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紅蓮の大地  作者: 大田牛二
第二章 五胡躍動

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周勰

 315年


 周勰しゅうきょうが父の遺言に基き、呉人の怨みに乗じて乱を為そうと謀った。そこで、呉興功曹・徐馥じょふくに叔父の丞相従事中郎・周札しゅうれいの命を矯称(偽って宣言すること)させ、徒衆を招集して王導おうどう刁協ちょうきょうを討とうとした。


 すると、豪傑が一斉に帰附し、呉の末帝・孫皓の族人・孫弼そんひつも広徳で兵を起こして周勰に応じた。


 正月、徐馥が呉興太守・袁琇えんしゅうを殺し、数千の兵を有して周札を主に奉じようとした。


 しかし、これを聞いた周札は大いに驚いて義興太守・孔侃こうかんに報告した。周勰は周札の意思が同じではないと知り、動くことができなかった。杜撰とはこのことである。


 徐馥の党人は懼れを抱き、徐馥を攻めて殺した。孫弼も命を落とした。


 周札の子・周続しゅうぞくも衆人を集めて徐馥に呼応したため、左丞相・司馬睿しばえいは兵を発して討つべきかどうかを討議した。


 王導が言った。


「今、少ない兵を発しても、賊を平らげるには足りず、多くの兵を発してしまえば、根本が空虚になります。周続の族弟(同輩の同族で年下の者)である黄門侍郎・周莚しゅうていは忠良で果敢であり、謀が有るので、周莚を使者として派遣することだけを請います。そうすれば、周続を誅殺するに足りましょう」


 司馬睿はこれに従った。


 周莚は昼夜兼行して郡に到った。周莚が郡城に入ろうとした時、門で周続に遭遇したため、こう言った。


「君と共に孔府君を訪ねようとしていたところだ。話したいことがある」


 周続は孔侃の府に入ろうとしなかったが、周莚が周続を引っぱって一緒に行くように強制した。


 席に着くと、周莚が孔侃に言った。


「府君はなぜ賊を席に置かれるのですか」


 周続は衣服の中に常に刀を入れていたため、即座に刀を持って周莚に迫った。しかし周莚が郡の伝教・呉曾ごそうを叱咤して周続を撃殺させた。


 周莚はこれを機に周勰も誅殺しようとしたが、周札は同意せず、罪を従兄の周卲しゅうしょうに着せて誅殺した。


 周莚は家に帰って母に挨拶することなく、そのまま長駆して去った。母は狼狽して後を追った。


 司馬睿は周札を呉興太守に、周莚を太子右衛率に任命した。


 但し、周氏は呉の豪望(声望がある豪族)だったため、徹底して処理せず、以前と同じように周勰を慰撫した。


 これが司馬睿の政権の弱さである。







 晋の朝廷が平東将軍・宋哲そうてつに詔を発して華陰に駐屯させた後、二月、晋が左丞相・琅邪王・司馬睿を丞相・大都督・督中外諸軍事に進め、右丞相・南陽王・司馬保しばほを相国に、司空・荀組じゅんしょを太尉・領豫州牧に、大将軍・劉琨りゅうこんを司空・都督并冀幽三州諸軍事に任命した。


