「キュン・トグスゥッカ(東へ)」
しばらく何を考えるでもなく、ただ海を見つめていた。
潮風がただ心地よかった。天気もいい。
このまでのことも、これからのことも、今この瞬間には何も頭になかった。
ただ心の中が空っぽになっていた。
そのうちに無性に体を動かしたくなった。何しろ長い間眠っていたのだから、体が思ったよりも硬く、重くなっていた。
先ずは硬くなった体を徐々にほぐしていき、それから筋肉を動かす運動をした。
だんだんと体が生き返っていく感じがした。
ひとしきり体を動かした後、ふと甲板を見渡すと棒きれが転がっていた。
そばにいた船員に、その棒切れを使わせてほしい旨を伝えた。ただのゴミだから好きなようにすればよいといわれたので、これを使わせてもらうことにした。
なにしろ死体のふりをして船に逃げ込んだのだから、武器などは一切持ち込んでいない。しかしせっかく体を動かすのだから剣の稽古はしたい。ちょうどいい感じの棒があったので、ちょうどよかった。俺はその棒でかつて日課のようになっていた剣の素振りをした。
まだ本調子とはいえないまでも、ある程度体は動く。
やってるうちに徐々に動くようになっていったので、つい熱中してしまった。
頬にあたる潮風が心地いい。よく考えたらこんな大空の下で剣を振るのは久しぶりのことだった。こんな爽やかな気分になるのも、よく考えたら久しぶりのことだった。
久しぶりに体を動かすのに熱中して、気が付いたらもう日が傾きかけていた。
俺は剣を振るのを止めて、またしばらく海を眺めた。
太陽が海を赤く染めながら水平線に沈んでいく。
地平線に沈んでいく太陽は何度もみたが、水平線に太陽が沈むのは初めて見た。
海と砂漠は同じようだと思った。
「お前さん、ずっとここにいたのか。」
気が付くと、いつの間にか後ろにいたリュウ老人が声をかけてきた。
「ああ、ちょっと体を動かして、海を見てたよ。」
「そうか、そろそろ宴会が始まる。今日はお前さんはわしの客だからな。さあ、船室に戻ろう。」
そう促されて、リュウ老人の後について船室に戻った。
すでに宴席の用意はできていた。結構な数の人が参席していた。
「さあ、皆の衆、明日はホランに寄港する。今宵は皆との出会いを祝してささやかな宴を催した。船の上なのでたいそうな食い物は用意できんが、なに、酒なら売るほどある。皆、盛大に飲んで食って楽しんでくれ!」
リュウ老人が声をかけて、宴席はおおいに盛り上がった。これほどの酒食をふるまうのだから豪気な老人だなと感心した。
皆、思い思いに料理を楽しみ、そしてやたらと酒を勧めてきた。
「お前さんも、さあ、盛大に飲んでくれ。これはわしの故郷の酒じゃ。」
「俺は酒はあんまり、、、」
「まあまあ、とにかく飲まんことにははじまらん。先ずは杯を空けてからじゃ。」
俺は目をつぶって杯を空けた。――かなり強い。こんな強い酒ははじめてだ。
「おお、若いの、いける口だねぇ!さあさあ、もう一杯、もう一杯。」
いろんな人が次々と酒を勧めてくる。食い物もうまい。勧められるままに酒をあおり、俺もすっかり気分がよくなってしまった。
「わははは、さあ、あんたも一杯。せっかくなので俺も一杯。こうなったら飲み比べだ!さあ、かかってこーい!ぎゃはははは!」
今まで地下で鼠のように暮らしていた反動からか、俺は完全に調子に乗ってしまい、そのうちに何が何だかわからなくなって、すっかり正気を失ってしまった。
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――頭が痛い。割れるように痛い。
ひどい頭痛を感じながら目が覚めた。ここはどこだろう。周りを見渡した。
どこかの船室の隅に転がっていたようだ。なぜこんなところにいるのか。
宴会の途中からその後どうなったのか、一切の記憶がない。
とにかく起き上がって甲板に出てみることにした。
そういえば今日はホランの港に着くはずだ。今日で船を降りなければならない。
船を降りる前にリュウ老人にも礼を言わなければ。
