5話『地獄に等しい世界』
──何回でも言わせてもらうが、この世界はトチ狂っている。
技術水準だけは進んでいるようだが、その一方でまともな人権や人の命といった何よりも大切な筈のモノの保障は杜撰だ。
民主制大国として有名なアルディス連邦王国はその中でも比較的マシだといえる部類なのかもしれないが、それでも根本的な所では捕まえた敵勢力への仕打ちや自分へのこれまでの仕打ちを見れば、人の命を軽く見ているように思える。
一説によると、魔術という“誰でも簡単に人を殺せる術”が当然に存在していることが、そんな人権軽視の風潮を築き上げたと言われているが、そんなの知ったことではない。
もう一度言わせてもらう。
……この世界は、狂ってる。
──なれば、そんな世界で。
しかも。まず“表沙汰”になることのない、文字通り世界の反対側の“非公式な戦争”のもとで。
敵側の本拠地に侵入した上で、捕虜になってしまったらどうなってしまうのだろうか?
答えは、もう言わなくても分かることだろう。
「…………………………」
どれくらいの時間が経ったのだろう。
あれからマナスダ軍の捕虜となり、この清潔性最悪な汚い部屋にぶち込まれ、クソ野郎どもの“玩具”にされてから、心情的には途方もない時間が経過していた。
だが、ここには時計も光もないので実際のところは分からない。“あの時間”は1分さえ永遠に思えるくらいの地獄だった。実は数時間しか時は流れていないのかもしれない。
だが、1つだけ分かるのは。
一時的にとはいえあの地獄から解放されたということは、今は恐らく人が寝る時間なのかもしれない、ということだけだ。
そんな事を物思いながら、高崎は椅子に縛られた痣だらけの体の力を抜きつつ、目を閉じて暗闇の世界へと包まれた。
──これまでの時間、彼はまさに地獄の時間を過ごしていた。
挨拶がわりに拷問官に爪を1枚剥がされ、左目を潰された。
笑いながら殴り蹴られ鞭で打たれ、身体をナイフでたびたび刺された。水責めも窒息ギリギリまで何度もやられた。
捕まった際に負った傷もロクに手当されぬまま、申し訳程度に付けられた包帯には血が滲んでいた。
そんな彼の精神は、既に限界にまで追い込まれていた。
まぁ、当然だろう。一応軍の訓練過程において尋問に関する対策訓練があり、その中で水責め。ウォーターボーディングの経験などがあったが、そんなのまるで気休めにもならない。あのまさに溺れ死ぬような感覚で、まず人間が恐怖を感じない訳がないのだ。
これまで数々の危機に陥ってきた高崎だったが、この世界に来て初めて涙を流した。
あまりの痛みと苦しみに失禁し、たとえ何をされようとも口を割らないなんて思っていたのにも関わらず、すぐにそんな気持ちも薄らいでしまっていた自分が情けなくて……そしてやり場のない気持ちに包まれて。
なんで、自分がこんな目に遭わなくてはならないのか?
