10.■■■■
ベルン家の質素な応接間。
普段は父と共にお茶を飲むその温かい部屋が、今はひどく冷たく、息苦しい空間に成り果てていた。
「――以上が、偉大なるカインズ伯爵様からの通達である。ベルン男爵家は速やかに特別防衛費として金貨五百枚、および領内に備蓄された冬用の兵糧の八割を供出せよ」
(……ほう、カインズか。一度面を拝んだことがあるが……てめぇの影にも怯えるような、骨の髄まで臆病な豚だったぜ。そいつがベルンに喧嘩を売るだと?戦力を把握してねぇ素人か?)
脳内でバルバロッサが怪訝な声を上げる中、羊皮紙を無造作にテーブルに放り投げたのは、全身を豪奢な銀鎧で包んだ大男だった。
カインズ伯爵に仕える精鋭部隊の隊長、ザイード。本来ならば文官が担うべき使者の役目を、あえて重武装の騎士が務めていること自体が、当主不在のベルン家に対する明確な『威圧』であった。
彼は主の不在をいいことに、泥のついた鉄靴のまま応接間のソファーに深く腰掛け、目の前に立つ十四歳の少女を嘲るように見下ろしていた。
「き、金貨五百枚に……冬を越すための麦の八割……!? そ、そんな無茶な要求、呑めるはずがありませんっ! み、みんなが飢え死にしてしまいます!」
エルマは必死に声を張り上げた。
脳裏に浮かぶのは、ロッシ爺さんの温かいパン、泥だらけで笑うトムの顔。彼らの命の糧を奪うなど、絶対にできるはずがない。
「無茶? 勘違いされないことだ、男爵令嬢殿。先日、我が領の関所が何者かに襲撃され、壊滅したのだ。あれは間違いなく『帝国』の斥候による凶行。帝国の脅威に対抗するため、隣接する貴様らも防衛の負担を負うのは当然の義務であろう?」
ザイードは鼻で笑い、わざとらしく剣の柄をガシャリと鳴らしてエルマを威圧した。
関所を潰したのは目の前の少女(に潜むバケモノ)だという真実など露知らず、都合の良い口実として『帝国の脅威』を振りかざしているのだ。
(ククク! ハーッハッハッ!! だろうな! あの野盗共に刻んでおいたのは『帝国の奴隷印』だからな!! フハハハハハ!)
恐怖に震えるエルマの脳内の奥底で、悪鬼は痛快そうに腹を抱えて笑っている。
(あの関所の裏帳簿を抜かれて……なるほど、こいつがバルデの親玉だな。カインズの豚が焦ってるのは分かる。俺が残した偽装にまんまと踊らされて、帝国に怯えてるのも傑作だ。……だがな、この歪に最初からアタリをつけておかねぇのが三流なのよ)
ひとしきり笑った後、バルバロッサの脳裏で、ふと冷徹な思考が顔を出す。点と点が、急速に繋がっていく。
(あの臆病な豚が『帝国の脅威』なんて大層な看板を掲げたところで、狂犬揃いのベルン領に自分から喧嘩を売る度胸があるはずがねぇ。……誰かが後ろで糸を引いて、豚の背中を蹴っ飛ばしてやがるな。それに、さっきの要求……)
なぜ今、このタイミングで伯爵家が強硬手段に出たのか。
なぜ、父親であるガルムが、何週間も王都に足止めされているのか。
そしてなぜ、この使者は『領内に備蓄された冬用の兵糧の正確な量(八割)』を完璧に計算できているのか。
(辺境の番犬を王都に縛り付け、その間に使い走りの豚(伯爵)に理不尽な税をふっかけさせてシマを枯らす。番犬から領地を奪いてぇのか、それとも……あの過保護な親父から『至宝の血を引く娘』を借金のかたに毟り取りてぇのか)
おおよその見当はついていた。だが、こうして見事に退路を絶つ盤面を見せつけられると、バルバロッサの胸の奥で、抑えきれないドス黒い愉悦が込み上げてくる。
(ハッハッ! 敵ながら綺麗じゃねぇの)
悪鬼は脳内で喝采を送った。
この一連の嫌がらせは、カインズ伯爵の独断などではない。王都の派閥と結託した「■■■■」なのだと確信したからだ。
(毎日嗅いでる『淹れたての紅茶』の匂いに紛れて、王都の香水のゲロ甘ぇ匂いが、ここまで漂ってきやがるぜ)
悪鬼の視線(エルマの瞳)は動かない。だが、その意識だけは、今まさにエルマと対峙している鉄屑を舐め回すように見定めていた。
