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海と少女  作者: 緋色ざき
12/31

休み明け

「一帆、起きろー」

 そんな声が耳元に鳴り響いたような気がした。しかし起き上がってみても誰もいない。

 枕元の目覚まし時計に目を向けると八時。僕のここ一週間くらい続いた起床時間だ。毎日のようにこの時間に海里が起こしに来て、二人で遊びに行っていた。どうやらそのせいで僕の体に起床時間が刻み込まれてしまったみたいだ。 

習慣とは、かくも恐ろしきものだ。

 起き上がって顔を洗うと居間に戻り、カレンダーを眺める。今日、四月八日のところが赤いペンで丸つけられていて、大学再開と書かれている。ただこれは僕が書いたわけではない。海里がいつのまにか勝手に書き加えていたのだ。

 なんだか僕の周りの至る所で海里の影響が生じている気がした。探してみればもっと見つかるかもしれない。

 朝ご飯を食べなきゃと、トーストをオーブンに入れる。それからお湯を沸かす。やかんを眺めながら、僕はふと考える。海里のことだ。

 この一週間、毎日一緒にどこかへ行っていた。このあたりのことについて海里はだいぶ詳しくなったんじゃないだろうか。

 しかし今日から学校が始まるということで、これからしばらくはあまり遊べなくなることを話すと、ブーブーと不平不満をもらしていた。そして、ゆかりさんと遊ぶもんねと拗ねていた。

 オーブンからチーンと音がした。ちょうどやかんの中の水もぼこぼこと沸騰していた。僕は手際よく準備して、朝ご飯を食べる。一人で食べる静かな朝は久しぶりで少し変な感じがした。

 着替えてバッグを持って家を出る。

 柔らかい風が僕の頬をなでる。

「おっ、一帆。いってらっしゃい」

 階段を降りると洗濯物を干している大家さんから声がかかった。白いシャツがひらひらと風になびいている。

 自転車にまたがると、いってきます、と笑顔で答えて僕はさざなみ荘をあとにする。

 昨日も、一昨日も、そのまた前の日も通った細い道を僕はまた歩いて行く。

 これまでも帰省を終えた大学生によって日に日に人が増していくのを感じていたが、今日は一段と増えた気がした。中には緊張した面持ちで歩く子もいる。 きっと新入生だろう。そう思うと、なんだか少し微笑ましくなった。

 脇道を抜けて駅の前へ出ると、学生の数がさらに多くなった。皆一様に大学へ向かって歩いて行く。この異様な光景。改めて大学が始まった感覚がした。


 階段の横のスロープを上り、構内をしばらく走って行き、駐輪場所に自転車を止める。それから、その横にそびえ立つ一号館へと足を運ぶ。

「教室は、一○五だったかな。海里の部屋の番号だ」

 思わずくすっと笑ってしまう。

「なに笑ってんだ、一帆」

 突然、背中を叩かれた。振り返ると、長身でがっちりした褐色の男が立っていた。

「お-、久しぶりだな、卓」

 思わず声に嬉しさがこもる。卓と会うのは休み前の授業以来だ。春休みに遊びに誘ったが、バイトやらなんやらで予定が合わず、ついぞ会えなかった。

「おお、久しぶりだな、一帆」

 爽やかな顔で笑う。その顔は、以前となんら変わりない明るいものだった。

「卓はなんの授業を受けるんだ?」

「うん?一○五教室の授業だよ。一帆も一緒だろ?」

 僕はそれに頷く。僕も卓も専攻が一緒だからそうだろうなとは思っていた。並んで教室へと向かう。歩きながら、僕はふとあることに気づいた。

「なあ、卓。もしかして、身長伸びた?」

 並んでいると、以前よりもその頭が高いところにあるような気がしてならない。この巨体でさらに身長が伸びるなんて考えにくいが、げんに僕の目線は以前よりも上を向いている。

「ああ、実はそうなんだよ」

 卓ははにかむ。僕は少し悲しくなった。世の中、身長が欲しい人は背が伸びず、むしろ無関心な人の背が伸びていく。卓なんて、きっと生まれてこの方身長について考えたこともないだろう。