甲板に出ようと船室をさまよっていると、ちょうどリュウ老人に出くわした。
「ああ、リュウさん、会えてよかった。本当にありがとう。大変世話になって、本当に感謝している。俺はホランで船を降りるよ。この恩は決して忘れないよ。」
リュウ老人は驚いたような顔をしていたが、
「お前さん、何を言っとる。もうホランはとっくに出たぞ。今までどこにおった。」
「えっ?」
「そういえば降りる者のなかにお前さんの姿が見当たらんかったでの。なんかおかしいなとは思っとったんじゃが。」
「ええっ!?」
「もう昼過ぎじゃぞ。一旦外にでてみろ。」
あわてて甲板にでてみた。周りは辺り一面の海でもう港も陸地も見えやしない。日もすっかり昇り切ってしまっている。
「――降りそびれた、、、、」
傍らでリュウ老人が大笑いしていた。
「ぎゃははは、酒につぶれて降りそこなったか。やらかしたの。若い、若いな。酒は飲んでも飲まれるな、じゃぞ。」
「――笑い事じゃないよ。まずい、どうしよう。」
「わははは、まあ、やらかしてしまったもんは仕方がない。まあなんとかなるじゃろ。若いんだから。」
たしかに、落ち込んでばかりもいられない。これからの身の振り方を考えなければ。
俺はホランで降りるはずだったのだから、今の俺は無賃乗船している状態だ。金など持ってはいない。このままだと船から叩き出されるかもしれない。こんな海の上で叩き出されても陸まで泳いでたどり着くはずもない。こうなったら、、、
俺は船員を捕まえて、ホランで降りそこなった事情を話した。
「申し訳ないが、俺には持ち合わせもない。俺をこの船の船員として雇ってもらえないだろうか。」
「――なるほど、とにかく事情は分かった。ちょっと船長のところまで来てくれ。」
俺は船員とともに船長のところに向かった。
船長は船員から事情を聴くなり大笑いした。
「ぎゃははは、酔いつぶれて降りそこなったって?あんた、腕っぷしは相当だって聞いてたが、そっちのほうはダメダメだな。」
「――面目ない、、、」
「まあ、仕方ない。こんなところで放り出すわけにもいかねぇしな。幸い人手は足りてねぇんだ。こうなったらここで働いてもらうしかねぇな。」
「――何でもやらせてもらいます。」
「なに、仕事はくさるほどあるんだ。この船は最終的にはシーナの沿岸の港まで行くが、途中2か所ほど寄港する。仕事としては甲板や船室の清掃、帆の上げ下ろし、それから交代で航路の見張り、港での荷上げ、荷下ろしと荷役、他には諸々の雑用ってところだ。どうせ働いてもらうんなら、できれば最後の港までいてほしいがどうする?」
そうか、この船はシーナまで行くんだった。もともと俺は一度シーナを見ておきたかったんだった。そう考えればサマルクでマリシュたちに礼を言うのが後回しになることは申し訳ないが、このままシーナに行けるんなら行った方が都合がいい。
「わかった。シーナの港までこの船で働かせてもらうよ。感謝します。」
「よっしゃ、じゃあ契約成立だ。仕事の詳細は他の船員たちに聞いてくれ。頼んだぜ。」
――なんとかなった。
取り急ぎ俺はリュウ老人に経緯を説明し、改めて礼を言うことにした。
「なんとかシーナまでこの船で働かせてもらうことができたよ。リュウさん、改めてありがとう。またしばらくよろしく頼むよ。」
「はっはっは。人生とは数奇なものじゃの。何が起こるかはわからん。せいぜい人生を楽しむことじゃ。」
「ああ、本当にそうだな。」
老人のいう通り、思えば部族が襲撃され滅ぼされて以来、いろんな運命に翻弄されてきた。これからもどんなことが起こるのかわからない。このあと俺はどこへ向かって何をしていくべきなのかも、まだわからない。とりあえずは流されるまま人生の旅路を楽しんでいくのも悪くない。そのうちにやるべきことが見つかるだろう。
「おーい、新入り!こっちへ来てくれ。さっそく段取りを説明するぞ!」
「はい、今、行きます!」
船は東へ航路をとり、未知なる世界へと大海原を進んでいく。




