第12話 ハイエナの嗅覚
鏡浩司という男にとって、「真実」とはスーパーマーケットに並ぶ精肉と同じだった。
鮮度が重要であり、腐れば値が落ちる。そして何より、パック詰めにして誰かに売りつけなければ、ただのゴミでしかない。
彼はかつて、大手新聞社の社会部に所属していた時期がある。だが、そこでの彼は「正義」という名の安い調味料が肌に合わなかった。
ある企業の内部告発をスクープしようとした際、彼はその情報を記事にする前に、当該企業へ高値で売り渡した。告発者の女性がその後、絶望して電車に飛び込んだ時、鏡は新しいロレックスの重みを左腕に感じながら、「弱いのが悪い」と吐き捨てたのであった。
以来、彼はフリーのジャーナリスト――実態は、企業ゴロまがいのゆすり屋として、東京のドブ川を泳ぎ続けている。
*
六畳一間のアパート。
淀んだ空気の中、鏡は万年床の上であぐらをかき、手元にある一冊の手帳をめくっていた。
コンビニで売っている百円の黒いメモ帳だ。表紙は手垢と油で薄汚れ、角が擦り切れている。
ページの中身は、彼の脳内と同じように混沌としていた。
殴り書きの文字、乱暴に引かれた赤線、そして無数の「?」と「¥」のマーク。
「……ライフ・アシスト・ロボティクス。……急速な黒字化」
鏡はボールペンの尻をカチカチと鳴らしながら、手帳のページを睨みつけた。
そこには、ターゲットとなる人物たちの名前が汚い字で記されている。
『宇治木政樹』――二重丸。
『網代真里』――波線。
『磯野拓海』――バツ印。
『宇治木栄子』――疑問符。
部屋の床には、カップ麺の空き容器や発泡酒の缶が散乱し、異臭を放っている。
ブーッ、ブーッ。
スマホが震えた。画面には『登録外:金融』の文字。
鏡は顔をしかめ、電源ボタンを長押しして強制的に切った。
「チッ、うるせえな。……焦るんじゃねえよ」
彼はガムを口に放り込み、クチャクチャと噛み始めた。
金がない。借金取りの足音はすぐそこまで迫っている。
だが、この手帳に書かれたネタが金になれば、一発逆転どころか、向こう数年は遊んで暮らせる。
彼の「嗅覚」が告げていた。
この会社からは、死体と金の匂いがプンプンする。
「……さて、裏取りといくか」
鏡は手帳をジャケットの内ポケットにねじ込んだ。
薄汚れたベージュのジャケットには、いつ付いたかわからないシミがあり、襟元にはフケが溜まっている。
彼はICレコーダーと安物のデジカメを掴むと、ゴミ溜めのような部屋を飛び出した。
*
雨の新宿。歌舞伎町の路地裏は、生ゴミと吐瀉物の酸っぱい臭いで満ちていた。
傘も差さずに濡れそぼる鏡の前に、ジャージ姿の男が立っている。
目が据わった、裏社会の末端構成員だ。
「……ギャラは?」
男が短く問う。
鏡は舌打ちをし、財布からしわくちゃの一万円札を数枚抜き取って、男の胸ポケットにねじ込んだ。
「ほらよ。これで全部だ。……で、どうなんだ? あの派遣社員、磯野拓海ってのは」
男は札の枚数を指先で確認し、ニヤリと笑った。歯が数本欠けている。
「ああ、あの気弱そうなガキか。……『出荷』されたよ」
「出荷?」
「ああ。借金漬けにされて、北関東の解体現場か、海外の臓器ブローカーか……ま、どっちにしろ『人間』としての扱いはもう終わってる」
鏡は手帳を取り出し、ボールペンを走らせた。
『磯野拓海:処分済み(確度高)』
「誰がやった?」
「女だそうだ。……網代って名前の」
男は声を潜めた。
「そのガキ、最後まで泣いてたらしいぜ。『網代さんは僕を助けてくれるはずだ』ってな。……ケケッ、傑作だよな。その女が、自分を売り飛ばした張本人だってのによ」
