表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/10

第7話 白大理石の下にあるもの

 王宮には、階段が多い。


 表の階段は、美しい。


 赤い絨毯が敷かれ、金の手すりが磨かれ、壁には歴代王の肖像画が並ぶ。


 舞踏会へ向かう階段。


 謁見の間へ続く階段。


 王族専用の回廊へ上がる階段。


 貴族たちは、そこを上へ上へと進む。


 より高い場所へ。


 より明るい場所へ。


 より人に見られる場所へ。


 だが、王宮にはもう一つの階段があった。


 下へ向かう階段である。


 それは庭園奥の白大理石の柱廊、その端にある古い物置部屋の床下に隠されていた。


 絨毯はない。


 金の手すりもない。


 肖像画もない。


 あるのは、錆びた鉄環と、湿った石段だけだった。


「ここが……王宮地下への入口だというのか」


 王太子ヴィクトールは、床板の下に現れた暗い階段を見下ろしていた。


 顔に浮かんでいるのは、不快感と疑念。


 そして、わずかな恐怖だった。


 王宮は、彼にとって自分の家である。


 自分が生まれ、育ち、歩き、命令してきた場所である。


 その足元に、自分の知らない穴があった。


 それは、王太子の誇りにとって小さくない傷だった。


「王宮下層水路への点検階段です」


 オットー・ヴェルナー局長が答えた。


「現在図には記載がありません」


「なぜだ」


「記載から外されたからでしょう」


「誰が」


「記録上は、百八年前の王宮改築時に『不要通路閉鎖』とあります」


 クラウディア・フォン・カルンシュタインは、鉄環の周囲を見ていた。


 錆びている。


 だが、完全には固着していない。


 近年、誰かが動かした痕跡がある。


 鉄環の付け根に、新しい傷。


 床石の隙間に、黒い泥。


 古市場の倉庫と同じだ。


「不要ではなかったようですね」


 クラウディアは言った。


 ヴィクトールが彼女を見る。


「どういう意味だ」


「最近、開けた者がいます」


 側近の一人が即座に否定した。


「あり得ない。王宮内に不審者が入り込めば、衛兵が気づく」


「地上から入れば、でしょう」


 クラウディアは階段の闇を見下ろした。


「地下から来る者を、衛兵は見ていますか」


 側近は黙った。


 王宮警備は、門、回廊、庭園、客間、謁見の間を見る。


 だが、水路までは見ない。


 水は身分を読まない。


 そして、泥棒も身分門を通るとは限らない。


「灯りは」


 クラウディアが言うと、水務局職員が答えた。


「十です」


「油量」


「確認済み」


「予備芯」


「防水布で三包み」


「火打石」


「四組」


「縄」


「五本」


「白墨」


「三本」


「水位棒」


「二本」


「入口見張り」


「王宮衛兵二名、水務局職員一名」


「よろしい」


 ヴィクトールが苛立ったように腕を組んだ。


「まるで戦場へ行くようだな」


 グスタフが鼻で笑った。


 彼も来ていた。


 王宮地下には入らないと言い張っていたはずだが、白き門という言葉を聞いた途端、「一回だけだ」と言って同行を決めた。


 その一回が、どれだけ長くなるかは誰も聞かなかった。


「戦場の方がましな時もある」


 グスタフは言った。


「敵は前から来ることが多いからな。地下の水は、後ろからでも下からでも来る」


 ヴィクトールは老人を睨む。


「そなたは誰だ」


「元水路番だ」


「私にその口の利き方か」


「黒水路に入るなら、王太子だろうが足元を見ろ。偉そうに前を見る奴から滑る」


 側近が怒りかけた。


 だがクラウディアが先に言った。


「殿下。地下では、グスタフ様の言葉を優先してください」


「なぜ私が」


「彼は戻ってきた者だからです」


 短い言葉だった。


 だが、それで十分だった。


 地下については、戻ってきた者の言葉が最も重い。


 ヴィクトールは不満そうに唇を結んだが、それ以上は言わなかった。


 ベアタは胸元の聖印に触れている。


 白い聖女服ではない。


 灰色の外套。


 長靴。


 帳面。


 腰には小さな布袋。


 中には包帯と、患者記録用の小筆。


