荀灌
漢趙が大赦して嘉平五年から建元元年に改元した頃、漢趙の太弟・劉乂が住んでいる東宮(太子宮)・延明殿に血の雨が降った。
「不吉な」
劉义はこれを嫌い、太傅・崔瑋と太保・許遐に意見を求めると、二人はこう言った。
「陛下が過日に殿下を太弟としたのは、衆心を安んじたいと欲したからに過ぎず、その意思は久しく晋王(劉聡の子・劉粲)にあり、王公以下、これに迎合して、附いていない者はいません。今また前年に晋王を相国とし、その儀仗は威重で東宮を越えており、諸政務で彼を通さないものはなく、諸王が皆、営兵を置いて輔佐しているので、事勢(劉乂が後継者になるという趨勢)は既に去っていると言えます。殿下は帝位に立つことができないだけではなく、朝夕にも不測の危険があるので、早く計を立てるべきです。今、四衛の精兵(東宮に属す左・右・前・後四衛率の兵)は五千を下ることなく、相国は軽率なので、まさに刺客が一人いれば除くことができ、大将軍(劉粲の弟に当たる勃海王・劉敷が大将軍)は一日も外出しないことがないので、その営も襲って取ることができましょう。残りの王はそろって幼いので、容易に解決できます。もし殿下にその心があるなら、殿下が指揮すれば二万の精兵を得られます。鼓行(太鼓を敲いて前進すること)して雲龍門に入れば、皆が武器を逆に持って殿下を迎え入れることでしょう。大司馬(劉曜)も反対することはありません」
しかしながら劉乂は二人の意見に従わなかった。ここで彼は二人をその場で捕らえるか斬るべきだった。
東宮の舍人・荀裕が、崔瑋と許遐が劉乂に謀反を勧めたことを告発した。
漢趙の昭武帝・劉聡は崔瑋と許遐を逮捕して詔獄(皇帝の命令で逮捕した囚人を入れる牢獄)に送り、他の事を口実にして二人を殺した。
また、冠威将軍・卜抽に兵を率いて東宮を監守させ、劉乂が朝会に参加することを禁止した。
劉乂は憂懼してどうすればいいか分からなくなった。そこで、上表して庶人になる許可を乞い、あわせて諸子の封を除き、晋王を讃美して後嗣に立てることを請うたが、卜抽はこれらを全て抑えて報告しなかった。
漢趙の青州刺史・曹嶷が斉・魯間の郡県を全て得て、自ら臨菑を鎮守した。十余万の兵を有し、黄河に臨んで守備兵を置いた。
この動きに対して石勒は上表して、
「曹嶷は東方を割拠する志があるので、これを討つことを請います」
と称したが、昭武帝は石勒が曹嶷を滅ぼして勢力が拡大すれば、制御できなくなることを恐れ、許可しなかった。
昭武帝は中護軍・靳準の二人の娘・靳月光と靳月華を後宮に納れ、月光を上皇后に、劉貴妃を左皇后に、月華を右皇后に立てた。
左司隸・陳元達が諫言を行い、
「三后を並立するのは礼から外れています」
と主張すると、昭武帝は不快になり、陳元達を右光禄大夫に遷した。外に対しては昇格させて優遇・尊重を示したが、実際は権力を奪うための転任である。
すると、太尉・范隆らが皆、自分の位を陳元達に譲ることを請うた。
結局、昭武帝は陳元達を御史大夫・儀同三司(儀礼が三公と同格の地位)にした。
そんな中、靳月光に淫行があったため、陳元達が上奏した。昭武帝はやむなく靳月光を廃した。靳月光は慚愧して自殺した。
彼女の死を受け、昭武帝は陳元達を恨むようになった。
七月、石勒が濮陽を落として太守・韓弘を殺害した。
漢趙の大司馬・劉曜は上党を攻めたたため、劉琨が将を派遣して救わせた。
八月、劉曜と劉琨の軍が襄垣で戦い、劉琨の晋軍は敗戦した。
劉曜は陽曲に進攻しようとしたが、漢趙昭武帝が使者を派遣してこう伝えた。
「長安をまだ平定していない。それを先にするべきだ」
これにより、劉曜は引き還して蒲坂に駐屯した。
そのころ、荊州刺史・陶侃と杜弢が互いに攻撃しあっていた。
杜弢が王貢を出して戦いを挑ませると、陶侃が遠くからこう言った。
「杜弢は益州の小吏となったが、庫銭を盗用し、父が死んでも喪に赴かなかった。汝は本来、良人なのに(王貢は元陶侃の参軍)、なぜ彼に従うのだ。天下に白頭の賊がいないものだ(老齢の賊はいない、賊になったら老年を迎えられない、という意味である)」
王貢は馬に跨ろうとしていたところだったが、陶侃の言を聞き、表情を厳粛にさせて脚を下した。
陶侃は王貢を動かせると知り、再び使者を派遣して諭した。髪を切って信(信物。投降を受け入れる証)とした。
その結果、王貢は陶侃に降った。
杜弢は部衆が潰滅したため、遁走したが、その道中で死んだ。
陶侃は南平太守・應詹と共に進軍して長沙を攻略していった。こうして湘州が全て平定された。
丞相・司馬睿は承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって杜弢の指揮に従っていた者を赦し、王敦の位を鎮東大将軍に進め、都督江揚荊湘交広六州諸軍事・江州刺史を加えた。
