14.無垢なるノブレス・オブリージュ
――数十分後。屋敷の扉が押し開かれ、エルマとザイードが揃って屋敷から姿を現した。その瞬間、広場の空気が凍りついた。
エルマから放たれる、有無を言わせぬ絶対的な「捕食者」の気配。眼下の広場に横たわる兵士たちは、ただでさえ動かない身体が、さらに鉛のように重くなったような錯覚に陥った。彼らは呻き声すら上げられず、得体の知れない恐怖にただ目を見開く。
完全に無力化された三百のカインズ軍。そして、それを囲むように、一切の傷を負っていないベルンの狂犬たちが獰猛な笑みを浮かべて待機していた。
その光景を見下ろしながら、エルマ(バルバロッサ)は優雅に微笑んだ。そして、隣に立つザイードの耳元へ顔を寄せ、悪魔のように甘い声で囁く。
「――ねぇ、私の騎士? あなたたちは『誰に』やられたのかしら?」
ビクリ、とザイードの肩が跳ねた。
先ほど密室で押した『血判』。そして、悪魔の姿をした妖精への絶対的な服従。
王都までの帰路、筋を断たれ、骨を折られたこの無様な敗残兵の姿はどう足掻いても露見する。だからこそ、これは新たな主君からの『最初の命令』だった。ベルン領の戦力を隠蔽するため、私の第一の騎士としてどう振る舞うのか、と。
ザイードは青ざめた顔に、狂気じみた陶酔の笑みを僅かに浮かべて一歩前に出た。懐にねじ込まれた『子爵の慰謝料』の重みを感じながら、彼は声高らかに宣言する。
「しょ、諸君……! 我々は……道中で『凶悪な野盗団の連合』から大規模な奇襲を受け、甚大な被害を出した! だが……伯爵様からいただいた『領地視察』の使命は、全うできたと考える!」
抵抗できない身体で、隊長のその言葉を聞いた兵士たちは、声にならない息を呑んだ。自分たちをすり潰したのは、間違いなく目の前の狂犬どもだ。
だが、ザイードの目は『死の恐怖』に怯えているのではなかった。
(これが新たな真実だ。あの方の秘密を漏らす者は、この私が許さない……っ!)
完全に精神が改変された隊長の、狂気に満ちた瞳。
自分たちを率いるエリート騎士の心が完全に壊れてしまった事実に、兵士たちは得体の知れない絶望と恐怖を叩き込まれていた。
「私たちとしましても、皆様に少々おケガを負わせてしまいましたし……そのままのお姿で帰られては、カインズ伯爵軍としての『外聞』が悪いかと思いますわ」
エルマがそういって微笑むと、その動きが静止した。
(……よし、政治と口裏合わせは終わりだ。あとは任せたぜ、小娘)
『えっ!? ちょっ、バルバロッサさん!? こんな惨状、私ひとりでどうしろって――』
(お前の領地の掃除だろうが。ほれ、領主の仕事だ。気張れよ)
唐突に。エルマの纏っていた『絶対的な捕食者』のオーラが、一瞬にして霧散した。
「あ、えと……っ! み、皆様、痛いですよね!? す、すぐに手当てしますから!!」
突如として声のトーンが跳ね上がり、ひどく狼狽えた様子で駆け出す少女。その姿は、先程までザイードを地獄に突き落とした冷酷な女帝とは、まるで別人のようだった。
「ロッシさん、フィンおばさん! 包帯と添え木をありったけ持ってきてください! アレクさんはお湯を! 早く! あ、手伝える人はみんなやって!」
「お、おう。お嬢がそう言うなら……」
主君の豹変ぶりすら『高度な人心掌握術』だと勝手に解釈し、密かに忠誠心を高める狂犬たちを尻目に。
素のエルマに戻った彼女は、簡素なドレスの裾が土埃に汚れるのも構わず、広場へと飛び出した。王都の貴族なら目も留めないようなそのドレスは、しかし、彼女を包む慈愛のオーラによって、まるで最上級の装飾を施された聖衣のように見えた。
そして、自らが(正確には領民たちが)叩きのめした敵兵の横に膝をつき、痛ましそうに眉をひそめて手当てを始める。
「ごめんなさい、痛いですよね……っ。少し我慢してくださいね」
彼女が駆け寄ったのは、部隊を指揮するエリートの騎士たちだけではない。狂犬どもに重厚な鎧をひしゃげさせられ、土に伏して呻く平民上がりの一兵卒に至るまで、一切の分け隔てがなかった。
血と土埃に塗れた名もなき兵士の横に跪き、エルマはその汚れた顔を、自らの純白のハンカチで躊躇いなく拭っていく。
「……っ!? 男爵令嬢、様……っ!? いけません、我々はあなた方の領地を奪いに来た敵兵――それに、私はただの一兵卒で――」
「今は怪我人です! 喋らないでください、骨に響きますよ!」
一心不乱に包帯を巻いていく十四歳の少女。他者の痛みに寄り添い、本気で案じるそのひたむきさが、彼女を覆っていた凡庸な殻を打ち破り、隠されていた真の姿を露わにしていく。
乱れた髪の間から覗くのは、かつて王都で『至宝』と謳われた母親から受け継いだ、妖精のように可憐で、ひどく儚げな素顔だった。陶器のように透き通る白い肌。長い睫毛に縁取られた大きな瞳には、見ず知らずの敵兵を気遣う真珠のような涙が浮かんでいる。