 そして、掌にはまだ光を灯していない。


「ベアタ様」


 クラウディアが言った。


「灯火は合図するまで使わないでください」


「はい」


「疲労は」


「残っています。でも、歩けます」


「少しでも気分が悪くなれば言ってください」


「分かりました」


 ヴィクトールが、ふとベアタを見た。


「ベアタ、本当に来るのか」


「はい」


「危険だぞ」


「殿下も行かれるのでしょう」


「私は王太子だ」


「私は聖女です」


 ベアタは静かに答えた。


「水に触れた方がいれば、癒やしが必要になるかもしれません。暗い場所で灯りが必要になるかもしれません。なら、行きます」


「君まで、クラウディアのようなことを言う」


「クラウディア様から、見方を教わりました」


 ヴィクトールの顔が複雑に歪んだ。


 それは嫉妬に近いものだったかもしれない。


 昨日まで自分の隣にいた聖女が、今は婚約破棄した令嬢を見ている。


 しかも、憧れではなく、実務の相棒として。


 クラウディアは二人の感情を読んだが、今は置いた。


 地下へ降りる前に恋愛の整理をしている場合ではない。


「進みます」


 クラウディアは言った。


 最初にグスタフ。


 次にヴェルナー。


 クラウディア。


 ベアタ。


 ヴィクトール。


 水務局職員二名。


 最後尾に王宮衛兵二名。


 側近は地上に残された。


 不満そうだったが、地下通路に貴族政治の弁舌は不要だった。


 階段は細く、湿っていた。


 一段降りるごとに、王宮の気配が変わっていく。


 上には白大理石。


 下には黒ずんだ石。


 上には香油。


 下には黴と水。


 上には絹の衣擦れ。


 下には靴底が湿った石を踏む音。


 ヴィクトールの息が、少しずつ荒くなる。


「こんな場所が、本当に王宮の下に……」


 誰に向けた言葉でもなかった。


 クラウディアは振り返らない。


「地上の美しさは、地下が支えています」


「説教か」


「観察です」


「君の観察は、いつも人を不快にする」


「水路は、もっと不快です」


 グスタフが前で笑った。


「嬢ちゃん、口が悪くなってきたな」


「地下に降りると、礼儀を少し置いていけるので」


「上に戻ったら拾っとけよ」


「必要なら」


 階段の終わりに、鉄扉があった。


 錆びてはいるが、中央に王家の古い紋章が刻まれている。


 今の王家紋とは少し違う。


 獅子ではなく、水瓶を抱いた女神。


 その下に、波と水車。


「初代王朝の印です」


 クラウディアが言った。


「王宮の紋章と違う」


 ヴィクトールが呟く。


「王家は、昔から同じではありません」


「分かっている」


「いいえ」


 クラウディアは短く言った。


「殿下は、今それを見ています」


 ヴィクトールは反論しかけた。


 しかし鉄扉の前で、その言葉は止まった。


 水瓶を抱いた女神。


 今の王宮で語られる王家の威厳とは違う、古い治水の王権。


 王は剣で都を支配する前に、水を治めて都を生かした。


 その記憶が、扉に残っている。


 ヴェルナーが鍵束を取り出した。


「合いますか」


「試します」


 一つ目。


 合わない。


 二つ目。


 合わない。


 三つ目。


 途中で止まる。


 グスタフが舌打ちした。


「違う。王宮の鍵じゃねえ」


「では?」


「水路の鍵だ」


 彼は自分の古い革袋から、錆びた鍵を出した。


 ヴェルナーが目を見開く。


「それをまだ持っていたのか」


「返す相手が死んじまったんでな」


「それは水務局の備品だ」


「百年前の備品まで面倒見きれんだろ」


 グスタフは鍵を差し込んだ。


 重い音。


 錆が噛む。


 彼は二度、ゆっくり回した。


 がこん。


 扉の奥で、古い機構が動いた。


 鉄扉が開く。


 湿った空気が流れ出した。


 ベアタが口元を覆う。


 ヴィクトールは一歩下がりかけ、踏みとどまった。


 その先には、広い通路があった。


 王宮地下水路。


 黒水路とは違う。


 壁は整えられた白い石。


 床は緩やかに傾き、水が細く流れている。


 天井は高く、人がまっすぐ立てる。


 要所には古い金属管。


