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次の朝、お母さんはハルトをいつもより早く起こした。
「今日は出張だから、今夜はお母さんいないからね。だからって、絶対に絶対に、好き勝手しないこと! 学童が終わったらまっすぐ家に帰って、早めに寝ること! 絶対よ! 守ってね? それから……」
お母さんは注意事項を長々としゃべりながら朝食のパンと牛乳をテーブルに置くと、慌ただしく出かけて行った。もちろん、ねぼけまなこのハルトの耳には、その内容の半分も入ってきてはいない。
一人になった家の中で、ハルトはテレビが流している朝のニュースを、パジャマ姿のまま、ぼけっと眺めた。気付けば登校の時間になっていたけれど、かまわずにテレビを眺め続けた。どうせバレやしないし、親の言うことをお利口に聞いて学校に行く必要もないように思えたのだ。
テレビ番組がつまらなくなってきたので、録画していたアニメをつけると、主人公の男の子が母親に怒られた反抗に、家を飛び出す場面が流れた。
「そうだ! コレだ! 家出しよう!」
ハルトは思い立つと、テーブルの上の千円札を握り締めた。二日分の、二枚だ。一緒に置かれていたメモには『もう、友だちを家に入れないこと、だいどころを使わないこと、九時までに寝ること』などが追記されていた。
そこに、ハルトはもう一言、つけたした。
『さがさないでください』
家出の決まり文句だ。
リュックサックに、いろいろと家出の道具を詰め込んだ。着替えや懐中電灯、レジャーシート、お菓子やペットボトルの飲み物、あと、ちょっとした宝物。貯めていたお釣りも全部ズボンのポケットに入れて、家から飛び出した。
とっくに授業が始まっている時間、小学生なんて一人も見かけない。少しの罪悪感と開放感で歩く、晴れ晴れとした平日昼間の町は、いつもと違った景色にも見えた。
多少お金はあるから、すぐにでも電車やバスに乗って遠くに行くこともできた。けれど、ガイアとレイに一言、家出のことを告げたくて、ひとまずは秘密基地に向かう。そこで学校が終わる時間まで待っているつもりだ。どこかに行くのはそれからでも遅くない。
子ども広場には、まだ幼稚園にも行かない小さな子どもとそのお母さん、それと保育園の園児の集団が遊んでいた。その人たちの目になるべく入らないように、少し遠回りになるけれど広場は通らずに、森へと向かう。
太陽に明るく照らされた秘密基地は、なんだか自分たちのものではないように感じながら、ハルトはリュックサックを放り入れて、フェンスと生垣のすきまをくぐった。
「合言葉は?」
当然自分ひとりだと思っていたところに唐突に声をかけられ、ハルトは飛び上がるほどにおどろいた。
「森の中! ……その声は、レイ?」
「ハルト、学校は?」
レイが倉庫からひょこっと顔を出しながら聞いてきた。
「レイこそ、学校は?」
ハルトは聞き返す。
「僕は……もともと学校行ってないんだ。ハルトはどうしたの?」
「ぼくは、家出してきたんだ。だから、学校にも行かないよ」
ごく真剣なつもりのハルトをよそに、レイはふふ、と笑ったので、ハルトはムッと顔をしかめた。確かに今思えば、アニメに触発されて突然家出だなんて、ちょっと子供っぽすぎたかもしれない。そんな気恥ずかしさもあっての、しかめ面だ。
「ごめんごめん。考えること、同じだなぁと思って」
レイがそう言った時、フェンスがガシャガシャと大きな音をたてた。
音をたてた主はガイアだった。プリンカップいっぱいのキンモクセイの花を片手に基地に入ってきた彼は、ハルトの姿を見て「へ?」と声をもらした。
「ハルトも家出だって」
レイがガイアに向かって言った。ガイアはにやりと笑いながら立ち上がり、ハルトに言った。
「昨日、ごめんな。めちゃくちゃ怒られただろ? 殴られたりした?」
「めちゃくちゃ怒られたけど、殴ったりはないよ。誘ったのはぼくなんだから、ガイアがあやまることないし」
「なんで家出?」
「怒られたことより、もっと嫌な気分になることあったし、もう、今までお母さんに放っておかれたこととか、全部、いろいろ嫌になって、もうこの家にいなくていいかなって。……ガイアは?」
「昨日、お前のお母さんに送ってもらっただろ? うちの父さん、それが気に入らなかったらしくてさぁ。恥かかせやがってとかなんとか……どっちがはずかしいんだよっつーのな。
オレなんてどうせ、いないようなもんだったし、もういなくなってもいいかなって」
「ガイアもぼくも、いなくなった事にも気づかれなかったりして」
「ハルトはさすがに気付かれるだろー。セケンテイが悪いから!」
「それは……そうかも? じゃあソウサクネガイとか、やるのかなぁ? どこに行ったら見つからないだろう?」
「じゃあ、二人とも、僕のうちにおいでよ」
レイがニコニコしながら、話に割り込んだ。
「僕のうちなら、絶対に見つからないよ」
確かに、レイは学校に行っていないと言っていたし、他の友達と遊んでいるところも見たことがないから、友達つながりで見つかることはないように思えた。
「でも、ハルトのお母さんみたいに、子どもがずっといたら、そのうち帰れって言うんじゃねぇの?」
「帰れなんて言う人なんか、いないよ」
「お母さんがすごく優しいの? それとも、うちみたいに全然帰ってこないからってこと?」
「いろいろ聞くよりも、来た方が早いよ! カラダはもう大丈夫。僕らの食べ物を何度も食べているし、この秘密基地も半分は混じってるし、すぐに順応できるよ」
ハルトはレイの言っていることがよくわからなくて
「どういうこと?」
と、たずねる。
「僕の家は、ココだけど、ココじゃないところにあるんだ」
レイはまたよくわからないことを言った。ハルトとガイアは顔を見合わせた。お互いに、期待のなかに少し恐れが混じったような、なんともいえない表情をしていた。
「……レイはひょっとして……人間じゃない、とか?」
「いやいや、そんなまさか……ハルト、何言ってんの?」
「まさかでもないでしょ。だって、今まで食べてたもの、ガイアはどう説明するの?」
「でも、レイも、わからないって言ってた」
「“説明できない”って言ってたよ」
「そんな細かいこと覚えてねぇよ」
「それに、昨日のお母さん、レイがいることに気づいてないみたいだった」
「じゃあ、なに? レイはオバケかなんかだって言いたいの?」
ハルトとガイアは、同時にレイをまじまじと見た。それから、さわってみた。レイはにこにこと笑いながら、されるがままだ。
レイは自分たちと、なんら変わりなかった。足もちゃんとあるし、さわれるし、あったかいし、昨日は一緒にカレーも作った。オバケだとは思えない。
「案ずるより産むが易しってね。難しく考えないで! 見つかりたくないんでしょ?」
レイは両手を、それぞれの前に差し出した。ガイアがその手を取ったのを見て、ハルトもそうしないといけないような気がしてきて、ためらいながら、レイの手を握る。
「さあ、ようこそ。僕の国へ」