく頭を下げるマーサに対し、ガルムは鷹揚に頷いた。
「うむ。辺境から王都まで、不眠不休で馬を飛ばしてくれたのだろう。泥だらけではないか。本当にご苦労だった」
ガルムは己のマントを翻すと、長年ベルン家に仕えてくれたメイドへ、心からの労いの言葉をかける。
「王都の宿で数日、ゆっくりと身体を休めてから出立しなさい。領地のことは心配いらん。私の可愛いエルマは、このガルムが必ず守り抜く!」
その言葉には、ただ純粋な感謝と、身内に対する深い慈愛だけが込められていた。
――数刻後。
王都の巨大な正門を、一騎の馬が猛然と駆け抜けていった。
「行くぞ、ティッタ! 限界まで飛ばしてくれ!」
ベルン男爵ガルムは、愛馬ティッタの首筋に身を伏せ、血を吐くような声で手綱を握りしめた。
石畳を蹴り砕かんばかりの蹄の音が、暮れなずむ王都の空に響き渡る。振り返ることはしない。王都に残したマーサの様子など、今の彼の頭には微塵もよぎることはなかった。ただひたすらに、愛する娘が待つ辺境の領地へと心を飛ばす。
(どうか……っ! エルマが無事でありますように!)
風を切り裂きながら、ガルムは己が学んだ神々へ、悲痛な祈りを捧げた。
「軍神ドラグよ! 力の女神アーティアよ! どうか……っ、どうか私の娘をお守りください!!」
ガルムは曲がりなりにも貴族である。大陸に伝わる神話の教養は備えていたが、辺境に生きる戦士として、戦術に神の名を借りることはあれど、決して神頼みなどする男ではなかった。
だが、己の剣が届かない絶望的な距離が、屈強な戦士に祈りを強要する。娘の無事を願う親の叫びは、冷たい風に掻き消され、誰の耳にも届くことはない。
「行くぞ、ティッタ! 限界まで飛ばしてくれ!」
道中、単騎の彼を獲物と定めた盗賊団が森から立ち塞がる。
だが、ガルムは馬の足を一歩たりとも緩めることはなかった。手綱を片手で操り、すれ違いざまに馬上から放たれる無造作な剣戟一閃。
ただそれだけで、凶悪な盗賊たちは悲鳴を上げる間もなく、真っ二つの血飛沫へと変わった。暴風のような男爵の進路から、幸運にも数歩逸れていた者だけが、泥に塗れて命を拾う有様だ。
また数刻後には、ベルドーナと呼ばれる危険度の高い一つ目の巨躯の魔物と遭遇した。だが、ガルムはそれすら一瞥もせず、馬の突進の勢いそのままに、その巨大な目玉へ渾身の拳を深々とめり込ませて『圧殺』した。
そんな理不尽な蹂躙が数度。夜が更けても彼は走り続ける。
今の彼を止めることなど、この大陸の何者にもできはしない。
王都を出立して数日後。
不眠不休で馬を飛ばしたガルムは、ついに愛娘が待つベルン領の入り口へと辿り着いた。
「お! ガルムの旦那! お嬢が凄かったんスよ――」
「エルマ……っ!! 今、父が――ッ!!」
丁度、領民のための肉を調達して歩いていた狂犬の長、アレクが朗らかに声をかけた。
しかし、血走った目で愛娘の無事しか見えていないガルムの耳に、その声は届かない。「おーい」と肉を振るアレクの横を、凄まじい風圧と共に巨狼は文字通り素通りしていった。
悲痛な叫びと共に領地へ飛び込んだガルムだったが、そこで彼の目に飛び込んできたのは、予想だにしない光景だった。
「……ん?」
領民たちは、いつも通りののどかな様子で立ち話をしている。
町並みには火の手ひとつ上がっておらず、平和な昼下がりの空気が漂っていた。カインズ軍の軍靴に踏みにじられた凄惨な地獄を想像していたガルムは、完全に拍子抜けして手綱を引いた。
(どういうことだ……? カインズ伯爵の軍勢が迫っていたはずでは……?)