 壁には水位線。


 そして、ところどころに小さな窓のような穴があり、そこから別の水路の音が聞こえる。


 黒水路が獣の腸なら、ここは王宮の骨格だった。


「美しい」


 ベアタが呟いた。


 確かに、美しかった。


 地上の庭園とは違う。


 人に見せるための美ではない。


 水を正しく流すために整えられた美だ。


 余計な飾りがない。


 だが、石の継ぎ目は精密で、傾斜は滑らかで、流れは静かだった。


「これは……」


 ヴィクトールの声が揺れた。


「下水ではないのか」


「排水でもあり、給水調整でもあり、非常水路でもあります」


 クラウディアは壁の水位線を見た。


「王宮だけでなく、王都全体の水を調整する中枢の一部です」


「なぜ、こんなものが忘れられた」


「見えないからでしょう」


 クラウディアは言った。


「見えないものは、重要であっても軽く扱われます」


 ヴィクトールは黙った。


 それが自分への言葉だと分かったのだろう。


 彼は民の涙は見た。


 聖女の癒やしは見た。


 舞踏会の喝采は見た。


 だが、井戸の水桶は見なかった。


 帳簿も、薬草の数も、下水図も見なかった。


 そして今、自分の王宮の下にあるものを、初めて見ている。


「進むぞ」


 グスタフが言った。


「ここはまだ綺麗な方だ。綺麗な通路ほど、奥でひどいもんに繋がる」


「不吉なことを言うな」


 ヴィクトールが言う。


「縁起で水位は下がらねえよ」


 グスタフは先頭で歩き始めた。


 クラウディアはその足元を見る。


 黒水路より歩きやすい。


 だが、歩きやすいからこそ危険だった。


 人は安心すると、数えなくなる。


「一つ目の分岐。右は庭園貯水槽。左は王宮浴場系統。直進が噴水下水室」


 ヴェルナーが図面を見ながら言う。


「直進します」


 クラウディアが答える。


 ヴィクトールは左の通路を見た。


「浴場へ繋がっているのか」


「はい」


「王族の浴場もか」


「おそらく」


「……」


 彼の顔がまた不快に歪む。


 王族の清潔な浴場も、この地下水路と繋がっている。


 当然のことだ。


 水は来て、使われ、出ていく。


 だが王宮では、その当然が見えないようにされている。


 清潔な水だけが、清潔な場所に突然現れるかのように。


「殿下」


 クラウディアが言った。


「水は、来た場所よりも、去る場所で本性が出ます」


「それは何の格言だ」


「今考えました」


「……君は本当に」


「止まってください」


 クラウディアの声が変わった。


 全員が止まる。


 前方の水音が乱れている。


 静かな流れの中に、細かい泡。


 白い濁り。


 噴水の水と同じ白さ。


 ヴェルナーが小瓶ですくう。


「白濁」


「ここで混ざっていますね」


 クラウディアは壁の水位線を見る。


 通常線より低い。


 だが、足元の流れは速い。


「水位は低いのに流速が速い」


「抜けている?」


 ヴェルナーが言う。


「はい。どこかへ吸われています」


 グスタフが前方の床を杖で叩いた。


 こん。


 こん。


 ごん。


「下が空いてる」


「落とし穴か?」


 ヴィクトールが険しい声を出す。


「落とし穴じゃねえ。水抜き穴だ。ただ、今は蓋がずれてる」


 ランタンを下げる。


 床石の一部が斜めに沈んでいた。


 隙間から、白濁した水が下へ吸い込まれている。


 水が落ちる音は小さい。


 だが、奥で大きな空洞に落ちている気配がある。


「この下は?」


 クラウディアが問う。


 ヴェルナーが古図を見る。


「現在図にはなし。古図では……白き門への支路の上です」


 ベアタが息を呑む。


「白き門」


「ここから下へ水が抜けている」


 クラウディアは考える。


 噴水下水室の水位低下。


 白濁。


 鐘の音。


 白き門への支路。


 水が呼んでいる。


 いや、呼んでいるというより、逃げている。


 何かが開いたのだ。


 開いてはならない、あるいは長く閉じていたものが。


「蓋を戻せるか」


 ヴィクトールが言う。


「今、戻してはなりません」


 クラウディアが答えた。


