第4話
夜にしか咲かない花がある。真っ暗闇にだけ咲く魅惑の花。暗ければ暗いほど美しく扇情的にそして華やかに色香漂う。それは人を喰らう花。時に牡丹のように、時に水仙のように、それは見目形を変え人を魅了する。そんな華に魅せられて今宵もまたひとりの哀れな雄が光を求めやって来る。
蝋の灯りだけが煌々と灯り、互いの姿がほんのりと橙色に見えるだけの帳の中。静かに酒をつぐ遊女の手元を微笑みながら見つめる男の視線は厭らしいものではなく、柔らかく遊女を包み込む。
トクトクと注がれた白い濁り酒を男に手渡す。男の手を包み込むかのようにそっと手を添わせればどんな男もだらしなく口を緩ませる。
しかし今日の客は違った。色香を漂わす遊女をただの少女を見るかのような慈しんだ目で見る。自分の手に添われた遊女の手を片方の空いた手でそっと外すと、小さな猪口を傾けて酒をちびりと喉に流した。
遊女はこの奇妙な男を怪訝に思うも、自分の周りに流れる穏やかな空気を心地よくも思った。
「どうして君たちはこんなことをしているんだい?」
男が口を開いた。
質問の意図が分からない。こんなこと、とは遊女としての仕事のことだろうか。もしそうだとしても、なぜそれをこの男が聞くのだ。
この廓の中で。
自分を買った男が。
「理由は人それぞれありんすよ。でも一つ言えることは、親に売られたと言うこと」
食い扶持を減らすために娘を売るのは常のこと。別段とりわけて珍しいことでもない。
「こんなことを、してはいけないよ」
こんなこととは?身体を売ること?
「自分を大切にしないと」
男は至極穏やかに笑った。咎めるわけでもなく、ただ微笑みながら淡々と言葉にした。
「ふ、それを旦那が言うのでありんすか、」
「ははは、そうだね」
自分を買った男が、身体を大切にしろと?可笑しなことを言う。気でもふれているのではないか。それとも気を引くための甘い言葉のつもりなのか。
どちらにせよ、
可笑しなオトコ…。
「わっちは……」
遊女はなにかを言葉にしようとしてやめた。長い睫毛で縁取られた瞼を伏せると、赤く光る唇を薄く開いた。
「旦那みたいなお人がいるから、遊女がいるのでありんす、」
遊女を抱きにくる男がいるから遊女がいる。ただそれだけのこと。
「……そうだね」
男は小さく笑うと、白く濁った酒を口に含んだ。
女を求める男がいるから遊廓があるのか、身体を売る女がいるからそれを買う男がいるのか。
堂々巡りの水掛け論。そんなこと遊女にとってはどうでもよかった。
どちらにしろ自分は今ここにいて、男を相手に金子を稼ぎ、一刻も早くこんな地獄から出たいと願っているのだから。自分ほどこんなにもこの仕事を馬鹿にし、やる気のないものなどいないだろう。
ここら出るには働かなくてはいけない。誰よりも何よりも巧く働かなくてはいけない。
なんと皮肉なものよ。
これを楽しんでやっているものには男は寄らず、辞めたくないのに客が来ないからまんまが食えなくなって死んで逝く。
早くやめたいと願っていながらも男に触れることすら嫌悪を抱くものには、男が間も空かずにやってくる。
なのに、こんなに客をとっても一向に金子は返せない。いくら働こうと年明きになった者など数えるほどしか見たことがない。遊女の終わりは二十八まで。二十八になれば暇を出される。けれど、それまでの十年の間、粗末な飯で馬車馬のように働かされ、梅毒になり、生きたまま投げ込み寺に捨てられて、誰にも看取られることのないまま死んで逝く。
それが嫌なら借金を返すしかない。けれど、借金を返して、堂々とこの大門を出た物などいた試しがない。
かといって身請けするにもそれを易々とできる旦那など一生に一度巡り合えるかどうか。
身代金に加え、これから働いて稼ぐであろう金額、これまでの借金、見世や周囲の人間に出す祝い金…合計何百両にもなる大金を、数えるのも億劫なほどの男に躰を売ってきた女郎に、一体どこのだれが払うというのだ。
ああ、一生この醜い虫籠のなかで生きていくのだろうか。
鈴虫のように見せ物にされ、啼かなくなったら捨てられる。
こんな光のあたらない場所で自分は死んでいくのだろうか。
なんて、
なんて……、
なんて惨めで憐れな蟲よ。
「旦那がいるからわっちはいるのでありんすよ、」
「…はは、そうだな」
男は優しく笑いながらも可哀想なものを見るような、哀れむような、そんな目で遊女を見る。
そんな目で見るな
お前には分からぬ
男のお前には
「こんなとこ、」
遊女は結んだ口を更に固く結ぶかのように力を込めた。
「……出れるものならとっくに出ている」
縄をつけられ、
足枷をつけられ、
首に鎖をつけられ、
小さな小さな檻に容れられた蟲。
決して逃れることなどできない。
男には分からぬ。
男はいつだって女を閉じ込める獣でしかない。
「出してあげようか」
男は何とでもないかのように笑いながら言った。
「ここから出してあげよう。君が望むのならば」
遊女の持つ徳利をそっと自分の手に持ち、左手に持った猪口に注いだ。男の言葉が真なのか偽なのか。遊女には分からない。
「それは旦那の、」
遊女はわけもなく震える指を左手で押さえた。
「旦那が、…わっちを身請けするということで、ありんす、か」
ここを出られる…?
