第6話 噴水は殿下をお呼びです
王宮庭園の噴水は、王都で最も美しい水だった。
白大理石の女神像。
四方へ伸びる獅子の水口。
磨かれた水盤。
春には花びらを浮かべ、夏には陽光を砕き、冬には薄い氷をまとって朝日を返す。
貴族たちは、その噴水を王家の繁栄の象徴だと言った。
詩人は、清らかな水の冠だと讃えた。
恋人たちは、女神像の前で誓いを囁いた。
庭師は、毎朝水盤の縁を磨いた。
けれど。
クラウディア・フォン・カルンシュタインだけは、昔から知っていた。
美しいものは、美しい場所だけで保たれているのではない。
噴水の下には、水路がある。
水路の下には、さらに古い水路がある。
そして古い水路は、時に、王家の都合より正直だった。
「止まっていますな」
オットー・ヴェルナー局長が低く言った。
王宮庭園。
その中央で、噴水は沈黙していた。
水盤には白く濁った水が溜まり、いつもなら高く吹き上がる中央の水柱は、喉を詰まらせたように途切れている。
獅子の水口からは、細い糸のような水が垂れていた。
それも白い。
牛乳を薄めたような、嫌な白さだった。
庭師たちは青ざめ、侍女たちは遠巻きに口元を押さえ、衛兵たちは何を守ればよいのか分からない顔をして立っている。
水は敵ではない。
だから剣ではどうにもならない。
「色は」
クラウディアが尋ねた。
ヴェルナー局長が水盤の縁で膝をつき、小瓶に水をすくった。
「白濁。沈殿はまだ不明。臭気は弱いですが、石灰と古い水の匂いがあります」
「腐卵臭は」
「ごくわずか」
「薬草臭は」
「今のところなし」
クラウディアは頷いた。
南第五井戸とは違う。
薬草の汚染ではない。
黒水路の泥水がそのまま来たわけでもない。
これは、もっと大きな水の動きだ。
水位が変わった。
流れが変わった。
あるいは、普段は動かない場所の水が、動き始めた。
「クラウディア!」
鋭い声が飛んだ。
振り返ると、王太子ヴィクトールが庭園の石畳を歩いてきていた。
昨日の舞踏会で着ていた華やかな礼装ではない。
だが、急ぎで着替えたらしい上着にも金の刺繍があり、王太子としての威厳を失うまいとする意志が見えた。
隣には側近たち。
少し遅れて、聖女ベアタもやって来る。
彼女は白い聖女服ではなく、簡素な外套姿だった。
胸には帳面。
昨日までなら、王太子の隣に立つための姿ではない。
けれど今の彼女は、そこにいる理由を持っていた。
「これはどういうことだ」
ヴィクトールは噴水を指した。
「王宮の庭園水が濁るなど、前代未聞だぞ」
「前例がないかどうかは、記録を確認してから判断します」
クラウディアは答えた。
「今は原因確認が先です」
「私は原因を聞いている!」
「ですから、今調べています」
ヴィクトールの眉が跳ねた。
昨日までなら、クラウディアはもう少し言葉を飾ったかもしれない。
だが彼女はもう、王太子妃候補ではない。
殿下の隣で美しく沈黙する義務もない。
水が止まっている時に、王族の機嫌を先に整える余裕もない。
「クラウディア様」
ベアタが静かに近づいた。
「私にできることはありますか」
「水盤に触れないよう、人払いを。庭師、侍女、衛兵、誰も水を汲まないようにしてください。触れた者がいれば名前を記録してください」
「分かりました」
「ベアタ」
ヴィクトールが咎めるように言った。
「君がそこまでする必要はない」
ベアタは振り返った。
その顔には、昨日までの迷いがまだ残っている。
だが、黒水路の灯火を保った者の眼差しがあった。
「殿下。噴水の水に触れた方がいるなら、その方が体調を崩すかもしれません」
「聖女である君が癒やせばいい」
「癒やします。ですが、その前に記録します」
ヴィクトールが言葉を失った。
彼にとってベアタは、祈り、微笑み、人々に手を差し伸べる存在だった。
帳面を持ち、水に触れた者の名前を問う聖女ではなかった。
だが、今のベアタはその帳面を抱きしめている。
「人は帳簿ではありません」
ベアタは小さく言った。
かつて、自分がクラウディアへ投げた言葉だった。
「でも、記録しなければ、次に苦しむ人を減らせません」
ヴィクトールの顔が複雑に歪んだ。
クラウディアはそのやり取りを最後まで見なかった。
噴水の縁へ視線を戻す。
今見るべきは、王太子の感情ではない。
水だ。
「局長。噴水への給水路は」
「庭園北側の貯水槽からです。通常は王宮浴場系統とは別」
「通常は、ですね」
「ええ」
「非常時の接続は」
