第14話 招かれたネズミ
湾岸エリアの夜は、重い油の臭いを含んだ海風が支配している。
叩きつけるような雨が、アスファルトを黒く染めていた。
工場地帯の一角にある、街灯もまばらなコインパーキング。
そこに停められた一台の軽自動車の中で、安田はハンドルを握りしめ、貧乏ゆすりを続けていた。
ワイパーが往復するたびに、ギュッ、ギュッ、と不快な音が鳴る。
助手席には、泥と雨で薄汚れたノートパソコンが置かれていた。
鏡浩司から預かった、「保険」だ。
『俺が入ってから30分、連絡がなかったら拡散しろ』
鏡の言葉が脳裏をよぎる。
安田は、鏡の大学時代の後輩であり、数少ない「仕事仲間」だった。一緒に企業を強請り、小銭を稼いできた腐れ縁だ。
だが、今回のヤマはでかすぎる。
相手は一部上場企業の闇だ。失敗すれば、タダでは済まない。
「……クソッ、鏡の野郎。本当に300万もふんだくれるのかよ」
安田は爪を噛んだ。
その時、雨音に混じって、砂利を踏むタイヤの音が近づいてきた。
安田が顔を上げると、音もなく滑り込んできた黒塗りのセダンが、軽自動車の真横にぴったりと停車した。
窓ガラスはスモークが貼られ、中の様子は窺えない。
「……!?」
安田が息を呑む間もなく、セダンの後部座席のウィンドウがゆっくりと下がった。
そこにいたのは、サングラスをかけた黒服の男だった。
男は一言も発しない。
ただ、スマホの画面を安田に向けた。
安田の目が釘付けになる。
画面に表示されているのは、ネットバンキングの送金確認画面。
振込先は、安田の個人口座。
そして金額は――『2,000,000円』。
安田の喉が鳴った。ゴクリ。
鏡と山分けするはずの報酬よりも多い。しかも、危険な橋を渡る必要もなく、今ここで確定する現金だ。
黒服の男は、無言で助手席のパソコンを指差した。
『交換だ』という合図。
安田の葛藤は、わずか数秒で消し飛んだ。
友情? 仁義?
そんなものでは、明日の飯も食えないし、借金の利息も払えない。
「……へへ」
安田は卑屈な笑みを浮かべ、助手席の窓を開けた。
冷たい雨が吹き込んでくるが、懐が温かくなる予感に比べれば些細なことだ。
彼は震える手でパソコンを掴むと、それを黒服の男に差し出した。
「鏡さん、ワリィな。……現金には勝てねえわ」
パソコンが回収されると同時に、男がタップしたスマホの送金完了画面を見せ、黒いセダンはウィンドウを閉め、音もなく走り去っていった。
残された安田は、スマホで自分の口座残高を確認し、安堵と罪悪感が入り混じった溜息をつくと、逃げるようにアクセルを踏み込んだ。
テールランプが雨の闇に消えていく。
そこにはもう、鏡浩司を守る「保険」は何一つ残されていなかった。
*
同じ頃。
工場地帯へと続く産業道路を、一台の高級リムジンが滑るように走っていた。
車内は外界の騒音が遮断され、微かなクラシック音楽だけが流れている。
本革シートの匂いと、微かなコロンの香り。
宇治木政樹は、窓の外を流れる雨粒を眺めながら、純白のハンカチで眼鏡のレンズを拭っていた。
その横顔は、これから行われる惨劇を前にしているとは思えないほど、穏やかで理知的だ。
「……処理は済んだか?」
宇治木が独り言のように問う。
対面のシートに座る網代真里が、タブレット端末から顔を上げた。
彼女の膝の上には、先ほど回収された泥だらけのノートパソコンが置かれている。
「はい、社長。……安田という男、意外と素直でしたよ。提示額を見せた瞬間に、尻尾を振ってパソコンを差し出したそうです」
真里はクスクスと笑った。
その笑顔は、無邪気な少女のようでありながら、瞳の奥だけが凍りついている。
「友情よりもお金。……鏡さんも、類は友を呼ぶ、ですね」
「人間とは、そういうものだ」
宇治木は眼鏡をかけ直し、中指でブリッジの位置を直した。