だけどこの若い男に自分を身請けするほどの金子があるとは思えない。
「お金なら心配ないよ?」
まるで心を読んだかのような台詞に遊女の頬はカッとなった。赤い口をぎゅっと噛み締めると、男は遊女の口をそっと指で緩ませた。そして、指を遊女の口に乗せたまま穏やかに笑った。
「君が望むのならば今すぐにでも出してあげよう」
「旦那の、」
奥方になるということ。そんなことが自分にできるのだろうか。幼いころから廓に漬かって生きてきた己が、普通の生活などできるとは思えない。
「別に僕の妻になってほしいわけじゃないよ」
「……え?」
「僕は君をここから出してあげるだけ。ここを出た君がどう生きようと君の自由だ。好きに生きたらいい。もちろん僕の妻になってくれるのならばそれはそれで僕は嬉しいけどね」
至極淡々と話しながらも男は笑みを崩さない。真意が分からない。自分のものにならない女のために金を出す?そんなことあり得ない。
どうする、
どうしたらいい、
どうするべきなのか…、
「旦那は、…旦那はわっちを愛してくれますか…、」
こんなことに意味などないのに。愛など関係ない。利用すればいい。出られるのだ。このおぞましい虫籠から出るのだ。なのに、
「君が望むのならば、僕は君を最愛の人として生涯大切にすると誓うよ」
なのに、
こんなにも滑稽な、虚偽の言葉に騙されることを望んでいる。
惚れた、腫れたは御法度。
そんなのは分かっている。
けれど、自分は男に躰を、偽りの心を与えているのだから、その代償に束の間の夢をもらってもいいではないか。
勝手に背負わされた借金のせいで、せっかく売った躰の金も、すべて毟りとられてしまうのだから。結局手元には何も残らないのだから。
だったら、
すぐに消えてしまう夢くらい、
手にしたっていいではないか。
「ふふ、…ふふふ、」
目から落ちたのは涙か、それとも……
小さな夢か。
「だんなが、…旦那がおかしな、こと口にする、から、わっちまで…っ、変になったで、あり、んす……っ」
ぽたりと落ちた涙を手で掬うも、次々と落ちる涙は遊女の小さな手では拭いきれない。ぼたぼたと切れ目なく流れる涙は容赦なく頬をつたい、白粉を消してしまう。可笑しいのは馬鹿なことを言う男なのか。それともそんな男の言葉に涙する自分なのか。
結局夢は夢でしかなくて、
「そんなこと、聞いた、ら、わっちはここでは生きてはいけないでござんしょ、う……、」
叶うはずのない夢に涙して、
「けんど…、」
嘘でもいい、
「もう、言わないでおくんなんし」
例え嘘でも、
「わっちは、」
ほんの少しでも、
「小指を差し出す気などありんせん、」
虫籠から出るという夢を見られた。
「さぁ、旦那、」
束の間の夢を見せましょう。
ここは廓。夢を与える籠の中。あちきは女でお前さんは男。
狂おしく光悦な狂気の夢を与えましょう。
梅毒はこの当時は『かさ』と言われて、一回なって、治ったらもう二度とならなと言われ(もちろん虚偽です)、しかも妊娠病気が潜伏している影響か、妊娠しにくい身体になっているから、見世としてはとても重宝されていました。こうして梅毒はどんどん広がっていき、客の方でも、梅毒にかかることは一種のステータスだったそうです。




