◆おまけ◆ 愛の道化師(開幕前)
愛の道化師、舞台に登場直前のお話。
孤児院に女の子の手を引いて連れて行ってくれた、面倒見のいい女スリ視点でお送りいたします。
港町。
夕暮れの空気が満ち、仕事帰りと思しき疲れた顔の人たちが、それぞれの帰路を急ぐ。
デボラはそんな街を歩いている。さりげなくすれ違う人の顔を眺め、その身に着けたものに目を走らせる。
貧乏人、貧乏人、あれは一見金持ち風だけど、あの手のやつの財布は意外と軽い。
女よりも男。男は衣装が厚く、財布を入れる場所が胸の前と決まっている。なんなら偉そうで、いけ好かない感じのやつのほうがいい。気づかれても届け出られないような後ろ暗い金ならなおよろしい。デボラはスリなのである。
あいにく庶民向けの物語に出てくるような、勧善懲悪の義賊などではない。湿っぽいあなぐらのような家でくだらないヒモを養う、極めて小粒な、けちなスリである。
あの髭にしよう。趣味の悪い金時計の鎖がこれみよがしに見えるやつ。
頭も財布もあまり重たそうではないが、今日のところはあれくらいにしておくかとだいたいの目星をつけたところで、道の先がざわめいた。
なんだと目を上げた、対象の動きに舌打ちする。気を散らしていただくのはいっこうにかまわないが、予想外の動きをされるのはたまらない。人様の仕事を邪魔しやがってと苛立ちながら睨みつけたその先に、その白い男はいた。
白い。とにかく白い。あんなに白い服がこの世にあるのかと思うほどの、目の覚めるような白。
白。白い腕の先に深紅。
巨大な塊のようになった真っ赤な薔薇が、男が足を踏み出すたびにゴワーンゴワーンと揺れる。
その、古い絵物語から抜け出したかのようなクラッシックな衣装を身に纏うのは、背の高い若い男だった。
黒髪、黒い目。不整合を許さないと言わんばかりに整った顔が人間味を感じさせず、表情は彫刻のようにピクリとも動かない。
間違ってもあの男の懐に手を出そうとは思わない。あれはヤバいと、デボラの勘が言う。あれはヤバい。
レンガ色の街並みを切り取るように進む。白、黒、赤。
どこか現実味のないその光景に、皆が目を奪われ、手を止めている。
魅入られ固まったのち、ああそうか、きっと新作の舞台か何かの宣伝だろうと、人々が何か常識的な助けを求めるかのように後に続く看板を目線を泳がせて探している。だが、そんなものはない。
「……」
今いったい目の前で、何が起きているのかわからない。
若者の、おふざけや冗談かと、笑い飛ばしたいのに笑えない。
笑える雰囲気が彼の周りに一切ないのだ。いったいどうしたらいいのかわからない。真剣で真面目な横顔が、何か無性にいたたまれなくて鳥肌が立つ。見ているこっちが泣きそうになる。お願いだから誰か助けてほしい。
「あの服はうちの服だ!」
誰かが叫んだ。助けを求めるように人々がそちらを見る。
小熊に似た背の低い、シャツにお洒落なベストを組み合わせたおじさんが人ごみをかき分け前に出て、シャツと同じ柄の帽子を振って跳ねている。
「テーラーアンチェロッティの服だ! ああ、なんて日だ。こんな日が来るだなんて! 初代! 初代! 見えておりますか! とてもよくお似合いですお客様。行ってらっしゃいませ! ご武運を!」
ぱちぱちと瞬くおじさんの小さな目から涙がキラキラと落ちる。
事情がさっぱりわからない。今この絵面のどこにそんな感動する要素があるのかが本当にわからない。だがそうされてみると、なんだか何かが胸に来る光景であるような気も、しないわけでもない。
熱意。
決意。
覚悟。
白と黒。燃える赤。
白い。白い白い白い。何人たりとも口を挟むことのできぬ、みっちりと詰まった何かが、その男の周りに満ちている。
人ごみを空気で割くようにして男は進み、やがて人々の視界から消え去った。
道に残る、白の残像。
白昼夢を見ていたかのような不思議な気持ちを残し、街はぎこちなく、やがてその余韻も消し去って、普段の通りに戻った。
はっと気づき、見渡せば、先程の金時計のカモはもういない。と、思ったら、道の先を歩いている。
手に、先程は持っていなかった花を持っている。金時計の男が今出てきた店は、花屋だ。
派手な花じゃない。若い愛人に渡すような花でもない。小さな紫の花弁が、同じくらいの白く小さい花と並んで花束になり、男の手で揺れている。
金時計の男は来た道を戻った。虚勢を張るように張っていた胸をすぼめ、背中を年相応に丸くして。
「……」
デボラはポケットを探った。自分のポケットをだ。指先で数える。パンと、安い葡萄酒くらいは買えるだろう。
それらを買って帰り、今日こんなことがあったと、家に帰って話したら、なんと返ってくるだろう。
かつて、デボラも花束をもらったことがある。家にいる飲んだくれの男が、まだ夢と、輝く情熱の目を持っていたとき。金がなくてごめんと笑いながら、道端の花を集めて渡してくれた。いつか、もっと大きくてきれいなのを贈ると。目に燃えるような情熱と、デボラへの恋心を湛えて。
今日、こちらを見返すその目に、あの日の輝きのかけらが見いだせなければ、人の情熱を鼻で笑う男になっていたならば、そろそろデボラは、大掃除をしよう。
いいかげん情に流されるのを、考えるのをやめるのをやめ、邪魔なものを捨て、風を通しさっぱりとして、部屋に白い、一輪の花でも飾るのだ。
そうしたらその部屋に、数少ない友人でも招待しよう。
知り合いのダンサーは、きっとデボラの話を聞いて、あんたも馬鹿だったねと、あっけらかんと笑うだろう。馬鹿なデボラを責めもせず、説教もせず。夕暮れのお日様のような赤を揺らし、輝かせて。
夕暮れ。港街。
落ち着いたいつもの街の色、人々の日常を切り裂き、白い男が前だけを見てずんずんと進んでいく。




