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狂人ドミノ ~ひとつ倒れれば、狂気が加速する。地獄のピタゴラスイッチ。~  作者: 団田図


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第13話 共鳴する歪み

 深夜二時。

 カーテンが締め切られたマンションの一室は、墓場のように静まり返っていた。

 部屋の明かりは、卓上の小さな電気スタンドだけ。その狭い光の円の中に、葉世《はせ》友和《ともかず》は背中を丸めて座り込んでいた。


「……あつッ」


 葉世の指先がビクリと跳ねた。

 半田ごての先端が、誤って親指の腹を掠めたのだ。皮膚が焼ける微かな音と、蛋白質が焦げる臭い。

 だが、彼は作業を止めなかった。

 ジンジンとした痛みを無視し、再び虫眼鏡越しに緑色の電子基板を睨みつける。


 机の上には、彼の専門外である『通信工学入門』『電波妨害の基礎技術』といった分厚い専門書が、タワーのように積み上げられている。どれも手垢で汚れ、無数の付箋が貼られていた。

 彼はエンジニアではない。品質管理のマネージャーだ。

 文系出身で、機械の中身など今までろくに見たこともなかった。

 だが今、彼の目の前にあるのは、秋葉原のジャンク屋を回って買い集めた部品の山と、自作の回路図だ。


「……こんなもの、本当に動くのか」


 葉世は独り言ち、溜息をついた。

 胃の奥がキリキリと痛む。

 彼は引き出しから、常備している白い粉薬の包みを取り出し、水も飲まずに口に放り込んだ。

 苦味が口いっぱいに広がる。それが、彼の意識を現実に繋ぎ止める唯一の錨だった。


 会社では今頃、宇治木と網代が我が物顔で振る舞っているだろう。

 葉世は「部下を精神的に追い詰め、自殺未遂(磯野拓海の失踪)の原因を作ったパワハラ上司」として、懲戒休職の身となっていた。

 すべては網代真里が仕組んだ罠だ。

 だが、葉世は彼女を責めるつもりはなかった。

 彼女の異常性に気づいていながら、決定的な証拠を掴ませないために「悪役」を演じることしかできなかった、自分の無力さが招いた結果だ。


「だが……これで終わりにはさせない」


 葉世は、完成しつつある黒い箱を見つめた。

 ジャミング装置。

 特定の周波数を広範囲に放射し、ロボットの制御信号を強制的に遮断するための最後の切り札。

 宇治木たちが作ろうとしている『アイギス』には、遠隔操作や協調制御のための無線通信機能が搭載されているはずだ。

 もし、あいつらがその機能を使って、何か大規模な「事故」を起こそうとしているなら――。


「止める。……今度こそ、俺が」


 葉世は再び半田ごてを握り直した。

 震える手を押さえつけ、基盤に向かう。

 孤独な闘いだった。誰からも期待されず、誰からも理解されず、社会的に抹殺された中年男の、無様な足掻き。

 だが、その瞳の奥には、かつて失いかけていた「責任」という名の冷たい炎が灯っていた。


          *


 一方、都内のマンション。

 網代真里の部屋は、葉世のそれとは対照的に、モデルルームのような清潔さに満ちていた。

 生活感がない。家具の配置はミリ単位で整えられ、埃一つ落ちていない。

 彼女は帰宅すると、表情を消してウォークインクローゼットへと向かった。


 扉を開ける。

 そこは、彼女だけの「コクピット」だった。

 壁一面に貼られた、無数の顔写真。

 同僚、上司、取引先、そして過去に彼女が「処理」してきた人間たち。


 真里はバッグから、数枚の新しい写真を取り出した。

