真夜中。
その日は、僕の誕生日だった。
少し遠いケーキ屋さんに、特別なケーキを注文したのだという。
取りに行くのは父の役目だった。
だけど、その話をこっそり聞いていた僕は、ケーキが到着するのを待っていられず、一緒に付いて行くと言って聞かなかった。
困った顔をした母が「じゃぁ皆で行きますか!」と明るく笑う。
イチ兄も、フタ姉も二つ返事で一足先に車へ乗り込んだ。
そのときはまだ、雨に混ざった霙が道路を塗らすくらいで、まさかそれが大雪に変わろうとは予想もしていなかった。
だんだん強くなっていく風と雪に「天気予報も当てにならないな」なんて笑って。
それが、最後だった。
叫び声がしたような気がするし、誰も、何も、言えなかった気もする。
騒音がまさしく僕の耳を裂いて、世界は暗転した。
「っ―――――!」
ばちん、と弾かれるように瞼が開く。
ドクドクと脈打つ血管が耳の奥でけたたましい音をたてている。
慌てて半身を起こすと、急激な体勢の変化についていけなかった右足に激痛が走った。
「っ―――――!!ぅう」
思わず呻いてから右の太ももから膝までを手の平で強く擦る。痛みが散るように必死になって何度も擦ると手の平が熱くなった。
はぁはぁという呼吸が、静寂が支配する部屋に響いている。
しばらくの間、ベッドでのたうつようにして痛みを堪えていると、
「起きたのか」
ノックもせず、無造作な仕草で瑠維が部屋に入ってくる。
手にピッチャーとコップを持っているところを見ると、僕が起きたときのために水を用意してくれていたのだろう。
それをベッドサイドテーブルに置いて、上半身を丸めるようにして蹲っている僕の背を優しくなぞった。
「痛むのか」
返事もせずにこくこく肯くと、ギシリと音をたてて僕の寝ていたベッドに腰を下ろす。
「薬は?」
あらかじめ用意していたのか、瑠維の手には既に痛み止めが握られていた。
首を振ると、少し息をついて「そうか」と呟いて、その薬をピッチャーの横に落とす。
そして、僕の呼吸が整うまで背中や右足を摩ってくれた。
「・・おばさんと、おじさんは?」
「もう寝てる」
「そう、・・え、今何時?」
「夜中。・・2時半か。晩飯のときに声掛けたんだけど起きなかったから」
壁掛け時計に視線を滑らせながら瑠維が僕の額に手を置く。
「まだ熱、下がらねぇな」
「ご飯、食べそこなっちゃった・・」
「今日の晩飯はとんかつだ。体調悪いのに、油もんなんてどうせ食えねぇだろ。今、卵粥作ったから。それなら食べれるだろ」
「瑠維が、作ったの?」
「ああ」
ちょっと待ってろ、とちらりと僕の右足を一瞥して部屋から出て行った。
出て行く瑠維の背を視線で追っていると、一瞬見えた扉の向こう側の廊下は真っ暗で静まり返っていた。瑠維はきっと僕の為だけに起きていたのだろう。
申し訳ない気分と、瑠維が僕にだけ優しさを示してくれることに少しくすぐったい様な喜びが湧き上がる。
しかも卵粥なんて、と、思わず笑みが漏れた。
そして、自分の口元が笑みを作ったのが分かった瞬間、今度は心臓の辺りが一気に熱を失う。
僕は一体、何様なんだろう。
瑠維はこの家の息子で、僕はその家の一室を間借りしているだけの存在だ。
いわば家主の息子を顎で使っているも同然なのに、偉そうに、それを享受して。
いくら幼馴染とはいえ褒められたことではない。
実際、瑠維の両親は危惧している。
瑠維の時間が、僕の為だけに費やされることに。
きっと、幼い頃はそれで良かった。
僕は今よりもずっとずっと精神的に不安定で、体調なんて「良い」と呼べるときがないほどだった。病院と家を行ったり来たりして、学校にはもちろん通えない。
夜眠れば、夢も見ないのに自分の泣き声で目を覚ます。