「なぜ」


「水の逃げ道を塞げば、別の場所へ圧がかかります。噴水に戻るか、浴場へ逆流するか、壁を割るか分かりません」


「では放置するのか」


「観察します」


「また観察か」


「観察せずに触ると、壊します」


 ヴィクトールは苛立ったように息を吐いた。


 だが、今度は反論しなかった。


 目の前に水がある。


 床の隙間へ吸い込まれている。


 彼にも、それを無理に塞ぐことが危険だと分かったのだろう。


「縄を」


 クラウディアは言った。


「私が縁を見ます」


「駄目です」


 ベアタが即座に言った。


 思わぬ強い声に、クラウディアは振り返る。


「なぜ」


「先ほど黒水路から戻ったばかりです。暗い場所で、また縁を見るのは危険です」


「必要です」


「私も必要だと思います。ですが、あなた一人が必要を背負いすぎます」


 クラウディアは言葉を失った。


 ベアタは続けた。


「私が光を出します。局長が水位を見ます。グスタフ様が足場を見ます。クラウディア様は、判断してください」


 ヴェルナー局長が頷いた。


「聖女様に賛成です」


 グスタフも杖を鳴らした。


「嬢ちゃんは見えたもんを繋げる役だ。穴に顔突っ込む役じゃねえ」


 クラウディアは一瞬、反論しようとした。


 だが、止めた。


 恐怖を手順に変えるなら、自分の衝動も手順で抑えなければならない。


 何でも自分で見ようとすることは、責任ではない。


 時に、無謀だ。


「分かりました」


 クラウディアは一歩下がった。


「局長、足場確認を。グスタフ様、支えてください。ベアタ様、灯火を」


「はい」


 ベアタが掌を開く。


 白い光が灯った。


 王宮地下の白石に、その光が柔らかく反射する。


 黒水路では闇の輪郭を濃くした光だった。


 ここでは、水の白濁をはっきり浮かび上がらせた。


 ヴェルナーが縄を腰に結び、床の縁に近づく。


 グスタフが後ろで縄を握る。


 クラウディアはその動きを見ながら、図面と水音を合わせる。


 ヴィクトールは黙っていた。


 彼は初めて、自分以外の人間が自分の王宮の下で判断する様子を見ている。


 命令ではない。


 役割。


 確認。


 補助。


 記録。


 水務の現場には、王太子の号令とは別の秩序があった。


「見えます」


 ヴェルナーが言った。


「下に、円形の水室。かなり深い。水が回っています」


「回っている?」


「渦です。中央に落ちている」


 クラウディアは古図を見る。


 白き門への支路。


 その手前に小さな円。


 水衡槽。


「水衡槽です」


「水位調整の?」


「はい。通常なら噴水下の水室と連動して、水位を安定させる場所です」


「今は」


「水が下へ抜けすぎています」


 ベアタの光が少し揺れた。


 その時。


 穴の奥から、低い音が響いた。


 こおん。


 近い。


 庭園で聞いた時より、ずっと近い。


 ヴィクトールが思わず一歩下がる。


「これが……鐘か」


「水鐘です」


 クラウディアは言った。


「水位変化を知らせる仕掛けです」


「誰に知らせる」


「管理する者に」


「だが、その者はもういない」


「ええ」


 クラウディアは穴の奥を見た。


「だから今、私たちが聞いています」


 こおん。


 二度目。


 今度は水が震えた。


 穴の縁に置かれた小瓶の水面が揺れる。


 王宮地下全体が、遠くで息をしているようだった。


 その直後、奥の通路から風が来た。


 湿った風。


 石灰と古い水の匂い。


 そして、かすかな鉄臭。


 血ではない。


 錆びた鉄の匂い。


「奥から空気が動いています」


 クラウディアが言った。


「つまり?」


 ヴィクトールが聞く。


「扉か水門が開いています」


「勝手にか」


「水圧で」


 グスタフが顔をしかめた。


「いや、違うな」


「何がです」


「水圧だけじゃねえ。人が触った匂いがする」


「人が?」


 ヴィクトールの声が鋭くなる。


「王宮地下に誰かがいるというのか」


 グスタフは床に膝をつき、隙間の縁を指でこすった。


 黒い泥。


 その中に、細い繊維。


 油を染み込ませた縄の切れ端。


