張光
楚公を称した胡亢は猜疑が多くて嫉妬深い性格だったため、驍将を数人殺した。
胡亢が竟陵太守に任命されていた杜曾はこれを懼れて秘かに荊州刺史を称している王沖の兵を招き、胡亢を攻めさせた。
胡亢は全ての精兵を出してこれを防がせた。
杜曾は城中が空虚になった隙に胡亢を殺し、その兵を併合した。
荊州刺史・周顗が潯水城に駐屯したが、杜弢に包囲されて困窮した。
武昌太守・陶侃は明威将軍・朱伺に周顗を救援させると、杜弢は退いて泠口を守った。
陶侃は、
「杜弢は必ずや陸路で武昌に向かうはずだ」
と言い、近道から郡に還って待機した。
果たして、杜弢が武昌に攻めて来たが、陶侃は朱伺に迎撃させて大破した。杜弢は遁走して長沙に帰った。
周顗が潯水を出て豫章の王敦に投じました。王敦は周顗を留めた。
陶侃が参軍・王貢を派遣して王敦に戦勝を告げると、王敦は、
「もし陶侯がいなかったら、荊州を失っていただろう」
と言って上表し、陶侃を荊州刺史にして沔江に駐屯させた。
左丞相・司馬睿は周顗を建康に招いて再び軍諮祭酒にした。
陶侃の参軍・王貢は王敦の所から還って竟陵に至ると、陶侃の命と偽って杜曾を前鋒大都督に任命し、王沖を撃って斬った。王沖の兵が全て投降した。
これを知った陶侃は事情を聴くため、杜曾を招いたが、杜曾は応じようとしなかった。
王貢は偽の命令を発したため、罪を得ることを恐れ、杜曾と共に反して陶侃を攻撃した。
十月、陶侃の兵は大敗し、陶侃はその身ひとつでなんとか逃れた。王敦は上表して陶侃の官位を解き、庶人の身で職務に就かせることにした。
これに奮起した陶侃は再び周訪らを率いて兵を進め、杜弢を撃って大破した。王敦が上奏して陶侃の官を元に戻した。
以前、氐王・楊茂搜の子・楊難敵が、養子を派遣して梁州で交易をさせたが、勝手に良人の子一人を売ったため、梁州刺史・張光に鞭で打たれて殺されてしまった。
楊難敵が怨んで言った。
「使君(張光)が来たばかりの時は、大荒の後だったため、兵民の命は我々氐人に頼って活き永らえることができたではないか。それなのに氐に小罪があっただけでも寛恕できないのか」
張光と楊虎が互いに攻撃しあうと、それぞれが楊茂搜に救援を求めた。
楊茂搜は楊難敵を派遣して張光を救おうとした。
しかし、楊難敵が張光に財貨を求めても、張光は与えなかった。
逆に楊虎は楊難敵に厚く賄賂を贈って、こう言った。
「流民の珍貨は、全て張光の所にある(晋邈が李運や王建を殺して奪った財物を指す)。今は私を伐つよりも、張光を伐つべきではないか?」
楊難敵は大いに喜んだ。
張光は楊虎と会戦した時、張孟萇を前に出して、楊難敵を後に続かせた。
楊難敵はこれを機に楊虎と共に張孟萇を挟撃して大破した。張孟萇と弟の張援が死に、張光は城に籠って守りを固めた。
九月、張光は憤激して病を患った。
僚属が張光に進言し、魏興に退いて拠点にするように勧めたが、張光は剣に手を置いて、
「私は国の重任を受けたのに、賊を討つことができなかった。今、死を得るのは登仙(仙人になること)するのと同じようなものだ。なぜ退けと言うのだ」
と言い、声が絶えるとともに死んでしまった。
胡三省は、
「張光は晋邈を信用したことによって賊を招いたが、その気烈は尊ぶべきである」
と評している。
州の人々は張光の少子・張邁を推して州の政事を統領させたが、張邁も氐と戦って没した。
衆人は始平太守・胡子序を推して梁州刺史を兼任させた。
楊虎と楊難敵が漢中を急攻し、胡子序は城を棄てて逃げた。楊難敵は梁州刺史を自称した。
漢趙の中山王・劉曜と趙染が黄白城で麴允を攻めた。麴允は連戦して全て敗れた。
西晋の愍帝・司馬鄴が詔を発して索綝を征東大将軍に任命し、兵を率いて麴允を助けさせた。
漢趙の趙染が中山王・劉曜に言った。
「麴允は大軍を率いて外にいます。長安が空虚になっているので、襲うことができましょう」
劉曜は趙染に精騎五千を率いて長安を襲わせた。
夜、趙染が外城に入った。愍帝は射雁楼に奔った。
趙染は龍尾(坂になった甬道(壁や天井に囲まれた通路))および諸営を焼き、千余人を殺したり捕えた。
翌朝、趙染が退いて逍遥園に駐屯した。
将軍・麴鑒が阿城(秦の阿房宮城があったところ)から五千の兵を率いて長安を救いに行った。
これを受けて、趙染が引き還すと、麴鑒が追撃した。零武で劉曜に遭遇して大敗した。
劉曜はこの戦勝に恃んで備えを設けなかった。麴允はその隙に兵を率いて劉曜を襲い、漢趙の兵が大敗した。晋軍が漢趙の冠軍将軍・喬智明を殺した。
劉曜は兵を率いて平陽に帰った。