疑問符を浮かべながらも、ガルムは一目散に己の屋敷へと駆け込む。
エントランスの重い扉を蹴り開けるように飛び込むと、そこには見慣れた愛娘の姿があった。
「あ……お父様! おかえりなさいませ!」
応接間からひょっこりと顔を出したエルマ。
いつものように可憐で、無垢な妖精のような微笑み。その顔を見て、ガルムは膝から崩れ落ちそうになるほどの安堵を覚えた。
「おお……エルマ! 私の天使! 無事であったか!!」
ガルムは愛娘を強く抱きしめようと駆け寄る。
だが、その瞬間。歴戦の戦士である彼の鋭敏な嗅覚と観察眼が、屋敷内の『異変』を鋭く察知した。
(……血の匂いが、微かに残っている?)
「……は?」
ガルムの視線が、応接間の中央に置かれた頑丈なオーク材の机に向けられる。
本来なら傷ひとつないはずのその分厚い机は、無惨にひび割れ、中心がす大きく歪んでいた。
(まさか……ッ!)
さらにガルムの目を釘付けにしたのは、駆け寄ってきたエルマの『足』だった。
可憐なドレスの裾から覗く、彼女の細く白い足首の上。そこには、痛々しくも真っ白な包帯が幾重にも巻かれている。
――ザイードを恐喝した際、彼女自身が机を全力で蹴り飛ばした反動の打撲である。
だが、そんな真実を知る由もないガルムの脳内で、点と点が最悪の形で結びついた。
(……ああ、なんてことだ。私の不在を狙って、伯爵の犬どもが屋敷に押し入ったのだ。そして、この机の凄惨な破壊痕……! 私の可愛い妖精が、非力な足で必死にこの机を蹴り飛ばして盾にし、あの野蛮な騎士どもから領民を……私がいればさせなかったであろう血みどろの『死闘』を、たった一人で演じたというのか……ッ!!)
ガルムの屈強な身体が、怒りと、娘への申し訳なさと、その健気な戦士としての覚醒への感動で、ガタガタと震え始める。
「……エルマ。その包帯……痛かったろう。怖かったろう……。すまない、私がそばにいなかったばかりに……っ!!」
「えっ……? お父様、これ、もう痛みが引いてきて、そんなに痛くないです……」
「何も言うな……! よくぞ、ベルンの『巨狼』の娘として、誇り高く戦い抜いてくれた! 後は……後は、この父に任せておきなさい!!」
エルマが困惑して何かを言いかける前に、ガルムの怒髪天を衝く怒りは、完全に臨界点を突破していた。
愛娘の白い肌に包帯を巻かせたカインズ軍への途方もない殺意が、屋敷の空気を文字通り凍りつかせる。
「……カインズの豚どもめ。我が愛娘の足に『傷』をつけた罪……。万死に値する!! 万死だァァァッ!!!」
街中にまで響き渡るような、巨狼の咆哮。
ガルムは腰の剣をへし折らんばかりの力で強く握り直すと、エルマの制止も聞かずに屋敷を飛び出し、休ませる間もなく愛馬ティッタに跨った。
「カインズの辺境拠点へ向かう! あの犬ども、一人残らずこの手で八つ裂きにしてくれるわ!!」
「お、お父様!?」
激昂し、単騎で駆け出そうとする父の広大な背中。
慌てて止めようとしたエルマの脳内で、特等席の悪魔が面白がるように囁いた。
(ほれ、小娘。ここだ)
「エ、エルマも連れて行ってください!」
「う、うむ?」
突然の申し出に、血走っていたガルムの動きがピタリと止まる。
「お父様のかっこいい姿を、目に焼き付けておきたいのです……」
「今すぐ行くぞ!!」
最愛の娘の『痛ましい戦傷(ただの自爆)』と、悪魔が入れ知恵した殺し文句に激昂と歓喜を爆発させたベルンの巨狼は、愛しい娘をひょいと馬に乗せると、ザイードたちが逃げ帰ったはずの辺境拠点へとカチコミをかけるべく、再び猛然と馬を走らせたのだった。