王敦は自分で刺史以下の官員を選任するようになったため、驕慢で横柄な態度が増していった。
以前、王如が王敦に投降した時、王敦の従弟・王稜が王如の驍勇を愛していたため、自分の麾下に配すように請うた。
王敦は、
「この輩は険悪強暴で養い難く、汝は性が短気なので寛大に接することができない。かえって禍の元になるだろう」
と言ったが、王稜が頑なに求めたため、ついに王如を与えた。
王稜は王如を左右に置いて甚だ寵遇を加えた。
しかし王如がしばしば王敦の諸将と角射(射撃の競争)を行い、争いになったため、王稜が杖で打ったことがあった。王如はこれを深く恥とした。
王敦が秘かに異志を積もらせるようになると、王稜はいつも王敦を諫めていた。ところが王敦は王稜の考えが自分と異なることに憤怒し、秘かに人を送って王如を激発させ、王稜を殺すように差し向けた。
王如は閒宴(恐らく個人的な宴席)の機会に剣舞を披露して余興とすることを請い、王稜が許可したため、剣を舞わせて徐々に前に進んだ。王稜がこれを嫌って叱責したが、王如は直接前に向かって王稜を殺した。
王敦はこの事を聞くと驚いたふりをして、王如を捕えて誅殺した。
かつて梁州刺史・張光が死んだ時、それを聞いた晋の朝廷は侍中・第五猗を安南将軍・監荊梁益寧四州諸軍事・荊州刺史に任命し、武関から出させた。
すると、杜曾が襄陽で第五猗を迎え入れ、兄の子のために第五猗の娘を娶り、一万人の兵を集めて、第五猗と共に漢・沔(漢水・沔水一帯)を分割・占拠した。
荊州刺史・陶侃は杜弢を破ってから、勝ちに乗じて兵を進め、杜曾を撃ったたが、杜曾を軽んじる心があった。
司馬・魯恬が陶侃を諫めて、
「およそ戦というものは、まずその将を量るものです。今、使君の諸将には杜曾に及ぶ者がいないので、まだ容易に逼迫することはできません」
と言ったが、陶侃は従わず、進軍して石城(晋の羊祜が荊州を鎮守した時に建てた城)で杜曾を包囲した。
杜曾の軍は多くが騎兵であった。彼は秘かに城門を開いて騎馬を持って陶侃の陣を突破し、後ろに出てからまた戻って陶侃の陣を撃った。
それにより、陶侃軍の死者は数百人に上った。
杜曾は順陽に向かうことにした。馬から下りて陶侃に拝礼し、別れを告げて去っていった。
当時、荀崧(荀彧の玄孫)が都督荊州江北諸軍事として宛に駐屯していた。杜曾は兵を率いてその宛の荀崧を包囲した。
荀崧は兵が少なく食糧も尽きていたため、旧部下に当たる襄城太守・石覧に救援を求めようとした。
この際、荀崧の末娘で、若干十三歳・荀灌が鎧を纏い、彼の前に現れた。
「このわたくしが勇士数十人を指揮して包囲を突破してみせますわ」
そう言って、荀崧が止めようとするのを振り切って、彼女は城壁を越え、包囲に数十人と共に突撃を仕掛けた。
「おっほほほほほ」
彼女は大きな斧を振り回しながら、敵陣を進んでいった。
「小娘如きが」
そう言って、杜曾が立ちふさがった。
「あらあらはしたないこと、男子ならば紳士であるべきではありませんこと?」
「ふん」
杜曾が槍を振るう。その一撃を彼女は斧でそれを防ぐ。
「男子足る者、女子への踊りの誘いは花を愛でるようになさいませ」
そう言って荀灌は斧で槍を弾いた後、ぐるりと斧を体全体で振り回し、そのまま杜曾に向かって投げた。
「なっ」
杜曾は驚きながらその斧から逃れるため身を屈んだところで、
「ごめんあそばせ」
荀灌はその隙に逃走を図った。
「き、貴様」
「踊りの誘いはまた今度にしてくださいな」
ひらひらと手を振りながら彼女は馬に乗り、包囲を突破した。
「まだまだ敵は近くにいますわ。油断なさらず、行きますわよ」
「応」
彼女はそのまま駆け続け、ついに石覧がいる場所に到達した。
「着きましたわね。誰か筆と紙を持ってきなさいな。南中郎将にも書を出しますわ」
荀灌は荀崧に代わって書を準備し、南中郎将・周訪にも救援を求めた。
周訪は子の周撫を派遣して三千の兵を率いさせ、石覧と共に荀崧を助けさせることにした。
その結果、杜曾は遁走して去った。
杜曾は態度を改めて荀崧に書を送り、丹水の賊を討って朝廷のために働く機会を求めた。
荀崧はこれに同意した。
そのことを荀灌からの書簡から知った陶侃は荀崧に書を送ってこう伝えた。
「杜曾は凶暴にして狡猾で、いわゆる『自分の母を食べる鴟梟のような人物』です。この人が死ななかったら、州土は安寧になりません。あなたは私の言葉を識るべきです」
しかし、荀崧は宛中の兵が少なかったため、杜曾の勢力を借りて外援にしたいと考え、陶侃の意見に従わなかった。
結局、杜曾はまた流亡の者二千余人を率いて離叛して襄陽を包囲した。しかし数日経っても克てなかったため、引き還した。