 しかし劉琨は司空の官位を辞退して受け入れなかった。


 南陽王・司馬模が敗れた時、都尉・陳安ちんあんが秦州を訪ねて世子・司馬保に帰順した。


 司馬保は陳安に命じて、千余人を率いて叛羌を討伐させ、寵信・待遇を甚だ厚くした。


 司馬保の将・張春ちょうしゅんはこれを妬んで陳安を讒言し、


「陳安には異志がある」


 と言って除くように請うたが、司馬保は同意しなかった。


 すると張春は刺客を伏せて陳安を刺殺させた。陳安は傷を負ったが、馳せて隴城に還った。しかしその後も、陳安は司馬保に使者を送り、貢物を絶えさせなかった。


 晋朝廷が詔を発して代公・拓跋猗盧たくばついろの爵位を進め、代王にした。拓跋猗盧に自分の官属を置かせて、代と常山の二郡を代王の領地とした。


 猗盧が并州刺史・劉琨に対して、并州従事・雁門の人・莫含ばくふんを送るように請うた。


 劉琨が莫含を派遣しようとしたが、莫含は代に行くことを欲さなかった。そこで劉琨が言った。


「并州の単弱と私の不才をもってしても、胡・羯の間で自存できているのは、代王のおかげだ。私が腰を低くして財を尽くし、長子を人質にして彼を奉じているのは、朝廷のために大恥を雪ぎたいと願っているからだ。汝が忠臣になろうと欲するのならば、なぜ事を共にするという小誠(劉琨個人に仕えるという小さな忠誠)を惜しんで、国のために殉じるという大節を忘れようとしているのか。代王に仕えに行って彼の腹心となることが、一州の頼みとするところである」


 こうして莫含は代に行くことになった。


 猗盧は莫含を甚だ尊重し、常に大計に参与させた。


 そんな猗盧は厳しく法を用いていた。


 かつて、国人が法を犯したため、部落を挙げて誅殺されたことがあった。その際も、老幼が互いに手をとりあって道を進み、人が彼らに、


「どこに行くのですか」


 と問うと皆。


「死に就きに行くのです」


 と答えて、一人も逃げ隠れしようとする者はいなかった。


 




 王敦おうとん陶侃とうかん甘卓かんたくらを派遣して杜弢とげんを討たせた。


 杜弢は前後数十戦して多くの将士が死んだため、丞相・司馬睿に投降を請うたが、司馬睿は同意しようとしなかった。


 そこで杜弢は南平太守・應詹けいせんに書を送り、かつて應詹と共に楽郷を討ったことを述べ、こう伝えた。


「我々は共に楽郷を討ち、本来は利害を同じくしていました。しかし後に湘中において、死を懼れて生を求めたので、ついに結集することになったのです。もしも旧交の情によって、私のために真実を明らかにし、盟府(司馬睿は東南方面の諸鎮の盟主だったため、「盟府」と呼ばれていた)に誠心を示して私を義徒の列に連ならせることができるならば、私はあるいは北に向かって中原を清め、あるいは西に向かって李雄りゆうを取り、こうすることで以前の罪を贖いましょう。そのようにできたら死んだとしても生きているのと同じです。後悔はありません」


 應詹は司馬睿に報告してこの書を提出し、こう言った。


「杜弢は益州の秀才で(羅尚が益州刺史だった時、杜弢を秀才に挙げたことがある)、元から清望がありましたが、郷人に逼迫されました。今、悪を悔いて善に帰したので、使者に命じて慰撫して招降させることで、江・湘の民を静めるべきです」


 司馬睿はこの意見に同意し、前南海太守・王運おううんを送って杜弢の投降を受け入れさせた。杜弢の反逆の罪を赦して巴東監軍に任命された。


 ところが、杜弢が命を受け入れたのに、諸将は攻撃を止めようとしなかったことに杜弢は憤怒に耐えることができず、王運を殺してまた反し、その将・杜弘とこう張彦ちょうげんを送って臨川内史・謝摛しゃきんを殺させた。


 こうして豫章が攻略された。


 二月、荊州刺史・陶侃が巴陵で杜弢の将・王真おうしんを破った。


 杜弢の別将・杜弘とこうと張彦が臨川内史・謝摛と海昏で戦い、謝摛が敗戦して死んだ。


 三月、豫章内史・周訪しゅうほうが杜弘を撃って走らせ、陳で張彦を斬った。


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― 新着の感想 ―
[一言] 周玘が死ぬ前に息子だけに遺言するのではなく、一族を1枚岩にしていたら、さらに大きなうねりになったでしょうね。
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