血と汗の悪臭が立ち込める凄惨な戦場で、額に汗を滲ませて懸命に立ち働くその姿は、まるで地獄に迷い込んだ無垢な妖精のようだった。
「掠り傷に、すぎません……」
手当てを受けた一兵卒が、震える声でそう絞り出す。王都において、平民上がりの兵士など、上位の貴族から見れば路傍の石も同然だ。カインズ伯爵からは、少しの失敗で「無能」「クズ」と罵倒され、怪我をすれば見捨てられ、死ねば代わりが補充されるだけの使い捨ての命。
それなのに、目の前の高貴な貴族は、簡素なドレスを土埃に染め、自ら地面に膝を突き、美しい純白のハンカチを赤黒く染めながら、階級など一切気にすることなく自分のために汗を流してくれている。
得体の知れない恐怖と、完全な無力感の直後に、圧倒的な美と、身分を超えた無償の優しさを至近距離で浴びせられたカインズ軍の兵士たち。その極端すぎる落差によって、彼らの感覚は完全に『改変』を起こしてしまった。
屈強な重装歩兵の一人が、折られた骨の痛みを完全に忘れたように頬を赤らめ、深い陶酔の混じった溜息を吐く。自分たちは、これほどまでに慈悲深く、そして美しい令嬢の領地を蹂躙しようとしていたのか。その事実が、彼らの軍人としてのちっぽけなプライドを粉々に砕き、代わりに狂気じみた『崇拝』の念を脳の奥底に植え付けていく。
日差しを浴びながら、ただひたむきに、祈るように自分のために手を動かし続ける少女。血と汗の臭いが立ち込める中で、彼女からだけは、ふわりと甘い石鹸の匂いがした。彼らは知らない。自分たちをこの地獄へ叩き落としたのが、目の前の妖精の皮を被った悪魔であるということを。
そして、その狂気は彼らの部隊長も例外ではなかった。
「隊長さん、手首……。痛かったでしょう、ごめんなさい」
「……っ、ひ」
自らの前に跪き、土埃に塗れた右腕にそっと添え木を当てるエルマに対し、ザイードはビクッと肩を震わせた。
広場の冷たい風を浴びたことで、ザイードの意識は先ほどの密室での『狂熱』から、僅かに引き戻されつつあった。
我に返れば、あるのは手首の痛みと、エリート騎士としての経歴が完全に終わったという絶望的な現実だけ。ほんの数十分前、この右腕を無慈悲に砕き、自分をゴミのように屈服させたのは、目の前の小娘(の中にいる悪魔)だ。
なぜ自分は、あんな化け物に血判まで押し、あまつさえ『美しい』などと感じてしまったのか。薄れゆく狂気の中で、彼の心に強烈な後悔と、底知れぬ恐怖が蘇りかけていた。
だが――今、自分の腕を固定するその手は、ひどく小さく、そして温かかった。
(……え? なぜ、泣いておられる……?)
至近距離で見る彼女の顔は、やはり恐ろしい化け物などではなく、儚げな少女のそれだった。ひたむきに、自分が与えたはずの痛みに寄り添うように真珠のような涙を滲ませている。
ザイードの脳裏に、カインズ伯爵の脂ぎった顔がよぎった。あの男なら、手足の折れた敗残兵など「無能のクズ」と唾を吐き捨てて見捨てるだろう。ましてや、自ら土埃に塗れて手当てをするなどあり得ない。伯爵にとって、自分たちは使い捨ての駒。
だが、自分たちを地獄に突き落とした張本人が、誰よりも慈悲深く自分たちのために涙を流している。
その決定的な矛盾が、正気に戻りかけていたザイードの理性を完全にショートさせた。
(ああ……そうか。この方は、決して残虐なだけの悪魔ではないのだ)
極限の恐怖で破壊されたザイードの自尊心は、自己防衛のために、目の前の現実を『都合よく』解釈し始めた。
(我々の愚かさを諭すために、あえて圧倒的な力で罰を与えられたのだ。その上で……この懐の金貨と、手当ての慈悲。無能なカインズ伯爵とは違う……この御方こそが、上に立つべき真の貴族……っ!)
冷めかけていた恐怖の空白に、致死量の『慈愛』が叩き込まれる。
戦場の残り香の中で、やはり目の前の少女からだけは、ふわりと甘い石鹸の匂いがした。抵抗できない力による『支配』と、直後の無償の『慈愛』。
その極端すぎる落差(アメとムチの追撃)は、ザイードの精神を、今度こそ後戻りできない場所へと完全に作り変えてしまった。
「ザイード隊長……我々は、とんでもない過ちを犯すところだったのかもしれません」
「……ああ。あの方は、我々のような愚か者にも無償の愛を与えてくださる、真の貴族だ……美しい……」
懐の金貨の重みと、右腕の痛みを感じながら、ザイードは恍惚とした表情で目の前の少女を見つめていた。
(――エルマ様。私が、あなたの第一の騎士でございます)
恐怖による圧倒的な支配と、妖精の如き美貌による慈愛。この日、カインズ伯爵の精鋭三百人は、誰も死ぬことなく、しかしその心を完全に、ベルン領の美しき男爵令嬢へと傾けていったのだった。