ヴェルナーは苦い顔をした。
「古い図によれば、地下で王宮下層水路と接続している可能性があります」
「可能性ではなく、接続しています」
「なぜ断言を?」
クラウディアは噴水の中央像を見上げた。
白大理石の女神。
その足元に刻まれた波の意匠。
七歳の頃は、ただの装飾だと思っていた。
今なら分かる。
黒水路で見た水車と波の刻印とは違う。
だが、同じ思想で刻まれている。
水を飾るための印ではない。
水を読むための印。
「この噴水は、庭園装飾ではありません」
クラウディアは言った。
「何?」
ヴィクトールが不快そうに眉を寄せる。
「王宮庭園中央噴水は、王都地下水位を示すための水位計です」
庭園にいた者たちが、いっせいに黙った。
水位計。
その言葉は、この美しい庭園にはあまりに不似合いだった。
「馬鹿な」
ヴィクトールが吐き捨てる。
「これは王家の象徴だ。初代王が水の女神へ捧げた――」
「そのように後世が解釈したのでしょう」
「クラウディア」
「殿下」
クラウディアは初めて、正面から王太子を見た。
「象徴であることと、機能を持つことは矛盾しません」
ヴィクトールの顔が険しくなる。
「王家の聖なる噴水を、道具扱いするつもりか」
「道具は卑しいものではありません。人を生かす道具なら、なおさらです」
「君は何でも数字と機構にする」
「水がそうだからです」
庭園の空気が張り詰める。
ベアタが、そっと人払いを進めていた。
彼女は王太子とクラウディアの間に割って入らない。
だが、周囲の人々を水盤から遠ざけ、触れた者の名を記録し、体調を聞いている。
それは、昨日の彼女とは違う動きだった。
華やかではない。
けれど、実務だった。
「局長」
クラウディアは言った。
「王宮庭園の地下図を」
「持参しております」
ヴェルナー局長が水務局職員へ合図する。
職員が筒を持って進み出た。
だが、それを広げようとした瞬間、王宮側近の一人が手を上げた。
「待て。王宮地下の図面を、この場で広げることは許されない」
ヴェルナーの手が止まる。
クラウディアは側近を見た。
「理由は」
「警備上の問題だ」
「今、噴水が白濁しています」
「それでも王宮地下図は機密だ」
「王宮の機密と王都の水、どちらを優先されますか」
「それを判断するのは、あなたではない」
側近は勝ち誇ったように言った。
王宮では正しい言葉だった。
権限。
身分。
機密。
許可。
しかし水は、その言葉を読まない。
クラウディアは噴水を見た。
細い水が、獅子の口からまた一滴垂れる。
白い。
不快なほど白い。
「殿下」
クラウディアは王太子へ向き直った。
「図面の閲覧許可を」
「なぜ私が君に許可を出さねばならない」
「出さない場合、原因調査が遅れます」
「脅しか」
「いいえ。報告です」
ヴィクトールは唇を噛んだ。
昨日の婚約破棄の場では、彼はクラウディアを切り捨てる側だった。
だが今は違う。
王宮の噴水が止まっている。
王宮の水が濁っている。
それは貧民街の井戸とは違う。
王家の顔に泥がついたのだ。
そして、その泥を拭える可能性が最も高い者は、昨日切り捨てた令嬢だった。
これほど屈辱的な構図もない。
「……広げろ」
ヴィクトールは低く言った。
「殿下!」
側近が声を上げる。
「許可する」
ヴィクトールは噛みしめるように言った。
「ただし、この場にいる者以外への口外は禁じる」
「水務局の作業記録には残します」
クラウディアが即答した。
「クラウディア!」
「記録しない作業は、次の事故の原因になります」
「君は一言多い」
「今日はかなり抑えています」
ヴェルナー局長が咳払いした。
明らかに笑いを隠すための咳だった。
側近の顔が赤くなる。
ベアタは帳面で口元を隠していた。
王宮庭園の石卓に、三枚の図面が広げられた。
一枚目は現在の庭園水路図。
二枚目は、王宮下層水路の古い写し。
三枚目は、先ほど古市場の倉庫で見つけた、水車と波の刻印入りの古図。
風が吹く。
紙の端が揺れる。
クラウディアは石を置いて押さえた。
「現在図では、中央噴水は北貯水槽からの給水のみ」
「はい」
ヴェルナーが言う。
「だが古い下層図では、噴水下に別系統の水室があります」
「ここです」
クラウディアは指を置いた。
噴水直下。
円形の小部屋。
現在図には描かれていない。
だが古図にはある。
その周囲に、四つの線。
北へ庭園貯水槽。
西へ王宮浴場。
東へ大聖堂側の地下井戸。