「最近だ。水路番でもねえ。下手な奴が使う縄だ」


 ヴェルナーが険しい顔になる。


「商人ギルドか」


「商人ならまだましだ」


 グスタフは奥の暗がりを睨んだ。


「商人は金になるもんを運ぶ。だが、この先は白き門だ。金目当てで触る場所じゃねえ」


 クラウディアは、黒水路で見つかった木箱を思い出した。


 水車と波の印。


 古図。


 白き門への支路。


 商人ギルドは薬草を横流しした。


 だが、その穴から出てきた古図は、商人のものではなかった。


 では、誰がそれを運んだのか。


 誰が、なぜ、白き門への道を探しているのか。


「奥へ進みます」


 クラウディアが言った。


「危険だ」


 ヴィクトールが即座に言う。


「その通りです」


「なら戻るべきではないのか」


「戻る理由はあります。ですが、進む理由の方が大きい」


「王太子である私が戻れと言えば?」


「地上へ戻った後、噴水の白濁と水鐘と床下の水抜き穴について、殿下ご自身が説明してくださるなら戻ります」


 ヴィクトールは黙った。


 説明できない。


 彼はまだ、見たものの意味を受け止めきれていない。


 ここで戻れば、王宮はまた上の論理に戻る。


 機密。


 面子。


 許可。


 責任の押しつけ。


 そして水だけが進む。


「……進め」


 ヴィクトールは低く言った。


「ただし、無理はするな」


 クラウディアは少しだけ彼を見た。


 命令の形をしているが、内容は実務に近づいている。


 それは小さな変化だった。


「承知しました」


 一行は水抜き穴を避け、奥の通路へ進んだ。


 この先は、王宮下層水路のさらに古い区画だった。


 白石の壁が少しずつ粗くなる。


 床の傾斜が変わる。


 水路の幅が広がり、天井が低くなる。


 壁の装飾も消え、代わりに機能的な刻みが増えていく。


 水位線。


 矢印。


 水車の印。


 波の印。


 そして時折、祈祷文のような古い文字。


 ベアタが足を止めた。


「これは、聖歌の一部です」


「読めますか」


 クラウディアが尋ねる。


「古い文字ですが、少しなら」


 ベアタは壁に灯火を近づけた。


「水は低きへ。王は門を開き……ここが欠けています。……民を沈めず、宮を驕らせず」


 ヴィクトールが顔を上げた。


「何だと?」


 ベアタは戸惑いながら続ける。


「民を沈めず、宮を驕らせず。白き門は、量を分かつ」


 クラウディアは息を止めた。


 量を分かつ。


 水量を分配する門。


 白き門は、王宮を守るだけの水門ではない。


 王都全体の排水量、あるいは水位を分ける中枢だ。


「殿下」


 クラウディアは言った。


「白き門は、王宮専用の水門ではありません」


「何が言いたい」


「王宮と南区、あるいは王宮と旧王都地下の水量を分ける装置です」


「つまり」


「誤って操作すれば、どちらかが沈みます」


 ヴィクトールの表情が変わった。


 それは初めて、個人の屈辱ではなく、王太子としての恐怖だった。


「南区が?」


「または王宮が」


 ヴェルナーが重く言う。


「今、どちらへ水が抜けているかによります」


 その時、前方で金属の音がした。


 きい、と。


 何かが軋む音。


 続いて、水が落ちる重い音。


 ざああ、と低く響く。


 グスタフが手を上げた。


「止まれ」


 全員が止まる。


 ランタンを一つ前へ出す。


 通路の先に、広い空間が見えた。


 白い石の円形広間。


 中央には大きな縦穴。


 その周囲に、四つの水門。


 北。


 南。


 東。


 西。


 それぞれに古い文字と印。


 そして、その中の一つ。


 南側の水門が、半分開いていた。


 水がそこへ流れ込んでいる。


 白濁した水が、暗い縦穴へ落ちていく。


「白き門……」


 ベアタが呟いた。


 しかしクラウディアは、すぐに首を振った。


「いいえ」


「違うのですか」


「ここは前室です」


 彼女は古図を広げた。


「白き門そのものは、この下です」


 ヴィクトールの顔が硬直する。


「この下?」


 こおん。


 水鐘が鳴った。


 今度は、足元からだった。