──ようやく1人にされて、彼の心にはようやく冷静さが訪れていた。だが、その冷静さは逆に彼の心を蝕んでいく。
先程までのその“地獄”。奴らはどうも絶対に情報を聞き出してやる!というより、その行為自体を嗜虐的に愉しんでいるように思えた。いや、やり方としてはそうとしか思えない。まるで、殺されて仲間への報復の代わりにされているかのように。
ならば、結局のところ自分の知る限りの事を話したところで意味はないのではないか。いや元より、これだけの世界全国同盟におけるどうしようもない規約違反を犯しているのだから、あっさり解放するつもりがあるとは到底思えなかった。
──つまり。なんであれ、どの道今後助かる未来が見えてこないということ。
それに気が付いてしまったことが、彼の既に擦り切れるに擦り切れていた精神に半ばトドメを与えたのは言うまでもない。
きっと明日も、明後日もこの地獄は続く事だろう。故に出来ることは味方の勝利を信じ、いつか助けに来てくれる事を信じて堪えることだけ。
だが、彼にはもうこれ以上耐えられる気などまるでなかった。奴らは去り際「次からが本番だぞ」と言っていた。捨て台詞なのかもしれないが……、奴らの場合おそらく本当に次はもっと酷いことをするに違いない。
再びあれらを、あれら以上のことをされると思ったら、それだけで精神が摩耗する。もはや何度目か分からない嘔吐感に襲われたが……既に吐けるモノなど残っていなかった。
しかも、この世界における尋問を執り行う側は、相手の状態について気を使う必要性が殆どない。何故なら、もしものときは回復魔術を使えばいいのだから。
故に、限界ギリギリまで追いつめ、回復魔術を使った後再びそれを行う……といった事さえ可能だという事だ。それは……、想像しただけでも頭が狂いそうになるくらい恐ろしい。
しかし、回復魔術でも治らないものもある。
例えば……そう。現在の高崎の潰されてた左目がそうだった。
これが、彼にとっても最もといって良い位に精神にダメージを与えていた。片目とはいえ、生物において最も重要な感覚ともいえる視覚の一部を奪われたという事実は一時的な痛みや苦しみより尾を引いてくる。
……だが、きっと大丈夫。なんとかして助かりさえすれば、エレナのあの最高の回復魔術。『レ=リフェ=ダヴァイナー』なら、あの腕さえくっつけるという奇跡のような術なら、きっと治るはずだ。
……そうでも思わないと、もうやってられなかった。
──ちくしょう……。
どうして。
どうしてこんな目に遭わなくてはならないんだ!!
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
遂に、彼は発狂した。
だがそれは至極当然の帰結だった。ただの平凡な青年に、あんなの耐えられはずがなかった。
これまで必死に保とうとしていた最後のちっぽけな防波堤すら崩れ、彼は壊れたように叫ぶ。しかし、魔術詠唱を防ぐためなのか分からないが猿轡を噛まされているため、それはようやく音として発せられるという程に留まっていた。
ちくしょう。
なんで、俺はあのとき捕まっちまったんだ。
なんで俺は、あんなクソッたれどもにやり返す力がないんだ。
あの俺を舐め腐ったようなアイツらの面を歪ませられるような力がないんだ。
なんで、あの最高にウザったい馬鹿にした感じのカタコトのアルディス語で話しかけてるヤツラを永遠に黙らせるようなチカラが俺には……ないんだ!!!
そんな……そんなものが、俺は欲しいッッ!!!
──その時だった。
ガアァァァンッッ!!!!
高崎がそんな欲望を心中で露わにしたそのとき、天井に凄まじい音を立てて“何か”が激突した。それは、壁に大きな傷をつけ、壁の一部は抉られるようにして崩れ落ちてきた。
(……待て。い、今のは───)
高崎には、それに“見覚えがあった”。
それは、そう。3ヶ月前のあのとき。
彼がこの特任部隊にて従事した大陸方面の『ダラーデン』にて、潜入任務を行ったあのときに相対したあの強敵の攻撃だ。
つまり。
高崎が一旦心を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐いた。そして、今度は意識に努めて“アレ”を行使するように気持ちを整える。身体中が痛み息苦しいが、そんなの気にしてられるか。
──そうすれば。
ガアァァァッッッ!!!!!
今度はさっきよりも更にデカい音を立てて、壁が崩れた。まるで、鋭利な何かが思い切り壁へと襲いかかったように。
やはり。やはりこれは。
(──やっぱり、これ俺の“魔術聖典の力”か……!!)