「価格がつかないものなどない。尊厳も、忠誠も、命も。……適切な対価を提示すれば、すべては商品になる」
彼は窓の外に視線を戻した。
遠くに、錆びついた工場のシルエットが浮かび上がってくる。
「彼もまた、そのことを身を持って学ぶことになるだろう。……自分の命の『適正価格』をね」
宇治木の口元に、嗜虐的な笑みが浮かぶ。
彼は不要な汚れを嫌う。
社会というシステムから「不純物」を取り除くための掃除ならば、喜んで手を汚す。
彼にとって鏡浩司は、美しい計画に付着した泥汚れに過ぎなかった。
「参ろうか、網代君。……工場長が、首を長くして待っている」
*
タクシーが水たまりを跳ね上げ、甲斐鉄工所の前に停車した。
鏡浩司は、運転手に乱暴に紙幣を押し付けると、雨の中へと降り立った。
目の前には、巨大な鉄の塊のような工場がそびえ立っている。
トタン壁は錆びつき、窓ガラスは割れ、まるで巨大な怪物の死骸のようだ。
だが、鏡の目には、それが宝の山に見えていた。
「へへッ……待ってろよ、エリート共」
鏡は傘もささずに、降りしきる雨を全身で受け止めた。
高揚感で寒さなど感じない。
今日で、借金地獄とはおさらばだ。300万、いや、交渉次第では500万。
それを元手にすれば、また裏社会でのし上がれる。
彼はスマホを取り出し、安田にメッセージを送った。
『スタンバイOKだな?』
既読はつかない。
まあいい、この辺りは電波が悪いんだろう。あいつは金のためなら裏切らない。金への執着こそが、俺たちの信頼関係だ。
鏡はすでに泡と消えた確信を胸に、半開きになった工場のシャッターをくぐった。
工場の中は、外の雨音が遠く聞こえるほど広かった。
鼻を突くのは、古い機械油と鉄錆の臭い。
天井の裸電球が、チカチカと頼りなく点滅している。
その中央。
薄暗い空間に、白い布を被せられた巨大な物体が鎮座していた。
人型をしているが、人間より二回りは大きい。
「……よう。お出迎えなしか?」
鏡の声が、空虚に反響する。
返事はない。ただ、プレスの駆動音のような重低音が、地響きのように鳴っているだけだ。
カツ、カツ、カツ。
硬質な足音が響いた。
鏡が顔を上げると、2階にある管理室から伸びる鉄階段の踊り場に、二つの人影が立っていた。
宇治木政樹と、網代真里。
彼らは高い位置から、まるでコロシアムの観客席に座る貴族のように、アリーナに立つ鏡を見下ろしていた。
「時間通りではないか。……汚物君」
宇治木が、ハンカチで鼻を覆いながら言った。
マイクを通した声が、工場内のスピーカーから響き渡る。
「ここに来るまでに、随分と雨水を吸ったようだ。……臭うよ」
あからさまな侮蔑。
だが、鏡は怯まなかった。金という武器を持っている人間は強い。
「へへ、悪臭ですいませんねぇ、ウジキサン」
鏡は両手を広げ、虚勢を張った。
「で? 約束のモノは? 現金で持ってきてくれたんでしょうね?」
宇治木は答えない。ただ冷ややかな目で鏡を見ているだけだ。
その沈黙に、鏡の苛立ちが募る。
「おい、無視すんなよ! こっちには『保険』がかかってるんだぞ!」
鏡は大声を張り上げた。
「俺が合図すれば、奥さんの悲鳴入りのデータが全世界に拡散される! SNS、動画サイト、週刊誌……一斉送信だ! あんたの会社なんか、一夜で倒産だぞ!」
鏡の切り札。
最強の脅し文句。
しかし、宇治木は眉一つ動かさなかった。
「……保険、か」
宇治木は溜息をついた。
「網代君。……彼は何か、勘違いをしているようだ」
真里が一歩前に出た。
彼女は無表情のまま、手すりの上から鏡を見下ろした。
その手には、泥と雨で濡れたノートパソコンが握られていた。
「鏡さん。あなたの『保険』って……」
真里の声は、どこまでも冷たく、事務的だった。
「これのことですか?」
真里の手が離された。
パソコンが空中で回転しながら落下する。
ガシャァァァン!!