 円形広間の床が、わずかに震える。


 縦穴の底。


 見えない深さから、鐘が鳴っている。


 グスタフが唸る。


「まずいな」


「何が」


「南門が開いてる」


 ヴェルナーが図面を見た。


「南側……南区方面か」


「はい」


 クラウディアは答えた。


「現在、王宮下層水が南側へ抜けています」


「南区へ水が流れているということか」


 ヴィクトールが聞く。


「その可能性が高いです」


「では南区が危険なのか」


「はい」


 ヴィクトールは言葉を失った。


 南区。


 昨日まで彼にとって、それは貧民街であり、救済の対象であり、聖女の善意を向ける場所だった。


 今は違う。


 王宮の足元から水が流れ、南区を沈めようとしているかもしれない。


 王宮と南区が、水で繋がっている。


 彼は初めて、それを自分の問題として見ている。


「閉じればよいのではないか」


「簡単には閉じられません」


 クラウディアは水門を見る。


「今、南へ抜けている水を急に止めると、王宮側へ戻るか、別の古い支路へ流れます」


「またそれか」


「水は消えません」


 その言葉に、ヴィクトールは口を閉じた。


 水は消えない。


 問題も消えない。


 どこかへ押し流せば、別の場所で溢れる。


 政治も同じだと、彼はまだ気づいていないかもしれない。


 だが、水は先に教えている。


「誰かが開けたのですか」


 ベアタが尋ねた。


 クラウディアは水門の操作輪を見た。


 古い鉄輪。


 その表面に、新しい傷。


 油。


 縄の痕。


「はい」


「誰が」


「分かりません」


「目的は」


「水を南へ流すこと」


「なぜ」


 ベアタの声が震えた。


 クラウディアは答えられなかった。


 まだ情報が足りない。


 だが、嫌な推測はある。


 南区を沈めるためか。


 沈黙水路を開けるためか。


 あるいは、白き門の下にある何かを動かすためか。


「局長、操作輪に触れた痕を確認してください。グスタフ様、水門の状態を。ベアタ様、壁の文字を読める範囲で記録してください。殿下」


「何だ」


「中央の縦穴へ近づかないでください」


「子ども扱いするな」


「落ちれば子どもでも王太子でも死にます」


 ヴィクトールは険しい顔をしたが、縦穴から一歩離れた。


 それでいい。


 生き残るには、納得より行動が先の時がある。


 ヴェルナーが操作輪を調べる。


「新しい油。松脂混じりです。商人ギルドで使う荷縄の油に似ている」


「商人ギルドがここまで?」


「もしくは、同じ油を使う誰か」


 グスタフが水門の側面を見ている。


「半分開いてるんじゃねえ」


「違うのですか」


「引っかかってる」


 クラウディアは近づきすぎない位置から見る。


 水門の下部に、何かが挟まっていた。


 木片。


 いや、箱の蓋か。


 黒ずみ、削れ、水圧で潰れかけている。


「箱の破片」


 ヴェルナーが言った。


「薬草箱か?」


「救済院の箱ではありません。印が違います」


 クラウディアは目を凝らす。


 水車と波の印。


 古市場の床下から出た木箱と同じ。


「古い木箱の破片です」


 ベアタが青ざめる。


「では、あの箱はここから流れてきたのですか」


「あるいは、ここへ運ばれた」


 クラウディアの頭の中で、線が繋がる。


 誰かが白き門前室へ入った。


 古い箱を動かした。


 水門に破片が挟まり、南側が半開きになった。


 水が南区へ流れ、王宮噴水の水位が低下。


 白濁。


 水鐘。


 南第五井戸の異常。


 これは単なる事故か。


 それとも意図的か。


「この破片を取れば閉まるのか」


 ヴィクトールが言った。


「おそらく、水門は動くようになります」


「なら取れ」


「危険です」


「またか」


 ヴィクトールの声に苛立ちが戻る。


「目の前に原因があるのだろう。取ればよい」


「水圧がかかっています。無理に取れば、水門が急に落ちるか、逆に開く可能性があります」


「ではどうする」


「水を逃がしながら、圧を下げます」


「どうやって」


 クラウディアは四つの水門を見た。


 北。


 南。


 東。