 とはいえ、別に僕の身長が低いわけではない。去年の計測では百七十三センチあったし、平均よりは高い。けれど百八十をゆうに超える卓と並ぶと、どうしても気にしてしまう。

「あらら、もう結構席が埋まってるな」

 そんな僕の気持ちなんか知るよしもない卓が教室を見て、そう述べる。たしかに、教室の後ろの方の席はだいぶ埋まっていた。

 大学生は本当に後ろの席が好きみたいだ。ほとんどの学生があまり授業に対してやる気がないんだなと思う。

「まあ前の方は意外と空いてるし問題ないか。黒板も近いしラッキーだな」

 ただ、卓は僕の描く大方の大学生とはかけ離れた思考回路を持ち合わせていた。意外と真面目でなおかつポジティブ。僕は卓のそういうところがわりと好きだし、だからこそ良好な関係を築けているのかもしれない。

 前に置かれたプリントを取って、僕らは前方の席に腰掛けた。ギシッと椅子の軋む音が耳に届く。

 ここの設備も休み前となんら変わっておらず、思わず苦笑が漏れる。この大学は公立ということもあって、授業料は国立と同様に一律の値段である。私立に比べれば比較的安価だが、そのせいか設備投資にお金をあまりかけていないように思える。もちろんきれいな教室もあるのだが、そことの落差も激しいのである。

 ただ、僕の左側に座る卓は椅子の軋む音なんて全く気にした様子もなく、せっせと筆箱とノートを出していた。こういう姿を目の当たりにすると、もしかしたら、僕がただ繊細なだけなのかもしれないとも感じて、その神経の図太さが羨ましくもなってしまう。

「うん、どうした?」

 卓がいつの間にか僕の方を向いていて、わずかに首を傾げた。いや、なんでもないよと答えて視線を外すと、リュックから筆箱を取り出す。ノートはプリントもあるし、必要はないだろう。

「隣、いいかな」

 不意に右側から声をかけられた。

「はい、どうぞ……、って先輩?」

 振り返ると、見知った顔の女性が手をひらひらさせて立っていた。僕の部屋の隣の住人にして、大学三年生の佐倉港だ。

「久しぶりだね、一帆。それから伊勢原くんも」 

 よっと僕の隣に腰掛けて微笑む。ほんわかと甘い香りが漂う。

 驚く僕とは対照的に、卓はお久しぶりです、佐倉先輩、と普段通りの爽やかさを醸し出していた。

「そういえば、一帆。聞いたよ」

 カバンを置くとすぐににやにやと笑みを浮かべる先輩。

「なにをですか?」

 卓が興味ありげにそれに問い返す。なんだかひどくいやな予感がする。

「女の子をさざなみ荘に連れ込んだんでしょ」

 その言葉が発せらるや否や、教室内の空気が冷たくなったような気がした。

 その想定外であったであろう内容に卓は目を丸くした。

「ち、違いますよ」 

「いやらしいやつですなあ」

 慌てて否定するが、先輩は全く聞き耳を持たず笑っている。

 こうなったら、もう頼れるのは一人しかいない。

「卓ー」

 頼みの綱はお前だけだ。お前なら、真実を見極めてくれるはずだ。

「えっ、あー。意外と活発なんだな」

 目を逸らしてそう口にする。もうだめみたいだ。誤解は解けずじまいで卓にも白い目を向けられてしまった。

「まあ、半分くらい冗談だけどね」

 てへっとはにかむ先輩。

「あの、殴っていいですか」

 いま先輩を殴っても許されるくらいには彼女の行動は外道だったと思う。

「女の子に手をだしちゃだめだよ」 

 真顔でそう返される。分かっている。手を出せないことは。でも、僕が一方的に苦しむなんて理不尽な話である。

「それで、佐倉先輩。本当は何があったんですか?」

 けろっとした顔でそう問いかける伊勢原。先ほどまでの面影は一切見受けられない。さてはこいつ、冗談だと気づいていながら演技していたな。

「えーっと、実はこれゆかりちゃんから聞いた話なんだよね。だから当事者の一帆が話してよ」

 やっぱり元凶はあの人だったか。まあ、分かりきっていたことではあった。そもそもあの日、先輩はまだこっちに戻ってきてなかったし。

 しかしこれは、むしろ好都合だ。大家さんはある程度話を脚色して先輩に伝えていそうだし。

「実は――」

「おーし。授業を始めるぞー」 

 僕の声に教授の声がかぶさる。いつのまにか授業開始の時刻になっていたみたいだ。

「えーっと、授業後にでも話します」

 先輩と卓はそれに頷いた。

 教授がマイクを持って話し始める。僕にとって久しぶりの授業が始まった。


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