コンクリートの床に叩きつけられたパソコンは、無惨な音を立てて砕け散った。
液晶画面が割れ、キーボードが飛び散る。
見覚えのあるステッカー。安田に預けたはずの、あのパソコンだ。
「な……」
鏡の思考が停止した。
「なんで……安田が……」
「お友達、賢い方でしたよ」
真里はクスリと笑った。
「あなたとの不確かな約束より、私たちが提示した『即金』を選びましたから」
鏡の顔から血の気が引いていく。
足元の破片を見る。それは、ただのプラスチックのゴミではない。
彼の命綱が切断された残骸だ。
「嘘だ……嘘だッ!」
鏡は震える手でスマホを取り出し、安田に発信した。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため――』
無機質なアナウンス。
「人の忠誠心なんて、お金で簡単に買える」
真里の声が、鏡の心臓を抉るように響く。
「……あなた自身が、一番よく知っていることでしょう?」
鏡は後ずさった。
ハメられた。
最初から、金を受け取れる可能性などなかったのだ。
ここは取引の場所ではない。処刑場だ。
(に、逃げろ……!)
本能が警鐘を鳴らす。
鏡は一目散で、入ってきたシャッターへと走り出した。
しかし。
ガガガガガッ!!
重厚な電動シャッターが、落石のような速度で落下し始めた。
鏡が滑り込もうとする寸前、ドォォォン!! という轟音と共に、出口は完全に塞がれた。
完全な密室。
外の雨音さえも遮断された、鉄の檻。
「ここからは、ビジネスの話は終わりだ」
スピーカーから宇治木の声が響く。
「これより、製品の最終耐久テストを行う」
「ひっ……!」
鏡は閉ざされたシャッターを叩いた。
「開けろ! 開けろよ! ふざけるなー! ここから出せぇぇッ!」
「ヒヒッ……」
その時。
鏡の背後、工場の暗闇の奥から、湿った笑い声が聞こえた。
「ようこそ、俺のスタジオへ」
ズリッ、ズリッ。
何か重い金属を引きずる音と共に、一人の男が姿を現した。
油と汗にまみれたランニングシャツ。
伸び放題の髪、黄ばんだ歯。
手には、赤黒い錆がついた巨大なモンキーレンチが握られている。
工場長、甲斐芳正。
その瞳は、狂気でギラギラと血走っていた。
「ま、待ってくれ……あんたが工場長か? 話を聞いてくれ!」
鏡は腰を抜かしそうになりながら懇願した。
「金ならいらない! 記事も書かない! 誰にも言わないから!」
甲斐は鏡の言葉など聞こえていないかのように、中央の白い布の前に立った。
「特等席だぜ、楽器君」
甲斐はニタニタと笑い、レンチの先で布を引っ掛けた。
「俺の可愛い子供が……お前の『音』を奏でたがってるんだ」
バサリ。
布が勢いよく引き剥がされた。
現れたのは、純白の悪魔。
異様に太く改造されたシリンダーを持つ両腕。
顔部には、一つだけの巨大な黒いバイザー。
ブゥゥゥン……!
甲斐がリモコンのスイッチを入れた瞬間、工場の電圧が一気に下がったかのように照明が明滅した。
そして、黒いバイザーの奥で、カメラアイが強烈な真紅に点灯した。
「試奏開始だ」
甲斐の宣言と共に、鏡浩司の前に立ちはだかる純白の巨体。
もはや逃げ場はない。
ただ、鉄と油の臭いが充満するこの魔窟で、絶望的な夜が始まろうとしていた。




