第208話 残しておきたい言葉
聞けなかった言葉は、時間が経つほど増えていくことがあります。
それでも、誰かから受け取ったものまで失われるわけではありません。
残されたものを、どう受け取っていくのか。
靴屋を訪れたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
店の奥から、革を磨く音が聞こえてくる。
「こんにちは」
「おう。いらっしゃい」
店主は手を止め、悠斗に椅子を勧めた。
「この前の話なんですけど」
「ああ。親父と、あの人のことか」
悠斗は頷いた。
老人に会えたら、国道で声をかけてくれた理由を聞く。
そして、店主が知りたがっている先代との関係についても、本人が話してくれる範囲で聞いてみる。
それが、二人の間で確かめたことだった。
「店主さんは、先代に聞いておきたかったことってありますか?」
店主は磨いていた靴を置いた。
「そうだな……」
少し考えてから、答えた。
「親父が、あの人とどんな時間を過ごしていたのか。それを聞いてみたい」
「どんな時間、ですか」
「親父は仕事の話ならよくしていた。でも、自分が誰と会って、何を感じたのか。そういう話はあまりしなかった」
店主は作業台に視線を落とした。
「俺も、もっと聞いておけばよかったと思うことがある」
その言葉に、悠斗はすぐに返事ができなかった。
聞けるときには、いつでも聞けると思ってしまう。
近くにいる人のことほど、知らないままにしてしまうことがある。
そして、気づいたときには、もう聞けないこともある。
「僕も、母に聞けなかったことがあります」
店主が顔を上げた。
「そうか」
「最後に会えなかったので。今でも、聞いておけばよかったと思うことがあります」
悠斗は、母のことを思い浮かべた。
黒糖飴の甘さ。
手の温もり。
もう確かめることのできない、母の声。
それでも、母から受け取ったものは残っている。
自分が誰かに優しくできたとき、その中に母からもらったものがあるような気がする。
「だから、あの人に会えたら、ちゃんと話を聞きたいんです」
「うん」
「僕が知りたいことだけじゃなくて、あの人が話したいことも」
店主は静かに頷いた。
「それがいいと思う」
短い言葉だった。
けれど、悠斗には十分だった。
店主は再び靴を手に取った。
「親父が残したものを、俺はまだ全部分かっていない。でも、分からないからといって、なかったことにはしたくないんだ」
「はい」
「いつか分かることがあれば、それでいい」
悠斗は、その言葉を胸に置いた。
写真に書かれた文字も、老人と先代の関係も、まだ答えは出ていない。
それでも、誰かが残したものを大切にしようとする人がいる。
その気持ちは、確かにここにあった。
店を出る前、悠斗は店主に言った。
「もし会えたら、話を聞いてきます」
「ああ。頼むな」
「でも、無理に聞き出すことはしません」
「分かってる」
店主は笑った。
悠斗は頭を下げ、商店街へ出た。
歩きながら、母のことを考えていた。
聞けなかった言葉は、もう戻らない。
けれど、受け取った優しさまで消えてしまうわけではない。
誰かの言葉を聞くこと。
誰かの思いを受け取ること。
そして、それを自分の中だけに留めず、次の誰かへ渡していくこと。
悠斗は、急がずに歩き続けた。
まだ会えていない人がいる。
まだ聞けていない言葉がある。
そのどちらも、忘れずにいたかった。
店主にも、悠斗にも、もう聞くことのできない言葉があります。
だからこそ、これから出会う人の言葉を大切にしたい。
写真に残された老人と先代の時間。その答えは、まだ見えていません。
けれど、知ろうとする気持ちは、二人の間で少しずつ共有され始めています。