 油まみれの笑顔を見せる初老の男――甲斐《かい》芳正《よしまさ》。

 そして、下卑た笑みを浮かべる記者――鏡浩司。


「さて、更新しなきゃ」


 彼女は鼻歌交じりに、画鋲と赤い毛糸を手に取った。

 まず、甲斐の写真を壁の中央付近、宇治木政樹の写真の横に貼り付ける。

 そして、宇治木と甲斐を太い赤い糸で繋ぎ、その上に『共鳴』と書いた付箋を貼った。


「合理主義者のサイコパスと、快楽主義者のサイコパス。……水と油に見えて、一番相性がいいのよね」


 真里はウットリと呟いた。

 宇治木は「目的」のために手段を選ばない男。

 甲斐は「快楽」のために手段を選ばない男。

 方向性は違えど、「人の命をモノとして扱う」という一点において、二人の魂は深く結びついている。

 そして、その二人を引き合わせ、コントロールしているのが自分だという事実が、真里にたまらない全能感を与えていた。


 次に、鏡浩司の写真を貼る。

 場所は、相関図の最下層。ゴミ溜めのような位置だ。

 彼女は鏡の写真を、宇治木と甲斐の二人に黒い糸で繋ぎ、そこに『餌』と書き殴った。


「鏡さん。あなたは最高の起爆剤よ」


 真里は鏡の写真の顔を、冷たい指先で撫でた。

 彼が宇治木を強請《ねだ》ったこと。それは想定外ではなく、誘導された必然だった。

 栄子の入院先をリークしたのも、拓海の情報を裏社会に流したのも、巡り巡って鏡に「ネタ」を掴ませるための撒き餌。

 彼が食いつき、工場に足を踏み入れた瞬間、すべてのドミノが倒れ始める。


「ふふっ……楽しみ」


 真里はクローゼットの扉を閉めた。

 暗闇の中で、赤い糸で繋がれた人間たちの因果が、不気味に浮かび上がっているようだった。


          *


 翌日。

 湾岸エリア、甲斐鉄工所。

 重いシャッターの奥から、ガガガガッ、という金属を削る音が響き渡っていた。

 工場内は、相変わらず油と鉄粉の臭いが充満している。

 真里が足を踏み入れると、溶接の火花の中で作業をしていた甲斐が、マスクを上げて顔を見せた。


「おう、嬢ちゃんか。……いいところに来たな」


 甲斐の顔は、煤と油で真っ黒だった。

 だが、その目は少年のようにキラキラと輝いている。いや、玩具を与えられた悪魔の目と言うべきか。

 彼の手には、改造された『アイギス』の腕部パーツが握られていた。

 本来の滑らかな白いカバーは剥ぎ取られ、剥き出しになった油圧シリンダーには、太いパイプが増設されている。


「宇治木さんからの差し入れです」

 真里は手土産の高級酒の箱を作業台に置き、ロボットを見上げた。

「進捗はどうですか? 工場長」


「最高だ。……あのアホな設計者ども、安全率を5倍も取ってやがった。それを全部取っ払って、出力に回したぜ。今のこいつは、ハグ一発でドラム缶をぺちゃんこにできる」


 甲斐は愛おしそうに、増設されたパイプを撫でた。

 その指先が、黒い油の跡を白いパーツに残していく。


「それに、耳も良くしておいた」

 甲斐はロボットの頭部を指差した。

「特定の高周波――人間の悲鳴に近い周波数を拾うと、リミッターが全解除されるように回路をいじった。……獲物が泣き叫べば叫ぶほど、こいつは興奮して力が強くなる」


 真里は眉一つ動かさず、感心したように頷いた。

「素晴らしいですね。まるで生き物みたい」


「だろう?」

 甲斐はニタリと笑い、一斗缶に腰掛けた。

 彼は懐からタバコを取り出し、ジッポで火をつける。

 濃い煙を吐き出しながら、彼は遠くを見るような目になった。


「なぁ、嬢ちゃん。……俺がなんで、こんなに『音』にこだわるか、知ってるか?」


 真里は首を横に振った。