鏡の手が止まった。
背筋に走るのは恐怖ではない。歓喜の身震いだ。
一部上場企業の清楚な女性社員が、部下を罠に嵌め、裏社会に売り飛ばす。
完璧なスキャンダルだ。
「……へぇ」
鏡は口元のガムを噛み潰した。
「そいつは、高く売れそうだ」
拓海という青年の悲劇的な末路。
だが、鏡にとってそれは「かわいそう」な出来事ではなく、「商品価値が高い」ネタでしかない。
彼は手帳の『網代真里』の名前に、太い赤線を引いた。
「よし、次は『別モン』の方だ」
鏡は男に背を向け、雨の夜へと消えていった。
足取りは軽い。獲物を追い詰めるハイエナのステップだった。
*
深夜の総合病院。
精神科病棟の廊下は、死のような静寂に包まれていた。
消毒液と、古びたワックスの臭い。
鏡は『ワンタ製薬』という偽造の名刺を使い、警備員の目を盗んで侵入していた。
目指すは、特別個室。
そこに、フューチャー・ケア・ストラテジー社の社長夫人、宇治木栄子が収容されている。
鏡は音もなくドアを開け、中へと滑り込んだ。
薄暗い部屋の中、ベッドの上にその女はいた。
かつては宝石をジャラジャラとつけ、高飛車に振る舞っていたであろう社長夫人。
だが今の彼女は、鎮静剤で意識を朦朧とさせられ、拘束ベルトで手足を固定されている。
「……奥さん」
鏡はベッドの脇に立ち、ズームレンズを向けた。
ファインダー越しに見える彼女の手。
そこには分厚い包帯が巻かれ、まるでグローブのように腫れ上がっている。
何か大きな手術をした後のようだ。
「週刊誌の者です。……宇治木栄子さんですね?」
栄子は虚ろな目で天井を見つめていたが、人の声に反応してゆっくりと首を動かした。
その瞳に光はない。深い井戸の底のような闇が広がっている。
「……しろ……い……」
乾いた唇から、掠れた声が漏れる。
「白い? 何がです?」
鏡はICレコーダーを彼女の口元に突きつけた。
「その手、旦那さんの会社のロボットにやられたって噂、本当ですか? 『アイギス』とかいう……」
『アイギス』。
その単語が出た瞬間、栄子の身体が跳ねた。
彼女の脳裏に、鮮烈な記憶がフラッシュバックする。
リビングに響く夫の冷たい命令。
機械仕掛けの白い悪魔。
その後ろに冷酷な4つの目。
ミチミチと音を立てて潰れていく自分の指。
「いやぁぁぁぁぁっ!!」
栄子が絶叫した。
それは人間の声というより、罠にかかった獣の咆哮だった。
彼女は拘束されたまま暴れ、包帯の巻かれた手を振り回そうとする。
「こないで! ごめんなさい! 私が悪かったの! 政樹さん、許して! もう折らないで! 痛い! 痛いぃぃぃっ!!」
狂乱。
鏡はその凄まじい悲鳴を聞きながら、思わずニヤリと笑みを漏らした。
レコーダーのレベルメーターが、赤く振り切れて点滅している。
(……いい音だ)
彼は心の中で快哉を叫んだ。
妻をここまで壊したのは、間違いなくあのエリート夫だ。
そして、その凶器は介護ロボット。
これが公になれば、宇治木政樹は終わりだ。会社も吹っ飛ぶ。
それを防ぐためなら、彼らはいくらでも金を出すだろう。
廊下の向こうから、看護師たちの慌ただしい足音が聞こえてくる。
鏡は手帳に『証拠確保』と殴り書きし、素早く部屋を飛び出した。
背後で響き続ける栄子の悲鳴は、彼にとって勝利のファンファーレだった。
*
数日後。
赤坂の高級料亭『松雲風』。
黒塗りのハイヤーが砂利を踏む音と共に停車した。
運転手が恭しくドアを開け、宇治木政樹が降り立つ。
仕立ての良いダークスーツに身を包み、塵一つない革靴を履いたその姿は、成功者のオーラを纏っている。
そのすぐ後ろには、秘書のようにつき従う網代真里。