目を覚ます度に泣きながら母や兄弟たちや父の姿を探す僕に、家族は皆死んだのだと言い聞かせる人間が必要だった。
僕はそれを聞かされるたび、律儀にも、毎回絶望した。
昼間は昼間で、激痛や高熱に苛まれ、リハビリにも泣かされて、それまでとは全く変わってしまった日常に僕はただただ混乱していた。
寂しくて怖くて悲しくて、過ぎていく日々も、これから訪れるだろう日々も恐ろしくてたまらなかった。
たった一人で生きる未来を想像するとき、僕は叫びだしたいような衝動に駆られた。
だから、心を預けられるような、そんな心強い存在が必要だったのだ。
瑠維は、僕にとってまさしく、そういう存在だった。
雰囲気が、どこかイチ兄に似ていたのもあるだろう。
いつだって兄貴分的な役割を担っていた幼馴染の瑠維を、僕は、心の拠り所として選んだのだ。
瑠維は何も言わなかった。
ただ傍にいてくれて、時々、僕を抱きしめてくれた。
だけど、思わずにはいられない。
同い年であるにも関わらず、僕という厄介者を背負わされた瑠維は一体どんな気持ちだったのだろうか。
「三津?何ボーッとしてるんだ。ほら、飯持ってきたぞ」
卵粥の作り方だって、僕の為に覚えたんだっていうことをちゃんと知ってる。
「ありがと。わぁ、おいしそ」
湯気のたつ一人分のお粥がテーブルに置かれる。
足を投げ出してベッドに腰掛けると、そのテーブルを引っ張り寄せて僕の前に置いてくれる。
部屋の大きさからすれば座卓のほうが都合が良いのだけれど、足のことを考えると床に座るのは負担が大きい。
だから、テーブルだけを用意して、ベッドに腰掛けるようにした。
「・・おいし」
ふうふうと冷ましながら少しずつ口に運ぶ僕を、瑠維は床に座って雑誌を読みながら時々眺めている。
食えなかったら残して良いからな、と言われて、その父親のような口ぶりに思わず苦笑が浮かんだ。
「瑠維、先に寝てても良いよ」
「あ?」
器用に片方の眉だけを上げて、何言ってんだお前と言いたげな眼差しがこちらを見上げる。
常にない視線の向きに思わず、瑠維の頭に手が伸びた。
見上げるばかりの瑠維の顔が下にあるのが何だか可笑しい。
普段は撫でられるばっかりなので、あまりないチャンスに遠慮なく瑠維の頭をかき混ぜる。
お風呂上りのさらさらとした感触が気持ち良い。
人に触られることを極端に嫌う瑠維も、幼馴染の僕がやる分には文句がないらしく、されるがままになっている。
「・・お前、明日は学校休めよ」
「え?」
「明日は天気が悪いらしいし、このままだと朝までには熱下がらねぇだろ」
「うん、そうだけど・・瑠維はちゃんと行きなよ」
「・・ああ」
「ちょっと、何、その間は!」
「・・」
きっと僕と一緒に休むつもりなのだろう。読んでいた雑誌を脇に置いて大きなあくびをしている。
瑠維は基本的に自分のやりたいようにやりたいことをする人間なので、これ以上は僕が何を言っても無駄だ。それでも心の底では納得がいっていないので、触っていた髪を若干引っ張ってしまった。
顔をしかめた瑠維が僕の手を払う。
そのあたりでお腹いっぱいになったのでレンゲを置いた。
「おし、じゃぁ寝るか」
立ち上がった瑠維が土鍋をお盆に載せて運び出す。
僕も歯を磨こうと立ち上がろうとしたのだが、当然のごとく失敗した。
さっき痛んでいた右足に力が入らなかったのだ。
座っていたベッドに勢いよく右手が落ちる。
出て行こうとしていた瑠維が目敏くそれに気づいて、
「そのまま待ってろ。いいか、まだ立ち上がるんじゃないぞ」
ちょっと怒ったような声音で言った。
きっと戻って来たら、洗面所まで抱き上げてくれるのだろう。
それを想像して、胸の奥が、少しだけ痛んだ。