「いいえ。教えていただけますか?」


「20年前だ。……俺がまだ、大手の自動車工場でライン工をやってた頃の話さ」

 甲斐はポツリポツリと語り始めた。

「ある夜勤の日だ。新入りの若造が、プレス機の安全センサーを切り忘れて、金型の中に頭を突っ込んで掃除をしてたんだ」


 工場の奥で、何かの機械が低く唸っている。

 甲斐の声は、その重低音に溶け込むように響いた。


「そしたら、何かの拍子でラインが動いちまった。俺は、操作盤の前にいた。……若造が中にいるのは見えてた。非常停止ボタンも、俺の手の届くところにあった」


 甲斐は自分の右手をじっと見つめた。

 油まみれの、分厚い職人の手。


「でもな、俺は押さなかった。……いや、押せなかったんじゃねえ。押したくなかったんだ」


 真里は無言で聞き入る。

 普通の人間なら、ここで顔をしかめるだろう。だが、彼女の瞳には、好奇心の色しか浮かんでいない。


「俺は、パニックで怯えたフリして観察した」


 甲斐の口元が歪み、恍惚とした笑みが浮かぶ。

「ガシャン、って音がして……その直後だ。……ミチィッ!! パァァン!!」

 甲斐が手を叩いた。乾いた破裂音が工場に響く。

「スイカを叩き割ったような、いや、もっと湿り気のある……中身が飛び散る音。骨が砕けて、脳味噌が隙間から噴き出す、あの音」


 甲斐は身震いをした。

 20年前の記憶が、鮮度を保ったまま彼の中で再生されているのだ。

 鉄の冷たさと、命の熱さが混ざり合う瞬間。

 彼にとって、それは殺人ではなく、究極の音楽だった。


「あの音が、忘れられねえんだ。……鉄と肉が混ざり合って、一つになる音。あれ以上の快感は、この世のどこにもねえ」

 甲斐はタバコを床に投げ捨て、靴底で踏み消した。

「だから、俺はずっと探してたんだ。あの音を、もう一度再現できる機械を。……そして、それを理解してくれるパトロンをな」


 甲斐はギラギラした目で真里を見た。

「宇治木の旦那は、効率のために人を殺す。……だが、嬢ちゃん。あんたは違うな?」


 真里は微笑んだ。

 聖女のように美しく、そして底知れなく冷たい微笑み。

 彼女は一歩近づき、甲斐の汚れた手を取った。


「ええ、違いますね。……私は、面白いものが見たいだけ」

 真里は甲斐の目を真っ直ぐに見つめ返した。

「工場長。あなたは職人じゃないわ。……アーティストよ」


「アーティスト……!」

 甲斐の目が大きく見開かれた。

 その言葉は、彼の歪んだ自尊心をこれ以上ないほど満たした。

 社会から弾き出され、変質者として扱われてきた彼を、初めて肯定してくれた存在。


「ヒッ、ヒヒッ……! 違いねえ! 俺は芸術家だ!」

 甲斐は哄笑した。

 工場の天井に、狂った笑い声が反響する。

「そうだ、俺は鉄と肉でシンフォニーを奏でる指揮者だ! 最高の演奏者『アイギス』も完成した! あとは、楽器を待つだけだ!」


「ええ。もうすぐ、最初のお客様がいらっしゃいますわ」

 真里は、壁にかかったカレンダーを見た。

 そこに赤い丸で囲まれた日付。

 鏡浩司が、この工場を訪れる約束の日。


「最高のステージにしましょう。……最高の悲鳴が録れるように」


 工場の薄暗がりの中、純白のロボット『アイギス』だけが、赤く光るカメラアイで二人を見下ろしていた。

 その姿は、これから始まる血の宴を静かに待ちわびる、鋼鉄の死神そのものだった。


 巨大な悪意の塊が、ここで完成しようとしていた。

 そして、それぞれが互いを尊重し、共鳴していた。

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