失われた母、逃げた父娘
施設が沈んだ。
暴走したリツ1──ひまりをはじめ、
他の被験体たちもろとも、施設の崩壊に巻き込まれ、瓦礫に押しつぶされていった。
人間としての名を奪われ、感情を奪われ、
それでも最後の最後に“娘の名”を呼んだひまりは──
ほんの一瞬、母に戻ったのかもしれない。
それが、彼女に残された最後の意思だった。
*
森の中の廃屋。
そこに、ひっそりと明かりが灯る。
浩一郎と美香は、人知れず身を潜め、
まるで冬を越える動物のように、ひっそりと日々を生きていた。
美香は今も眠っている。
だが、以前とは違っていた。
熱も落ち着き、体の異変も沈静化しつつある。
変身能力も暴走を止め、深い眠りの中で“安定”し始めているようだった。
浩一郎はその寝顔を見つめながら、
ポケットにしまっていた小さな写真を取り出す。
かつて、ひまりがこっそり撮った一枚。
自分と美香を見下ろすように笑う、あの日の“母”の姿。
「……すまなかった。俺は、お前を救えなかった」
呟いた声は、誰にも届かない。
それでも、部屋の静けさの中で、
浩一郎はようやく“人間の父親”の顔に戻っていた。
*
──東京。
室田邸の一室。
重厚なカーテン越しに朝の光が差し込む。
室田銀治は、窓辺の椅子に腰かけ、加賀から渡された報告書を静かに読み終えた。
「“ミカ”……か」
声は出さない。ただ、口の中で反芻した。
それは──財閥の者の中でも、銀治だけが知っている名。
かつてこの国が戦争に呑まれ、混乱と実験に明け暮れた時代。
“リツ一族の長”が命と引き換えに差し出した、たった一人の娘の名。
その娘から、すべてが始まった。
──薬。適合。遺伝。能力。欲望。管理。裏切り。そして破壊。
ミカ。
それは、扉を開く“鍵”の名だった。
銀治は立ち上がると、誰にも見せることのない、旧家の一枚の写真に視線を落とす。
古ぼけたその写真の端には、幼い少女の姿。
その名が、確かに“ミカ”と記されていた。
「……時は来る。いずれまた、あの血が動き出す」
そう呟いた銀治の背後で、時計の針が音を立てて進んでいた。
*
山間の静寂。
小さな廃屋の窓から、朝の光が差し込む。
美香がゆっくりと、目を開けた。
「……父さん……?」
浩一郎が静かに微笑む。
「おはよう、美香」
「……夢を見てた。母さんが、名前を呼んでくれる夢……」
「夢じゃないよ」
「え?」
浩一郎はそっと、美香の手を握った。
「母さんは……最後の最後まで、お前を“ミカ”と呼んでいた。
お前の名を、忘れなかった。……それだけは、本当だ」
美香の瞳に、涙が滲んだ。
空は、どこまでも青かった。