壊れる物
床に崩れ落ちた加賀の前に、巨体となったひまり──リツ1が立ち尽くしていた。
その目は、血と薬で濁り、正常な視線を保っていない。
だが──わずかに震えていた。
「ミ……カ……」
その声はかすれ、ひび割れ、喉から搾り出すように響く。
けれど、ほんの一瞬。
ひまりの脳内に、“光”が差し込んだ。
*
──暗く冷たいコンクリートの床。
──薬品の匂い、無言の監視カメラ、白衣たちの足音。
その日常の中に、確かにあった。
ひとつの“ぬくもり”。
白衣を着た男、浩一郎。
彼が名前をくれた日、「ひまり」と呼ばれたその響きに、胸の奥が熱くなった。
笑った。彼の前でだけ、笑うことができた。
抱きしめ合った夜、唇を重ね、何かを信じようとした。
そして──あの日。
生まれたばかりの小さな命を、腕に抱いた時。
細い泣き声と、柔らかく温かい体。
それは“命”だった。“自分のもの”だった。
研究でも、実験でもない。
この子だけは守らなければならない──そう思った。
*
だが記憶は、すぐに黒く染まっていく。
薬物の投与、繰り返される手術、刻まれた番号「1」。
名を奪われ、心を剥がされ、感情が薄れていく。
「ひまり」は失われ、ただの「リツ1」となった。
いま、目の前に立つ少女の顔も、輪郭も、分からない。
けれど、体が反応する。
脳が拒否しても、魂が覚えている。
「ミ……カ……」
その一言のあと──
視界が赤に染まった。
全身が痙攣する。
骨が軋み、皮膚の内側を何かが這う。
「……っ!!」
ひまりの暴走が始まった。
腕が壁を砕き、声にならない咆哮が室内を貫く。
「グアアアアアアア!!!!!」
*
「母さん……!」
美香が叫ぶ。
その声に、ひまりの動きが一瞬だけ止まる。
だが──理性はもう、ない。
美香の瞳が見開かれる。
その胸に、ひどい痛みが走った。
「う……く、あ……!」
頭が割れるように痛い。
胃が熱く、手足が痺れ、背中が異常なほど熱い。
「なに……これ……体が……痛い……っ!」
視界が揺れ、鼓動が全身を打ちつける。
これはただのストレス反応じゃない。
何かが身体の奥で“始まっている”──!
美香は立っていられず、そのまま床に崩れ落ちる。
「美香……!」
浩一郎が駆け寄ろうとする。
だが──
「……チッ」
逃げ遅れたはずの加賀が、背後のドアからゆっくりと立ち上がっていた。
左肩からは血が流れ、白衣は破れている。
だが、その目には冷徹な光が宿っていた。
「……まったく。あれほど完成された被験体でも、やはり“感情”は制御できないようだ」
ひまりの暴走を冷静に見つめながら、加賀は端末を取り出す。
「よく観察できたよ。リツ1の限界と、娘の初期反応……実に有意義な時間だった。
さて──そろそろ“逃げさせてもらう”としようか」
「……っ……!」
浩一郎が立ち上がり、銃を向ける。
だがその隙に、ひまりが暴れ、天井を突き破る。
「グオアアアア!!」
瓦礫が崩れ、煙が立ちこめ、視界が遮られる。
その瞬間──
加賀の姿が消えた。
「……っ、逃げた……!」
浩一郎が悔しげに拳を握る。
だが、それよりも今は──
「美香!」
倒れた娘に駆け寄る。
呼吸は浅く、全身が汗と血で濡れている。
「……痛い……父さん……母さんが……壊れてく……」
美香は、誰よりも強いはずの娘が、今、ただの少女の声で泣いていた。
「……もう、無理だよ……」
そのまま、美香の瞼が閉じる。
施設が、揺れている。
警報が鳴り響く。
壊れる音。壊れる心。壊れる家族。
だが、まだ終わらせてはいけない。