「Alea iacta est」
闇が下りた、バビロンの華麗なる宮殿。
天井は五色の光に輝き、重装備の戦士たちがそこを守る。
宮殿の主は、かつて「生ける神」として崇められた男。
たった一人で、世界を見据えてきた彼は、あまりに早すぎる運命と戦っていた。
原因不明の熱病。
寝室には、憔悴しきった青年を中心に、
幼い息子と妃たち、そして数多の将軍たちが居並んでいる。
皆、青年と生死を共にしてきた者たちだ。
「ぐ、うぅぅ——」
苦痛に呻く青年。
高熱——それも、溶け落ちそうなほどの高熱、そして嘔吐。
病状は急速に悪化し、口を開くことさえ困難になっていた。
だが、固く握りしめた彼の拳、世界を掴んだ、その両の手はまだ頑として揺るがない。
その時、誰かが彼に問うた。
彼の帝国を継ぐ、新たな指導者について。
青年は短く——しかし威厳を失わずに答えた。
「最も、強き者に———」
——アレクサンドロス三世の、有名な逸話だ。
僕の、完璧なる偶像。
マケドニアの王子として生まれ、若くして王となったが、
英雄たちの地ギリシアから
神秘の地インドまで。
よく訓練された軍勢、
有能で忠実な臣下たち、
そして大王の天才的な戦術が加わって———
アレクサンドロスは、やがて知られたすべての大地を征服した。
この時、彼はまだ32歳。彼は一度も敗北を知らなかった。
バビロンで原因不明の熱病に倒れる、その直前まで、
彼はアラビア遠征を計画していた。
彼が築いた帝国、「ヘレニズム帝国」は、彼の死後、群雄が割拠することとなる。
だが彼が遺した遺産、「ヘレニズム」の遺産は、今もなお我々の文明の中に息づいている。
彼の偉大な英雄譚は、『プルタルコス英雄伝』のような書物によって語り継がれ、
今もなお、数多の子供たちの憧れの的だ。
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そして、その子供たちの一人こそが、僕、千寿良彦。
アレクサンドロスの享年と同じ、32歳。独身。
恥ずかしながら、僕はこの歳になるまで、自分の力で成し遂げたことなど、片手で数えられるほどしかない。
社会性ゼロ、身体能力もゼロ、外見ゼロ、学歴ゼロ。
実家に寄生して暮らす、落伍者。
アレクサンドロスは、この歳で世界を手にした。
僕が手にしたのは、歴史に対する薄っぺらな愛社心と、
昔のドラマの設定ミスに激怒する、狭量な心。
そう、僕はいわゆる「歴史オタク」である。
一日中、インターネット上でわけのわからないことをまくし立てている類に属する。
学生時代、勉強はさぼりまくっていたくせに、無駄に日本史や世界史の点数だけは満点。
一般人が歴史の話をすれば、出しゃばって割り込み、興奮のあまり唾を飛ばす。
おかげで交友関係は壊滅。話しかけてきた者たちは皆、源義経のように消えていった。
結局、歴史のテストが近づいた時だけ質問される、NPCになり果てた。
それでも「僕は普通のオタクとは違う」という虚栄心に浸っている。
僕もまた、こういう人生を送ってきた。
その業として、今はニート生活を転々としている。
これまではどうにかこうにか両親を説得してきたが、今日、事が起きた。
両親が大切にしていた陶器を割ってしまったせいで、叱責に加えて
「これ以上就職活動をしないなら、家から追い出すからな!」
という宣戦布告文を突きつけられてしまった。
彼らの怒りに押されて、今は家を追い出されている。
ふん、「ペルソナ・ノン・グラータ(敵対国の外交官の派遣を拒否すること)」というやつか。
だが、構わない。一歩前進のための一歩後退だ。
——とりあえず、補給基地であるコンビニに駐屯している。
補給は重要だ。食糧のない軍隊は戦えない。
酒、そう、酒も重要だ。
「見ていろよ——! きっと僕の天才的な知恵で、この世界を僕の足元にひれ伏させてやる」
時代劇にでも出てきそうな野暮ったい台詞を吐きながら、ビールをぐびぐびと呷る。
馬鹿げた話だということは、当然分かっている。
情けない落伍者の僕に、征服者の運命など、幻想でしかない。
だが、いつもアレクサンドロスの話を見聞きするたびに、幼い頃の夢が蘇る。
——「この世界を征服してやる」という、子供らしい夢。
だが、それをいつも心の奥深くにしまい込んでいた。
6歳の時に初めて出会った、アレクサンドロスについての漫画。
表紙のロクサネが可愛くて読み始めたのだが、
読み進めるうちに、彼は僕の究極の目標となっていった。
軍事的にも、政治的にも、完璧に近い彼の治世を——
キィィィッ——、トラックが際どく僕を避けていく。
「前ちゃんと見てないのか、間抜けが!」
——だが、届かない。彼には、「希望」には届かない。
「……」
酔いが回ったせいだろうか。体をまともに支えるのが難しい。
気づけば、家の裏の山へと続く道に立っていた。
見下ろした水たまりに、自分自身が映る。
だらしなく緩んだ腹の肉、貧弱な二の腕、うつろな目。
意志薄弱、根性不足。
何度も浴びせられてきた言葉が、再び頭をよぎった瞬間、嫌悪感が全身を支配した。
「もう、こんなふうに生きたくない——!」
僕は死に物狂いで山を登っていった。
息が切れればビールを呷り、
暑くなれば上着を投げ捨てた。
山の断崖で目にしたのは、街の景色だった。
ああ——涙が流れる。
あまりにも美しくて、この美しい風景が、僕のような人間に許されていることが、たまらなく嫌で。
アレクサンドロスも、カエサルも、ナポレオンも。
皆が見てきたであろう風景、そして込み上げてくる勝利の実感を。
「僕も、感じたい」
「……僕なら、できる。全力で、超えてやる——!」
その瞬間、崖の下で僕が目にしたのは「光」だった。
田舎で見た星座のように、淡い光が、楕円を描きながら僕を照らしているようだった。
手に持っていた袋が、ふらり、と落ちる。
酒を飲みすぎたせいなのか、それとも——光に感化されたのか。
僕は、光に向かって進んでいった。
それは刹那のことだった。
ただ、光の導きに従うまま、
ひゅう、ひゅうと風が肌を切り裂くようだった。
街のネオンサインが瞬きながら、別れを告げる。
僕はぎゅっと目を閉じた。
さらばだ、世界よ。
呪ってやる、この僕を見捨てたこの世界を——
サイコロは、すでに投げられたから!
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