 西。


 壁の文字。


 水は低きへ。


 王は門を開き。


 民を沈めず。


 宮を驕らせず。


 白き門は、量を分かつ。


「東門を少し開けます」


 ヴェルナーが息を呑んだ。


「大聖堂側です」


「はい」


「祈祷院地下井戸へ流れます」


「大聖堂側の地下井戸は、現在使用制限中でしたね」


「古井戸は使っておりません」


「なら一時的な逃がし先にできます」


「水量は」


「指二本分だけ。開けすぎると大聖堂地下が浸水します」


 ヴィクトールが困惑したように言う。


「君は、王宮の水を大聖堂へ流すつもりか」


「はい」


「聖域だぞ」


「南区を沈めるよりはましです」


 ベアタが静かに頷いた。


「大聖堂には、私から説明します」


 ヴィクトールが彼女を見た。


「ベアタ」


「聖域は、人を救うためにあるはずです」


 その言葉は、柔らかかった。


 だが、強かった。


 ヴィクトールはまた黙った。


 昨日まで、彼はベアタの善意を自分の正しさの飾りにしていた。


 だが今、その善意は彼の判断を押し返している。


「東門を指二本分」


 クラウディアは言った。


「局長、操作を。グスタフ様、水音を。ベアタ様、灯火を東門へ。殿下は後方で、何か異変があれば衛兵に伝令を」


「私が伝令役か」


「殿下の声なら、王宮衛兵が即座に動きます」


 ヴィクトールは一瞬、不満そうにした。


 だが、これは侮辱ではなかった。


 彼にしかできない役割である。


「……分かった」


 東門の操作輪に、ヴェルナーが手をかける。


 古い鉄が軋む。


 重い。


 グスタフが耳を澄ませる。


 ベアタの光が白い石を照らす。


 クラウディアは水面を見た。


「少し」


 操作輪が動く。


 きい。


 水門の下から細い水流が東へ抜ける。


 音が変わる。


 ざあ、と南へ落ちていた水音に、しゃあ、という横流れの音が混じった。


「止めて」


 クラウディアが言う。


 ヴェルナーが止める。


「水位」


「南門前の圧、少し下がった」


 グスタフが言った。


「もう少し必要か」


「待ちます」


 クラウディアは水面を見る。


 急ぐな。


 水はすぐには答えない。


 数呼吸。


 十呼吸。


 白濁した水面がわずかに下がる。


 南門に挟まった破片が、少し揺れた。


「今なら取れるか」


 ヴィクトールが言う。


「まだです」


 クラウディアは言った。


「破片が動いています。水の力で外れるかもしれません」


「待つのか」


「はい」


「君は本当に、待つことと急ぐことの基準が分からない」


「水が決めています」


 その時、破片が大きく揺れた。


 ぎし、と水門が鳴る。


 グスタフが叫んだ。


「下がれ!」


 全員が一歩下がる。


 破片が抜けた。


 黒い木片が水に押し出され、南側の流れに吸い込まれる。


 同時に、水門が重い音を立てて動いた。


 閉まる。


 と思った瞬間。


 止まった。


 南門は完全には閉じない。


 指一本分の隙間を残して、止まっている。


「なぜだ」


 ヴィクトールが言った。


「機構が壊れています」


 ヴェルナーが答える。


「もしくは、下の白き門が引いている」


 こおん。


 足元から鐘が鳴る。


 先ほどより深い音。


 縦穴の底で、水が応えている。


 クラウディアは古図を見る。


 白き門前室。


 その下に、さらに大きな円。


 白き門本体。


 そこから南へ、沈黙水路。


 東へ、大聖堂地下。


 北へ、王宮。


 西へ、古市場。


 王都の水が、ここで分かれている。


「下へ降りる必要があります」


 クラウディアは言った。


「駄目だ」


 今度はヴィクトールが即座に言った。


「これ以上は危険すぎる」


「同意します」


「なら」


「今日は降りません」


 ヴィクトールは拍子抜けしたように黙った。


 クラウディアは続ける。


「ここまでで十分な情報を得ました。南門の流量は減らしましたが、完全には止まっていません。東門を指二本分開放。大聖堂へ伝令。南区へ警戒。水務局へ追加人員。白き門本体へ降りる準備は、装備を整えてからです」