南へ、白き門へ至る支路。
「白き門」
ベアタが小さく呟いた。
ヴィクトールが彼女を見る。
「何だ、それは」
「古い聖歌に出てくる言葉です」
「聖歌?」
「はい。水は低きへ、祈りは深きへ。王は門を開き、鐘は闇に告げる。白き石の下、眠る都を忘るなかれ」
ヴィクトールの顔に困惑が浮かぶ。
彼にとって聖歌は、式典で歌われるものだった。
意味を考えるものではない。
祈祷院の古い言葉が、水路図と重なるなど、想像もしていなかったのだろう。
「白き石とは、王宮の白大理石ではないかと」
クラウディアは言った。
「そして白き門は、王宮地下にある水門かもしれません」
「王宮地下に、水門など」
ヴィクトールは言いかけて、止まった。
知らない。
彼は王太子でありながら、知らない。
王宮の舞踏会場、庭園、謁見の間、王座。
それらの場所なら知っている。
だが、その下に何があるかは知らない。
それを認めることは、王太子にとって屈辱だった。
クラウディアはその屈辱を指摘しなかった。
今は水が先だ。
「水盤の底を確認します」
「底?」
「はい。噴水が水位計なら、基準線があるはずです」
庭師たちが顔を見合わせる。
「水を抜くのか?」
ヴィクトールが尋ねる。
「一部だけです。全て抜く必要はありません。むしろ急に抜くと、水圧が変わります」
「水圧、水圧と」
ヴィクトールが苛立たしげに言う。
「君は本当に、王宮を機械のように見るのだな」
「機械なら、壊れる前に直せます」
「王宮は機械ではない」
「では殿下」
クラウディアは静かに言った。
「今、王宮の噴水は何に見えますか」
ヴィクトールは答えられなかった。
美しい象徴。
王家の威厳。
女神への捧げもの。
それらの言葉では、白濁した水を説明できない。
クラウディアは庭師に指示を出した。
「水盤の東側排水口を半分だけ開けてください。急には開けないで。局長、水位を見ます。ベアタ様、触れた者の記録を続けてください」
「はい」
「はい」
庭師が恐る恐る排水口を操作する。
水盤の水がゆっくり下がっていく。
白濁した水面が、白大理石の内壁を濡らしながら下がる。
やがて、水盤の内側に細い線が現れた。
装飾ではない。
測量線だ。
さらにその下に、別の線。
そして小さな刻印。
水車と波。
黒水路の壁。
古市場の木箱。
古図。
同じ印。
ヴィクトールの顔から血の気が引いた。
「それは……」
「水衡印です」
クラウディアは言った。
「この噴水は、王都地下水衡機構の一部です」
庭師の一人が震える声で言った。
「では、私どもはずっと、計器を磨いていたのですか」
「はい」
「花びらを浮かべておりましたが」
「それは、あまりよくありません」
「……申し訳ございません」
「今分かれば結構です」
ヴェルナー局長が水位線を測る。
「通常線より、指三本分低い」
「つまり、噴水下の水室へ水が流れ込んでいないか、別の方向へ抜けています」
「白濁は?」
「普段動かない古い水室の石灰分が混ざった可能性があります。あるいは、白き門側の水が逆流した」
「白き門側……」
ヴェルナーの声が重くなる。
ベアタが聖歌の一節を思い出すように呟いた。
「白き石の下、眠る都を忘るなかれ」
クラウディアは図面を見た。
王宮噴水下の水室。
白き門への支路。
黒水路の鐘。
沈んだ旧王都。
そして南第五井戸。
離れているはずの場所が、水で繋がっている。
「殿下」
クラウディアは言った。
「王宮地下へ入る許可を」
「またか」
「今度は王宮の下です」
「だから問題なのだ!」
ヴィクトールの声が庭園に響いた。
庭師も侍女も、衛兵も息を呑む。
「王宮地下は王家の中枢だ。君は昨日婚約破棄されたばかりの令嬢だぞ。そこへ入れろと言うのか」
「はい」
「恥を知れ」
「水が濁っています」
「王家の機密だ!」
「王家の機密は、水を清めません」
ヴィクトールが顔を歪めた。
「君は私を侮辱しているのか」
「いいえ」
クラウディアは首を振った。
「殿下を守ろうとしています」
「何?」
「今、この噴水が止まった意味を理解できる者は限られています。ですが放置すれば、王宮中が理解します。侍女が倒れ、庭師が倒れ、浴場の水が濁り、厨房の水が臭えば、もう隠せません」
ヴィクトールは黙った。
「王家の威信を守りたいなら、なおさら今、原因を調べるべきです」
「……君が、王家の威信を語るのか」
「私は王家の威信に興味はありません」
側近がぎょっとする。
