第11話:揚げ出し豆腐と、一瞬の空白
その日の夕食は、出汁の香りが優しく漂う揚げ出し豆腐だった。熱々の豆腐を箸で割りながら、結は昼間にあった不思議な出来事を、向かい合って座る旦那さんに話し始めた。
「今日ね、病院へ行く途中が本当に不思議だったの。信号が全部青で、私が暑いと思ったら心地いい風が吹いて、喉が渇いたら目の前を冷やし甘酒の物売りが通りかかったのよ」
楽しそうに語る結の言葉を、旦那さんは箸を持ったまま静かに聞いていた。
「……」
一瞬、妙な空白が生まれた。
旦那さんの表情から一切の感情が消え失せ、数秒間、瞬きさえしなくなる。居間の空気そのものがピタリと凍りついたような、奇妙な違和感。しかし、結が首を傾げかけるよりも早く、旦那さんはいつもの穏やかな笑顔に戻った。
「へえ、それは不思議なこともあるもんだね」
結は少し不思議に思いながらも、嬉しそうに話を続けた。
「それでね、先生からは経過もとっても順調、あと二ヶ月で元気に産まれてくるって太鼓判を押してもらったわ!」
「そうか! それは本当によかった……!」
旦那さんは我が事のように顔をほころばせ、本当に嬉しそうに何度も頷いた。その笑顔を見て、結の胸はいっそう温かくなる。
「その帰り道も凄いのよ。お腹が空いた瞬間に目の前に食堂が現れて、冷たいラムネを出してくれて。バス停に着いたら待たずにガラガラのバスが来たの」
結は大きなお腹を愛おしそうに撫でながら、満面の笑みを旦那さんに向けた。
「なんだか、この世界が私たちのことを祝福してくれているみたい」
結がその言葉を口にした、直後だった。
居間の景色が、ぐにゃりと真横に引き伸ばされるように歪んだ。
畳の緑が激しく色反転し、旦那さんの輪郭が幾何学的なモザイクのように崩れ、壁の向こうに無数の奇妙な文字列が透けて見える。空間全体が一時停止し、強引に書き換えられるかのような、圧倒的な歪み。
結は思わず強く目を瞑り、自分の頭を押さえた。
「……っ、ごめんなさい。なんだか急に、酷い目眩がして……」
ゆっくりと目を開けると、そこにはいつも通りの電球の光に照らされた我が家があり、旦那さんが心配そうに結の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫かい? 出産前で身体が疲れているんだよ。無理をしないで、早く横になりなさい」
「ええ、そうね。ただの目眩だわ……」
結は冷や汗を拭い、少し冷めかけた揚げ出し豆腐を、不安をかき消すように口に運んだ。
第11話をお読みいただき、ありがとうございました。
結の言葉に反応するかのように起きた、奇妙な違和感。
それでは、また第12話でお会いしましょう。
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