11. 初雪の話
目を覚ますと、窓の外がいつもよりも静かだった。
まだ夜が明けきらない時間。
カーテンの隙間から差し込む淡い光に、忠晴はいつもと違う気配を感じた。
今日は出張の日だ。
荷造りは昨夜のうちに済ませてある。
念のため、鞄の中身を確認しておく。
出発までにはまだ時間がある。
それまでは、いつもどおりに過ごせそうだ。
*
身支度を整え、ドアを開ける。
冷たい空気が頬に触れる。
吐いた息が、白く広がった。
門を出て、いつもの道を歩いていく。
街は、一面の雪景色だった。
屋根も、道路も、庭の木々も、昨夜までとはまるで違う姿になっている。
街灯の明かりを受けた雪が、薄暗い朝の中でぼんやりと白く浮かび上がっていた。
「ずいぶん降ったんだな」
いつものように走るつもりだったが、これでは足元が心もとない。
今日は走るのをやめて、歩くことにした。
まだ人通りはほとんどない。
車の通った跡があるところもあれば、まっさらな雪が残っているところもあった。
足元の雪を踏むたび、きゅっと小さな音がする。
今年も冬が来た。
そんな当たり前のことを、改めて思う。
少し先の公園に目を向けると、植え込みにもベンチにも、雪が厚く積もっていた。
誰も歩いていない場所には、まだ足跡ひとつない。
忠晴は歩みを緩めた。
真っ白な景色を眺めていると、ふと、昔のことを思い出した。
まことと初めて会った日のことだ。
あの頃のまことは、今よりずっと幼かった。
自分のことを「お兄ちゃん」と呼んでいた。
それが、あの誘拐事件のあと、いつの間にか「根津さん」になっていた。
あのとき、まことは何度も「ごめんなさい」と口にしていた。
何度も謝るまことに、詳しい理由を尋ねたことはなかった。
自分の進路のことを気にしているのかもしれないと、思った。
イギリスの大学に進む予定だった自分が、まことのそばに残ることになったから。
もちろん、自分で決めたことだ。後悔などしていない。
それでも、まことにとっては、そう簡単に割り切れることではないのだろう。
そういえば、一度だけ、本人に聞いてみたことがある。
「ねえ、まこと。なんで俺だけ苗字で呼ぶの?」
「え?」
「友樹も美穂も名前で呼んでいるでしょう。俺も名前で呼んでほしいんだけどな」
そう言うと、まことは困ったように視線を泳がせた。
「えっと……それは……」
何か言いかけて、結局、言葉にはならなかった。
「はは。無理しなくていいけどね」
そう言って、その話は終わりにした。
今では高校生になり、友だちも増えて、彼氏までできた。
それはもちろん、喜ばしいことだ。
喜ばしいことなのだが。
忠晴は小さく息を吐いた。
――彼氏ができる歳になったのか。
自分がまことと同じくらいの年齢だった頃、今の自分を想像できただろうか。
大学に進学することは考えていた。
けれど、大学で出会った先生に声をかけられ、修士課程に進み、研究を続けるうちに博士課程にも進むことになるとは思ってもいなかった。
まして、誰かの護衛として一緒に暮らし、その成長をこんなにも近くで見守ることになるとは思いもしなかった。
人生というのは、なかなか思いどおりにはいかない。
けれど、それは悪いことでもない。
昔を懐かしく思うことはある。
あの頃はよかったと思う瞬間もある。
それでも、戻りたいとは思わなかった。
今には今の面白さがある。
雪の積もった公園をもう一度眺めてから、忠晴は来た道を引き返した。
*
戻る頃には、空が少しずつ明るくなっていた。
玄関を開けると、暖かな空気が流れてくる。
「お帰りなさい、根津さん」
声のした方を見ると、まことが立っていた。
まだ早い時間だと言うのに、制服を着ている。
「ただいま。もう起きていたんだ」
「はい。雪が明るくて、目が覚めてしまいました」
「そうだね。ずいぶん積もっているよ」
忠晴は靴を脱ぐ。
「根津さん、もう出るんですか?」
「まことたちが出るときに、一緒に出ようかなと思ってるよ」
「今回は長いんでしたっけ?」
「今回は二泊三日。まこととそんなに離れるなんて、寂しくて悲しいなあ」
忠晴が大げさに肩を落としてみせると、まことは少し困ったような顔をした。
「二泊三日ですよ?」
「おや、ずいぶんあっさりしているね。もう少し惜しんでもらえると思ったのに」
ふふ、と笑うまこと。
「いつものことですから」
「これは困ったな」
忠晴も小さく笑った。
研究の仕事柄、出張は珍しくない。
日帰りで済むこともあれば、数日間、時にはそれ以上家を空けることもある。
まことも、そんな生活には慣れている。
「まだ時間はあるし、みんなが起きてくる前に、二人でお茶でも飲もうか」
「いいですね。私、淹れますね。根津さん、お支度あるでしょう?」
「ああ、助かるなぁ。ありがと」
まことがキッチンへ向かう。
忠晴はその後ろ姿を視線で追った。
いつの間にか、こんなふうに自然に気を回してくれるようになった。
*
忠晴は自室に戻った。
スーツに着替え、前髪を上げる。
鏡の前でネクタイを整え、最後に時計を確認した。
鞄を手にして、リビングに向かう。
「あ、根津さん」
リビングに入ってきた忠晴の気配を感じて、カップを手にしたまことが顔をあげる。
忠晴をじっと見たあと、微笑む。
「どうしたの?」
「かっこいいですね」
思いがけない言葉に、忠晴は一瞬だけ目を丸くした。
「俺はいつでもかっこいいでしょ?」
「はい。でも、スーツっていつもと雰囲気が違います」
「3割増しでカッコよく見えちゃうかな?惚れ直しちゃう?」
忠晴が少し芝居がかった口調で言うと、まことは小さく笑う。
「お茶、入りましたよ」
「ありがとう。いただきます」
忠晴は、差し出されたカップを受け取る。
まことがプレゼントしてくれたカップは、手によく馴染み、いつもの日常に欠かせないものになっていた。
忠晴はソファに座って、窓の外に目をやる。
白い庭には、まだ誰の足跡もない雪が残っている。
あの雪も、やがて溶ける。
形を変える。
そういうものだし、そうやって時間は巡る。
今日も、いつもの一日が始まる。