ヴィクトールも目を見開いた。
クラウディアは続けた。
「ですが、王家の威信が折れることで王都の対応が遅れるなら、それは水務の問題です」
ヴェルナー局長がまた咳払いした。
今度は笑いではなく、かなり本気で喉が詰まったようだった。
ベアタは静かにクラウディアを見ている。
ヴィクトールはしばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で言う。
「入る者は限る」
「当然です」
「君、ヴェルナー局長、聖女ベアタ。水務局職員二名。私も行く」
空気が止まった。
クラウディアは、ほんのわずかに眉を動かした。
「殿下も?」
「私の王宮の下だ」
ヴィクトールは吐き捨てるように言った。
「君たちだけを行かせるわけにはいかない」
言葉だけなら、責任感に聞こえる。
だがクラウディアには分かった。
半分は意地。
半分は不安。
王宮の下に自分の知らないものがあるという事実を、彼は認めたくない。
だから自分の目で見に行く。
悪くない。
少なくとも、見ようとしている。
「地下は汚れます」
「構わない」
「臭います」
「構わない」
「命令では水は退きません」
「……分かっている」
「ランタンは十個持ちます」
「多すぎないか」
「多すぎると思うなら、殿下は地上に残ってください」
ヴィクトールは口を閉じた。
ベアタが小さく、しかしはっきりと言った。
「殿下。地下では、灯りは多い方がよろしいです」
ヴィクトールは、彼女の言葉には反論しなかった。
昨日なら、ベアタはそんなことを言わなかっただろう。
灯りが必要な地下へ、実際に降りた者の言葉だった。
「……好きにしろ」
ヴィクトールは言った。
「ただし、私の前で王家の恥を騒ぎ立てるな」
「騒ぎ立てません」
クラウディアは答えた。
「記録します」
「それが一番嫌なのだがな」
「お気持ちは分かります」
「絶対に分かっていない」
「そうかもしれません」
噴水の水位は、さらにわずかに下がっていた。
獅子の口から垂れる白い水が、途切れる。
庭園に、嫌な沈黙が落ちた。
その時だった。
白大理石の女神像の足元から、かすかな音がした。
こおん。
庭園にいた全員が固まった。
鐘の音。
地上の鐘ではない。
王宮の朝鐘でもない。
噴水の下。
白大理石の下。
深い場所から、湿った音が響いた。
こおん。
二度目。
ベアタの顔が青ざめる。
ヴェルナー局長が図面を握る。
ヴィクトールは、初めて本当に怯えたような顔をした。
「これは何だ」
王太子の声が揺れていた。
クラウディアは噴水を見た。
七歳の春、この噴水は詰まりを知らせていた。
今は違う。
もっと深いところから、もっと古い仕掛けが鳴っている。
王都の底で水が鐘を鳴らし、今度は王宮の噴水がそれに応えている。
「殿下」
クラウディアは静かに言った。
「噴水が、お呼びです」
ヴィクトールは反射的に怒鳴ろうとした。
だが声は出なかった。
白く濁った噴水。
水衡印。
古図。
聖歌。
そして地下から鳴る鐘。
それらを前にして、王家の威厳は少しだけ遅れていた。
「王宮地下へ入ります」
クラウディアは言った。
「今すぐに」
ヴェルナー局長が頷く。
ベアタが帳面を閉じ、胸元の聖印に触れた。
ヴィクトールは噴水を見つめたまま、ようやく低く答えた。
「……案内しろ」
クラウディアは踵を返した。
暗闇は怖い。
地下は怖い。
王宮の下なら、なおさら怖い。
だが、今度は水が王宮そのものを呼んでいる。
見ないふりはできない。
彼女は歩きながら言った。
「局長。灯りは十。予備芯は防水布で。縄は三本では足りません。王宮地下は階段が多いはずです」
「承知しました」
「ベアタ様」
「はい」
「灯火は温存してください。必要になるまで使わないで」
「分かりました」
「殿下」
「何だ」
「地下では、私の指示に従ってください」
ヴィクトールが足を止めた。
「君は、私に命令するのか」
「はい」
クラウディアは振り返らずに言った。
「水は殿下のご身分を存じませんので」
庭園の空気が凍った。
だが、ヴィクトールは今度こそ怒鳴らなかった。
代わりに、噴水の下から三度目の鐘が鳴った。
こおん。
それはまるで、王太子の返事を待たない水の催促のようだった。
クラウディアは、腰の小型灯に手を触れた。
灯りを数える。
恐怖を数える。
帰り道を数える。
そして、王都の脈を読む。
王宮の白大理石の下で、何かが動き始めていた。