高崎がようやく確信を得て、はじめて不敵に笑った。
これは、彼があのとき『神の守護隊』のリーダー、アランを殺して手に入れた魔術聖典のチカラだ。
確か……そう。それはあいつが言うには『大気を司る大いなる神の力』と呼ばれるモノ。さっきのは、そんなこの世界の常識から外れたチカラによるものと見ていいだろう。
……だが、それでも疑問は残る。
最初彼がそれを自分のモノだと気がつかなかったように、それはこれまでの彼の力とは比べものにならない威力だった。これまでといえば、せいぜい相手をギリギリ転けさせるくらいには使えそう……くらいな筈だったのに。
なぜ、このタイミングでこれ程の能力向上がみられたのか。
──答えはわからない。
だが、現状としてそんな強大な力を得てしまったということだけが、彼の元には事実としてただ燦然と存在していた。
呼吸を整えてから、ふと思い試してみれば。
そのチカラはあっさりと……手を拘束していた縄を切断した。
彼はその手でささっと猿轡も外し、背中に貼り付けられていた魔力封印札を剥がしとる。かつて自分自身が例のアランに騙され殺されかけたように、魔術聖典のチカラはこんな既存の魔術的常識など関係なしに突き破る。
そうしてゆっくりと立ち上がると、余りに久しぶりなその感覚に壮絶な立ちくらみが彼を襲った。その足すらも生まれたての子鹿のようにぷるぷる震える。
──いや、けど“それだけじゃない”。
彼の身体はそんな立ちくらみとはまた別の、漠然とした意識の朦朧さ、そして強い“息苦しさ”と頭痛、そして激しい嘔吐感に襲われていた。
まさか、あのチカラの行使による“反動”だとでもいうのか。
身体は今もなお強く痛むし、呼吸は荒く意識も朦朧とする。だが、それでもここで立ち止まっている訳にはいかない。
「…………俺は、やってやる。もうこんな場所とはさっさとオサラバして、ぜってぇみんなの所に帰るんだ」
そう決意を口にして、彼は一歩目を踏み出した。
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「──まぁそりゃあ深夜とはいえ、軍の施設なんだからカメラの監視役くらいはいるわな……ッッ!!」
しばらくして。
分厚いドアを封じていた鍵さえも無理矢理破壊して拷問部屋からの脱走に成功した高崎は、満身創痍な体に鞭打ってその脱走に気がついた追手どもから全力で逃げていた。
──だが幸いなことにもやはり深夜ということもあってなのか、その対応には僅かに遅れが出ている。おかげで、既に大分奴らを撹乱することに成功しているのだった。
……今度こそ、捕まってなんかやるものか。
2度とあんなクソどもに、この身体を傷つけさせるものか。
そう心に決めながら、彼は駆け抜ける。
足の骨を折られたり、足の爪を剥がされたりしていなくてよかった。もしそんなことになっていれば、例えチャンスがあろうともこうして逃げることすら出来なかったのだから。
目の前に現れた敵兵も、迷うことなく“チカラ”を使ってねじ伏せる。喉元を、胸元を、脳天を突き刺し、抵抗させる間もなく殺していった。
……彼の中では、もう色々とぶっ壊れて吹っ切れていた。奴らは相手なら、殺してももう何も感じなかった。いや、それどころかざまぁみろと快感すら感じる。
しかしというべきか、やはりチカラの反動なのか再び意識が薄れ、酸欠のような息苦しさと頭痛・嘔吐感に襲われるが、そんなの知ったことなかった。あのときに比べれば……、こんなの屁でもない。
──そうして、走り続けること数分。
彼の目の前には、これまでの殺風景な閉塞感のある通路のような風景とはまるで違ったモノが広がっていた。
それは、流れる大量の水。
いわゆる地下河川というやつなのだろう。外では今雨が降っているのだろうか。その勢いはかなり強かった。
『──おい、ヤツはこっちの方へ行きやがったみてぇだ!! 絶対に逃すな!!』
背後からは再び敵兵士の叫ぶ声が聞こえてきた。緊急事態を知らせる警報もあいも変わらずけたたましく鳴り響いている。
高崎にはその言葉の意味は分からないが、とにかく自分を追ってきてることは理解できた。
「──あぁもうこんちくしょう!! いいぜ面白ぇ!! こうなったらイチかバチかじゃクソッタレ!!!!」
これ以上、命懸けの追いかけっこを続けても結局は脱出は難しいだろう。このままではジリ貧だ。……ならば、ここで一世一代の大懸に出てみるのも悪くない。
そう思うことにして、彼はその川へと思い切り“飛び込んだ”。
流れの強い濁流が、自然の恐ろしさを伝えるようにその身体を押し流していく。その姿は、すぐにその場から消え失せた。
──その後の彼の行方は、マナスダ軍も知る由もない。




