第2話
夜にしか咲かない花がある。真っ暗闇にだけ咲く魅惑の花。暗ければ暗いほど美しく扇情的にそして華やかに色香漂う。それは人を喰らう花。時に牡丹のように、時に水仙のように、それは見目形を変え人を魅了する。そんな華に魅せられて今宵もまたひとりの哀れな雄が光を求めやって来る。
ちらりと赤い舌を出し、それを良く熟れた林檎のような唇に這わす。時折見える白い歯がより遊女をなまめかしく魅せる。
「旦那、」
「あ、そ、その、」
旦那と呼ばれた男はまだ若い。十代後半から二十代前半ころであろうか、美しい遊女を目の前にただただ狼狽えるばかりである。女遊びなどしたことのない若造。大きな黒眼に愛嬌があり、遊女が一動作行うだけでいちいち頬を染める、そんな純粋な心の青年。
「いかが、なさいしんす、」
はっきりしない青年に遊女は助け舟を出す。
時折いるのだ。いままでろくに女というものに触れたことのない『幼い』男が上司やら友人やらに無理に連れられて、『男になれ』と荒い療法をくだされる。それが吉と出るか凶と出るかは遊女次第。男に興味をもてば持てる技術を駆使して『男』にするが、興味をもてなければ災難。金をとるだけ取ってろくに話もしないうちに時間がきて帰される。さてこの青年はどちらであろうか。
「あ、あの……わ、私、こういう所は初めてで、その、……すみま、せん……」
首までを赤い果実のように染め上げ、回らない口を必死で動かす青年に思わず笑みがこぼれた。そんな遊女の様子に青年はポカンと口を広げて顎を落とす。その間抜けな顔に遊女はしまったと眼を細めるが緩んだ口元は戻らない。
「あちきとしたことが……」
滅多なことでは笑わない。それが自分の『売り』だったはず。にもかかわらず、こんな青年に簡単に笑みを見せるなんて。
笑うこと、すなわちそれは心を開くこと。何度も通う旦那や番頭にすら笑い顔など見せないというのに、会って間もないこの青年にはなぜか自然と笑みがこみ上げた。興味をもったということか。
ふふ、・・・・なるほど面白い。ならばこの青年で遊ぶのも悪くはない。この何も知らない『初』な青年を己の手で開拓してみせようか。この青年が獣へとなり果てた時、それは勝利を意味する。
「だんな、」
ふぅっと青年の耳に温かい息を吹きかける。遊女の白く細長い指が青年の頬に触れた。まるで壊れ物を扱うかのようにそっと乗せた指は青年の輪郭に合わせてス-ッと撫でる。冷たい指は顎までくると、下唇に添わせてゆっくりと動く。微かに震える唇から血液が流れるのを感じた。トクトクと音をたてる青年の唇の上方をゆっくりと時間をかけてなぞる。青年は最早自我の効かない人形のような手をゆっくりと、慎重に、そして、丁寧に遊女の背へと添えた。青年の操られたかのような手が白く柔らかな遊女の背に触れた時には、遊女の背はすでに外気に触れていた。遊女の小さく冷たい手が青年に添えられる度に、青年の体がびくりとはねる。
しかし、遊女の背も肢体も、すべてがささるように冷たいのに、時折もらす息だけは温かかった。それだけが遊女が『生きている』と感じられた。まるで人形のように美しく造られたその肉体と、描いたかのように愛すべきその顔は、時たま遊女をこの世から切り離しているかのようだった。
「、ふ、ふふ、」
ぎこちなく動く若き男に遊女は思わず笑いをもらした。楽しそうに笑う遊女に手を掴まれ、そのまま遊女の顔へとあてがわれた。少しかすれた真っ赤な唇は艶々と光り、ニィっと弧を描く。黒く長い遊女の睫が触れそうなほど顔を近づけると、遊女は青年の瞳をペロリと舐めた。その奇妙な感覚に青年はきゅっと瞼を強く閉じる。青年の一挙一動にくすくすと笑みを浮かべ、青年の瞼、鼻、耳朶と順番に舐め上げる。
「ねぇ、だんな、」
とろけそうなほど甘い声を耳元で囁く。青年がそろりと瞼を押し上げると、遊女の赤い舌が見えた。
「あちきをみて……?」
そう言ってまたペロリと瞳を舐めた。
「あ、あ、……あ、」
狼狽える男の真っ赤に染め上げた首筋に顔を埋めて、クスクスと唇を震わせた。
『ほら、愉しい愉しい時のはじまり…。』
灯りが消えた。