「さぁ、賢明なるご返答を、令嬢殿。支払いを拒否されるというのなら、伯爵様は我が領地への反逆とみなし、正規軍を率いてこの貧乏領地に『徴収』に向かうことにな――」
(……小娘)
ザイードの脅し文句を遮るように、バルバロッサの低く、地獄の底から響くような声がエルマの脳内を満たした。
(この鉄屑、使えるぜ? ……ここは少し我慢してやれと言いてぇとこだが、判断はお前だ)
『え……? ど、どういうこと……!?』
(この場でこいつを殺しても、後ろで糸を引いてる王都のムカつく野郎には届かねぇ。だから……ここは思いっきり泣き真似をして、弱みを見せてやれ。要求を呑むフリをして、カインズの豚に「全軍」を引き連れてこさせろ)
それは、大悪党が描く最悪のシナリオ。
敵を完全に油断させ、領地の奥深くへと誘い込み、逃げ場のない状態で一網打尽にすり潰すための悪魔の采配だった。
『我慢、する。どうすればいいの?』
(……即答かよ。案外図太いよな小娘。いいか? お前は温室育ちの『パパ助けて』な女の子ってやつだ。つまり、馬鹿になれ。ここは話の通じないバカになるんだよ。今から言う通りにやれ)
「――男爵令嬢?」
「えぐっ! ひぐっ……!」
「!?」
「えーん! えーん! わからないよううううう!」
最初はたしかに演技だった。
だが、やってみれば不思議なことに、これまでの重度なストレス――突然のバケモノとの共生生活の恐怖、血の匂い、そして大好きな領民の命を奪われるかもしれないという重圧が一気に溢れ出し、エルマは文字通り大音声で泣きじゃくり始めた。
「お、お父様ぁぁ! お父様がいないと、わたし、なにもわかんなぁぁい! こわいよぉぉぉ!!」
(おいおい、マジ泣きじゃねぇか。……まぁいい、続けろ。もっとバカっぽく喚き散らせ)
「金貨なんて見たことなああああい! 麦なんてぜんぶ食べちゃったもん!! お父様が帰ってくるまで待ってえええええ!!」
「なっ……ええい、いい加減に泣き止まれよ、男爵令嬢!」
(フハハハハ! いいぞ小娘! いい道化っぷりだ! そら! 床で駄々こねるんだよ!)
ザイードは顔を引きつらせた。
歴戦の騎士である彼も、さすがに十四歳の少女にここまで理不尽に泣き喚かれる事態は想定していなかったのだ。刃を突きつけて脅すつもりだった相手が、床にへたり込んでギャン泣きするただの子供になり果てては、毒気を抜かれるどころか会話のドッジボールにすらならない。
「ええええええん! ごめんなさぁぁい! できないよぉぉぉ!」
言われるがまま、エルマはドレスが汚れることなど一切構わず、床に転がって手足をジタバタとバタつかせた。
(よし、上出来だ。これで豚どもは『ベルン家は当主不在で反抗する力もない、ただの馬鹿令嬢がいるだけ』だと完全に思い込む)
「……チッ。まったく話にならん! 貧乏貴族の温室育ちが……どこまでも甘ったれた男爵令嬢だ!」
(最高の難敵ってな案外、話の通じねぇやつなんだよな)
ザイードは苛立たしげに舌打ちをし、泥のついた鉄靴で床を強く踏み鳴らして立ち上がった。公式な使者としての体裁をギリギリ保ちつつも、その声にはありありとした侮蔑が込められていた。
「よかろう。だが、待つのは三日だ! 三日後までに用意ができていなければ、伯爵様の正規軍がこの領地に直接『差し押さえ』に向かうと思え! ――行くぞ!」
マントを乱暴に翻し、ザイードは足早に応接間から出ていった。
厄介な子供の泣き声から逃げるように去っていく背中を、しゃくり上げるエルマの瞳がじっと見送る。その後ろには、困惑したように主の背を撫でるメイドのマーサの姿があった。
だが、大粒の涙をこぼすエルマの眼球の奥で――最凶の悪鬼は、この先に待つすべての獲物の群れを想像し、歓喜の舌なめずりをしていた。
(なぁ踊ろうぜ小娘。貴族の嗜みってやつだろ?)
『遠慮します……。これって、ただただ時間を引き延ばして私の風評をおかしくしただけですよね?』
(どうだかな)
血みどろの『死の舞踏』の始まりなど知る由もなく抗議する少女の奥底で、悪鬼は楽しそうに嗤っているのであった。