二人が門をくぐろうとした時、鏡は電柱の陰から飛び出した。
数日間風呂に入っていない体から、酸っぱい臭いが漂う。
彼はヘラヘラと笑いながら、二人の前に立ち塞がった。
「よう、ウジキサン。いい店使ってんねぇ」
宇治木は立ち止まった。
眉をわずかにひそめ、ハンカチを取り出して口元を覆う。
「……君は?」
「追々話しますけど、まずはこれを…」
鏡はポケットからICレコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。
『……もう折らないで! 痛い! 痛いぃぃぃっ!!』
栄子の断末魔のような叫びが、静謐な料亭の入り口に響き渡る。
網代が無表情のまま、瞬きを一つした。
宇治木は動じない。ただ、冷徹な視線で鏡を見下ろしている。
「奥さん、いい声で鳴いてましたよ。……それと、磯野くんって派遣社員の話も聞きました。彼、随分と遠いところへ『出荷』されたそうじゃないですか」
鏡は下卑た笑みを浮かべ、汚れた指先を擦り合わせた。
クチャ、クチャとガムを噛む音が、静寂を汚していく。
「これ、記事になったらマズいですよねぇ? これからロボットを大々的に売り出そうって時に。……誠意を見せてほしいなぁ」
鏡は手帳を開き、あらかじめ書いておいた数字を指差した。
「『協賛金』として、まずは300万ほど」
宇治木はため息をついた。
それは恐怖や焦りからではなく、服についた糸くずを見つけた時のような、些細な不快感の表れだった。
彼は左腕のロレックス・デイトナに視線を落とし、時間を確認してから、ボソリと言った。
「……300万か」
「え?」
「安いな」
宇治木の声には、感情の色がなかった。
「君の命の値段だよ」
鏡が一瞬呆気にとられていると、宇治木はすぐに営業用の薄い笑みを浮かべた。
「……冗談だ。いいだろう。だが、ここでは目立つ。現金の受け渡しには相応の場所が必要だ」
鏡の顔がパッと明るくなった。
勝った。
このエリートを、俺がねじ伏せたんだ。
300万があれば、借金は返せる。そして、こいつらを飼い殺しにすれば、もっと毟り取れるかもしれない。
鏡の手帳にはすでに、次の要求額として『500万』という数字が薄く書かれていた。
宇治木は網代に目配せをした。
網代はバッグから一枚の名刺を取り出し、その裏にさらさらと地図を書いて鏡に差し出した。
「後日、こちらの場所へいらしてください。……『特別な工場』です。そこで、ご希望のモノをお渡しします」
網代の声は、鈴のように澄んでいた。
鏡は名刺を受け取った。
場所は、湾岸エリアの埋立地。
『甲斐鉄工所』。
「へぇ、工場見学のおまけ付きか。楽しみにしてますよ」
鏡は名刺を汚い手帳に挟み込み、上機嫌で手を振った。
「じゃ、待ってますよ。……お二人さん」
鏡は背を向け、ガムを噛みながら雑踏の中へと消えていった。
自分が手にしたのが、現金への引換券ではなく、地獄への片道切符だとも知らずに。
残された宇治木と網代。
宇治木は、鏡が立っていた場所の空気を手で払った。
「……不愉快な臭いだ」
「そうですね。ドブと、獣の臭いがします」
網代は、鏡の背中が見えなくなった方向を見つめ、クスリと笑った。
その瞳は、ガラス玉のように冷たく光っている。
「テスト用の検体が見つかったな」
宇治木が静かに告げる。
「甲斐工場長に連絡を。……『最高の素材』を送ると伝えろ」
「はい。きっと工場長も喜びます。……彼なら、骨の髄まで無駄なく使ってくれるでしょうね」
二人は夜の料亭の前で、優雅に微笑み合った。
遠くで雷鳴が轟き、再び冷たい雨が降り始めていた。