 グスタフが頷いた。


「やっと分かってきたな。地下は一日で勝とうとする奴から殺す」


「褒めていますか」


「今日は褒めてる」


 ベアタがほっと息を吐く。


「戻るのですね」


「はい」


 クラウディアは彼女の顔色を見た。


「灯火を消してください。十分です」


 ベアタは頷き、光を消した。


 ランタンの灯だけになる。


 闇は濃くなった。


 だが、クラウディアは呼吸を乱さなかった。


 怖い。


 でも見えている。


 数えている。


 帰り道がある。


 それで十分だ。


 その時、ヴィクトールが低く言った。


「クラウディア」


「はい」


「私は、この王宮のことを知らなかったのだな」


 その声は、怒りではなかった。


 ようやく、事実を事実として受け取った声だった。


 クラウディアは少しだけ彼を見た。


「王宮の上は、ご存じでした」


「下を知らなければ、上も知らないのと同じか」


「少なくとも、水に関しては」


 ヴィクトールは苦い顔をした。


「君は容赦がない」


「今のは、かなり柔らかく申し上げました」


「……そうか」


 短いやり取りだった。


 だが、昨日までなら成立しなかった。


 王太子が、自分の無知を言葉にした。


 それだけで、水位線一本分くらいは前進している。


 一行は戻り始めた。


 白き門前室を離れ、白石の通路を戻る。


 東門へ水を逃がしたことで、足元の流れは少し落ち着いている。


 だが、南門は完全には閉じていない。


 南区への水は、まだ流れている。


 王宮は一時的に保たれた。


 だが問題は下に残った。


 白き門。


 沈黙水路。


 誰かが触れた操作輪。


 古い木箱。


 商人ギルドの油。


 そして、地図に描かれた沈む街。


 階段の下まで戻った時、上から慌ただしい足音が聞こえた。


 入口見張りの水務局職員が顔を出す。


「局長! お嬢様!」


「何事です」


「南区から急報です」


 クラウディアの足が止まる。


「南第五井戸ですか」


「いえ」


 職員は息を切らしながら言った。


「救済院の裏手で、地面が沈みました」


 ベアタの顔が白くなる。


「救済院……」


「穴が開き、地下から水音がしているとのことです。中から、鐘の音も」


 こおん。


 その瞬間、足元の深い場所からも鐘が鳴った。


 王宮地下の鐘。


 南区の鐘。


 二つの鐘が、離れた場所で同じ水を告げている。


 ヴィクトールが蒼白な顔でクラウディアを見た。


「繋がっているのか」


「はい」


 クラウディアは答えた。


「王宮と南区は、地下で繋がっています」


 彼女は階段を見上げた。


 地上の光。


 その先に、王宮庭園。


 さらにその先に、南区。


 そして、その下に白き門と沈黙水路。


 もう、これは王宮だけの問題ではない。


 井戸だけの問題でもない。


 善意だけの問題でもない。


 王都そのものが、下から崩れ始めている。


「戻ります」


 クラウディアは言った。


「どこへ」


 ヴィクトールが問う。


「地上へ。そして南区へ」


「王宮は」


「殿下」


 クラウディアは振り返った。


「王宮だけを見ている時間は、もう終わりました」


 ヴィクトールは何も言わなかった。


 上から光が差している。


 下では水が鳴っている。


 白大理石の王宮の下にあったもの。


 それは、ただの下水ではなかった。


 王都の命と、王家の忘却と、南区の危機が絡み合った巨大な仕組みだった。


 クラウディアは階段を上り始めた。


 恐怖を数えながら。


 灯りを数えながら。


 そして、次に救うべき場所を、すでに心の中で数え始めながら。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